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 真昼の、真剣な眼差し。そして、無言で示された棚の隅——そこには、僕らの過去の亡霊、『退屈の正しい飼いならし方』が、何事もなかったかのように鎮座している。


 話がある、ということだろう。


 さっきまでの、悪戯っぽい雰囲気はもう消えていた。彼女の瞳の奥には、覚悟のような、あるいは、ずっと胸につかえていたものと向き合おうとする、真摯な光が宿っていた。

 文化祭の喧騒が、少しずつ遠のいていく。客足が途絶え、カフェの中には僕と真昼、そして他の係の生徒が数人残っているだけになった。片付けを始めるにはまだ少し早いが、ピークは過ぎたようだ。


「……少し、いいかな」

 真昼が、静かに僕に声をかけてきた。

「——ああ」

 僕らは、他の生徒たちから少し離れた、カフェの隅——彼女が作った「おすすめコーナー」の隣の、少しだけ死角になっているスペースへと移動した。


 古本の壁に囲まれた、小さな空間。まるで、図書室の最奥にあった、かつての僕の聖域を再現したかのようだ。

 彼女は、意を決したように、あの棚から『退屈——』を抜き取ってきた。そして、それを自分の手のひらの上で、じっと見つめている。


「……これのこと、ちゃんと話しておきたいって思ったの」

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

「——俺もだ」

 僕も、正直な気持ちを口にした。いつまでも過去の亡霊に怯えているのは、健全じゃない。


「あの時……」


 真昼は、言葉を選びながら、話し始めた。


「私、すごく怖かった。神谷くんに秘密を知られて……。どうすればいいか分からなくて……」

 彼女の指が、本の表紙をなぞる。

「だから、これを使った。……神谷くんを、黙らせるために。すごく、卑怯なやり方だったって、分かってる」

 声が、少し震えている。彼女は、あの時の自分の行動を、ずっと悔いていたのかもしれない。


「……いや」

 僕は首を振った。

「——卑怯だったのは、俺の方かもしれない」

「え……?」


「——俺は、君のことを見て見ぬふりしてた。面倒事だって、決めつけて。君が本当は何に苦しんでるかなんて、考えようともしなかった。……だから、君にああいう手段を取らせたのは、俺の責任でもある」

 そうだ。傍観者だった僕の責任だ。

「それに——」

 僕は続ける。これも、ずっと言えなかったことだ。

「——俺も、ただ面倒だと思ってただけじゃなかったんだ」


「……どういうこと?」

「——君が、夜中に街でやってたこと……。正直、最初は意味が分からなかった。馬鹿げてるって思った。でも、同時に——どこかで、少しだけ、羨ましかったのかもしれない」

「羨ましい……?」

「——ああ。俺にはできないやり方で、何かを表現しようとしてるのが。……歪んでたけど、必死だったんだろ。俺は、ただ退屈を飼いならすことしかできなかったからな」


 僕自身の、隠していた本音。それを口にするのは、少しだけ気恥ずかしかったが、今、この瞬間なら、言える気がした。

 真昼は、驚いたように僕を見ていた。そして、ゆっくりとその意味を咀嚼するように、何度か瞬きをした。


「……そう、だったんだ……」

 彼女の声は、掠れていた。

「知らなかった……。私、神谷くんは、私のこと、軽蔑してるんだって、ずっと思ってたから……」

「——軽蔑、か。まあ、そういう気持ちが全くなかったとは言わんが」


「やっぱりあるんだ」

 少しだけ、むっとしたように彼女が言う。

「——いや、そうじゃなくて」

 僕は慌てて付け加える。


「——ただ、分からなかったんだ。君のことも、自分の気持ちも。……だから、君がこの本を使って俺を脅してきた時も、本当は——少しだけ、面白がってたのかもしれない」

「ええっ!?」

 今度こそ、真昼は素っ頓狂な声を上げた。

「——いや、正確には、面白がってたというより……。君という人間の、予想外の行動に、目が離せなくなった、というか……。なんだ、こいつは、って。図書委員の仮面の下に、こんな顔も隠してたのか、ってな」

 僕の言葉に、真昼はぽかんとした顔をしていたが、やがて、その表情がふっと和らいだ。


「……そっか。……なんだ、神谷くんも、大概、失礼なこと考えてたんだね」

「——まあな」

 僕らは、どちらからともなく、小さく笑い合った。

 あの頃の、張り詰めた空気の中で交わされた、棘のある言葉たち。その裏にあった、互いの本当の気持ち。それが今、ようやく、穏やかな光の中で輪郭を結んだ気がした。


 過去は消せない。犯した過ちも、傷つけた言葉も。

 けれど、それを二人で共有し、理解し合うことはできる。

 沈黙が流れる。だが、それはもう、気まずいものではなかった。むしろ、言葉はいらない、というような、深い理解に満ちた静寂。


「……ありがとう、神谷くん」

 真昼が、静かに言った。

「話してくれて。……私も、話せてよかった」

「——ああ」

 僕も頷く。胸のつかえが、少しだけ、軽くなったような気がした。


 過去の清算。大げさかもしれないが、僕らにとっては、確かに必要な時間だったのだろう。

 真昼は、手に持っていた『退屈——』を、もう一度見つめた。そして、何かを決意したように、顔を上げた。


「これ、やっぱり——」

 彼女が何かを言いかけた、その時だった。


「すみませーん、この本、買えますか?」

 不意に、僕らの静寂を破る声がした。

 振り返ると、クラスメイトの女子が一人、僕らのすぐそばに立っていた。そして、彼女が指差していたのは——


 ——真昼の手の中にある、『退屈の正しい飼いならし方』だった。

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