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棚の隅で『退屈の正しい飼いならし方』を手に取った他校生らしき男子は、結局、タイトルを少し面白がっただけで、すぐに興味を失い他の棚へと去っていった。
——ふう、心臓に悪い。
僕は内心で悪態をつきつつ、カウンターの向こうで同じく安堵の表情を浮かべている真昼と視線を交わし、小さく肩をすくめ合った。
過去の亡霊は、意外とあっさり退散していったらしい。まあ、タイトルからして、今どきの中高生が積極的に手に取るような本ではないか。
気を取り直して、僕は再びレジ前の指定席から、カフェ——という名の、古本が散乱した教室——の様子を観察する。文化祭特有の、浮かれたような、それでいてどこか弛緩した空気が流れている。
そんな中、ひときわ静かな熱気を放っているのが、真昼の担当する「おすすめコーナー」だった。いつの間にか、数人の生徒がコーナーを取り囲み、真昼の説明に熱心に耳を傾けている。
「この作家さんの言葉選びって、すごく繊細で……。特にこの短編集は、日常の中に隠れた小さな光を見つけるような、そんな気持ちになれるんです」
彼女の声は、もう最初の頃のような震えはない。落ち着いていて、それでいて、本への愛情がしっかりと伝わってくる。
推薦する本を手に取り、客の目を見て話す姿は、もう以前の、常に何かに怯えていたような図書委員の面影は薄い。
(……やるじゃないか、如月)
僕は内心で、素直に感心していた。自分の言葉で、自分の好きなものを、他人に伝えようとしている。自分の殻の中に閉じこもっていた彼女からは、考えられなかった変化だ。
おすすめコーナーでの成功体験が、彼女をここまで饒舌に、そして表情豊かにさせているのだろうか。
ちょうど、おすすめした本が売れたのだろう。真昼が、少し嬉しそうな顔でレジにやってきた。僕が会計を済ませると、彼女はすぐには持ち場に戻らず、カウンターの隅に立って、僕が次の客の対応をするのを待っていた。そして、僕が顔を上げると、目が合った。
彼女は、にこっと悪戯っぽく笑いかけてきた。そして、周りには聞こえないくらいの小さな声で、「どう?」と口パクで尋ねてくる。
まるで、「私の仕事ぶり、ちゃんと見てた?」とでも言いたげな、少し挑戦的な、それでいて楽しそうな表情。以前の彼女からは想像もつかないような、積極性だ。
「——さあな。売上に貢献してるなら、それでいいんじゃないか」
僕はポーカーフェイスを装い、素っ気なく返す。内心の驚きを悟られたくはない。
『もう、神谷くんは素直じゃないなあ』
彼女は、また口パクでそう言うと、今度は小さく舌を出して見せた。そして、満足したようにくるりと背を向け、自分の持ち場へと戻っていく。
……なんだ、今の。完全にからかわれたぞ。
僕は自分の頬に熱が集まるのを感じ、それを誤魔化すように咳払いをした。心臓が、少しだけうるさい。
文化祭という非日常が、あるいは、自分の言葉で誰かと繋がれたという実感が、彼女をここまで大胆にさせているのかもしれない。堕天使でも図書委員でもない、第三の顔か? いや、これが本来の彼女に——。
昼休みを過ぎ、カフェが少し落ち着いた時間帯。僕は交代で休憩を取り、カウンターの後ろで買ってきた缶コーヒーを開ける。すると、真昼も休憩に入るらしく、僕の隣にやってきて、ポットから自分の分の紅茶を淹れ始めた。
「はい、神谷くんのコーヒー。インスタントだけど」
なぜか、彼女は僕の缶コーヒーを取り上げ、代わりに紙コップに入れたインスタントコーヒーを差し出してきた。
「——いや、これでいいんだが」
「いいからいいから。ブラックばっかり飲んでると体に悪いよ? 少しは甘いのも飲みなさいって」
有無を言わさぬ口調。世話焼きな一面もあるのか、こいつは。
「——余計なお世話だ」
