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文化祭当日。
教室の扉を開けると、そこはもう昨日の混沌とした準備空間ではなかった。机はカフェテーブル風に配置され、壁には手作りの装飾と古本の表紙をコラージュしたポスター。
教室前方にはカウンターとレジ(という名の、ただの長机と電卓)が設置され、奥の一角には、真昼こだわりの「おすすめコーナー」が静かに主張している。全体的に、手作り感は満載だが、そこそこ「カフェっぽい」空間が出来上がっていた。まあ、文化祭レベルとしては上出来な方だろう。
「お、神谷、ちゃんと来たか。サボるかと思ったぞ」
クラスの実行委員の一人が、僕の顔を見るなり軽口を叩いてきた。
「——残念だったな。契約は守る主義だ」
僕は肩をすくめて応じ、指定された持ち場——すなわち、最も目立たず、客とのコミュニケーションが最小限で済みそうなレジ係——へと向かった。時給が出るわけでもないのに、ご苦労なことだ。
開店時間まであと少し。真昼は、自分の「おすすめコーナー」で最後の微調整を行っていた。POPの角度をミリ単位で直し、本の並び順を入れ替え、推薦文カードに誤字がないかチェックしている。その真剣な横顔は、昨日の完璧主義ぶりを思い出させたが、同時にどこか楽しんでいるようにも見えた。
「——なあ、客が来る前に燃え尽きるなよ」
僕がカウンターから声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「……大丈夫だから」
そう言って、彼女はカウンターの隣、飲み物担当の持ち場についた。その横顔は、緊張と、確かな期待で少しだけ上気しているように見えた。
やがて、開始を告げるチャイムが鳴り響き、廊下が急に騒がしくなる。文化祭という名の、年に一度の合法的なお祭り騒ぎの始まりだ。
ぞろぞろと、他のクラスの生徒や、おそらくは外部からの客も混じって、廊下を人々が流れていく。僕らの「古本カフェ」にも、最初の客が物珍しそうに入ってきた。
「いらっしゃいませー」
他の係の女子生徒が、少し上擦った声を上げる。僕は、ただ黙ってレジ(という名の電卓)の前に座り、流れていく人々を観察する。これもまあ、悪くない時間の潰し方だ。
カフェは、思ったよりも盛況だった。コーヒーの(インスタントだが)匂いと、古本の少し埃っぽい匂い、そして人々の穏やかなざわめきが、教室を満たしていく。
真昼のおすすめコーナーにも、興味を持ったらしい女子生徒が数人集まり、真昼が少し緊張しながらも、しかし自分の言葉で、選んだ本について語っている。その声は、以前の彼女からは想像できないほど、しっかりとした響きを持っていた。
その時だった。
カウンターの後ろに積まれた、追加の寄贈本が入った段ボール箱の中身を確認していた僕の手が、一冊の本の上で止まった。
無造作に置かれた、見覚えがありすぎる文庫本。
——『退屈の正しい飼いならし方』。
あの本だ。僕が最初に皮肉たっぷりに評し、そして——図書室で、この本の延滞をネタに真昼にやり込められ、存在しないはずの「本当の理由」とやらを盾に脅された、あの忌々しい記憶のトリガー。
くそっ、思い出すだけで顔が熱くなる。あの時の、彼女の冷静な、それでいて有無を言わせぬ圧力。完全に主導権を握られていた、あの屈辱。
僕は反射的に、真昼の方を見た。彼女もちょうど客を見送ったところで、こちらに気づいたようだ。僕が手にしている本を認めると、彼女の瞳が、わずかに揺れた。彼女にとっても、いい記憶ではないはずだ。
しかし、彼女の反応は僕の内心の動揺とは対照的だった。顔色は少し変わったかもしれないが、取り乱す様子はない。一呼吸置くと、静かに僕の方へ歩いてきた。
「……懐かしいね、これ」
彼女は、僕の手の中の本を見て、静かに言った。その声には、動揺よりも、どこか遠い過去を振り返るような響きがあった。
「——ああ。……まさか、こんな所で再会するとはな」
僕は努めて平静を装う。内心の恥ずかしさを悟られたくはない。
「……どうする?」
彼女の問いかけは、あくまで事務的だ。まるで、特別な意味などないかのように。
「——どうするって……」
僕は少しだけ言い淀む。あの時の記憶が邪魔をする。
「——普通に、棚に戻せばいい。……ただの、古本だろうが」
後半は、自分に言い聞かせるように、少しだけ語気が強くなったかもしれない。そうだ、ただの古本だ。それ以上でも、それ以下でもない。……はずだ。
真昼は、僕のそんな内心を見透かしたのか、あるいは単に同意したのか、僕の目をじっと見つめ、そして——ふっと息を吐くように、小さく頷いた。その口元に、ほんの一瞬、悪戯っぽい笑みが浮かんだように見えたのは、気のせいだろうか。
「……うん、そうだね」
彼女は僕の手からその本を受け取ると、特に隠すでもなく、他の文庫本が並ぶ棚へと歩いていく。そして、空いていたスペースに、ごく自然にそれを差し込んだ。
僕は何となく居心地が悪くて、カウンターの陰で一つ、小さく咳払いをした。
僕らが視線を交わした時、そこにはもう、先程までの微妙な緊張感はなかった。代わりに、共有した過去の記憶に対する、少しだけ気恥ずかしいような、それでいて「もう大丈夫だ」という暗黙の了解のようなものが流れていた。
カフェの営業は続く。真昼は持ち場に戻り、おすすめコーナーでの穏やかな接客を再開した。彼女が本の魅力を語る声は、伸びやかで、楽しそうだ。
僕もレジに戻り、時折訪れる客の対応をする。棚の隅に置かれた『退屈——』が視界に入ることもあったが、もうそれは「地雷」というよりは、少しばかり苦い味がする、古い栞のようなものに感じられた。
——そう、割り切ろうとしていた、のだが。
ふらりと店内を見て回っていた、制服の違う男子生徒が、こともあろうに、その棚の前で足を止めた。
そして、特に迷う様子もなく、その『退屈の正しい飼いならし方』を手に取った。
「へえ、こんなタイトルなんだ。『退屈の正しい飼いならし方』、か……。ちょっと気になるな」
——無邪気な声が、やけにクリアに響いた。
僕は思わず、「げっ」と小さな声を漏らしそうになり、カウンターの向こうでコーヒーを淹れていた真昼を見た。彼女もまた、苦笑とも呆れともつかない表情で、僕と視線を交わした。
どうやら、過去の亡霊は、そう簡単には成仏してくれないらしい。実に、面倒だ。
「退屈の正しい飼いならし方」は鼻につくような帯ですが「暇と退屈の倫理学」がモデルなので、気になる方は読んでみてください。いい本です。