僕は渋々、紙コップを受け取った。まあ、確かに温かいのはありがたい。
「ふふ、相変わらずだね。……ねえ、少しは、文化祭、楽しめてる?」
彼女は自分の紅茶を両手で包み込み、カウンターに背を預けながら尋ねてきた。その声のトーンも、以前より心なしか明るい。
「——楽しむ? 何度も言わせるな。これは労働だ」
「またまたー。さっき、おすすめコーナーのこと、ちょっと嬉しそうに見てたの、知ってるんだから」
「……見てない」
「見てたよーだ」
彼女は、僕の顔を覗き込むように、ぐっと距離を詰めてきた。紅茶の湯気と、彼女の柔らかな匂いが混じり合う。今日の彼女は、本当に距離感が近い。祭りの熱気に当てられたのか、それとも——。
「ねえ」
彼女は、さらに声を潜め、まるで秘密を共有するかのように、僕の耳元で囁いた。
「なんだか、昔みたいじゃない? こういう、ちょっとだけ悪いことしてるみたいな空気……」
吐息がかかるほどの近さ。その言葉の響き。僕の思考が、一瞬、白く染まる。
「——ね、パートナーさん?」
彼女は、ことさら楽しそうに、そう付け加えた。
昔——緊張と、恐怖と、歪んだ共犯関係しかなかったはずの、あの言葉。それを、今、こんな風に、からかうような響きで使うなんて。悪戯が成功した子供のような、無邪気な残酷さ。
「……っ、お前、わざとやってるだろ——」
僕は言葉を失い、ただ彼女を見つめ返すことしかできなかった。彼女の瞳の奥には、あの頃の危うさではなく、今の状況を楽しんでいるような、小悪魔的な光が踊っている。
……これが、抑圧から解放された彼女の、素の一面なのかもしれない。だとしたら、相当タチが悪い。
「ふふっ。……顔、真っ赤。純情なんだから、神谷くんは」
彼女は満足そうに笑うと、するりと僕から離れかけた。——が、その瞬間、僕の手が、反射的に彼女の腕を掴んでいた。今度こそ、逃がさない、というように。
「!」
真昼が驚いて僕を見る。掴んだ腕は、やはり驚くほど細い。
「——あまり、人をからかうな。……心臓に悪い」
僕の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
「……ご、ごめん。ちょっと、調子に乗りすぎた……かも」
さすがにやりすぎたと思ったのか、今度は彼女が素直に謝る。その顔も、さっきよりも明らかに赤い。悪戯が成功した喜びと、僕の予想外の反応への戸惑いが混じっているようだ。
僕らは、互いの腕を掴んだまま(僕は彼女の腕を、彼女は僕の掴んだ手を)、数秒間、見つめ合った。気まずいような、でも離しがたいような、甘酸っぱいような、奇妙な空気。
「……コーヒー、冷めるぞ」
僕が先に視線を逸らして言うと、彼女もはっとしたように手を離した。
「……う、うん。そうだね……!」
彼女は慌てて自分の紅茶を持って、おすすめコーナーへと戻っていった。その後ろ姿は、なんだか少し、わたわたしているように見えた。
……ったく。翻弄されっぱなしだ。
僕は残っていたぬるいコーヒーを一気に飲み干した。苦い。そして、やけに甘い後味が、舌の上に残っている。
休憩時間が終わり、カフェは再び賑わいを取り戻した。真昼は自分のコーナーで、少しだけぎこちない動きで、それでも懸命に客と向き合っている。
だが、僕の視線は、ふとした瞬間に、あの棚の隅へと吸い寄せられてしまう。
『退屈の正しい飼いならし方』。
過去の亡霊は、やはりまだそこにいる。
さっきまでの、他愛ないやり取り。確かに僕らの距離は縮まっている。けれど、それで全てが解決したわけじゃない。あの本が象徴する過去と、僕らはまだ、ちゃんと向き合っていない。
不意に、真昼がこちらを振り返り、僕と視線が合った。彼女は、何かを察したように、真剣な表情になる。そして、無言で、あの棚の隅を指差した。
——話がある。
そう言っているように、僕には見えた。今度こそ、逃げずに、向き合わなければならない時が来たのだ。




