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03

 放課後。教室を脱いだ僕は、まるで校舎に置き忘れられた影みたいに廊下を滑った。

 家へ帰る直線ルートは退屈という名の舗装が完璧すぎる。だから今日はわざと曲がってみる。折れ曲がるだけで世界が違う——そう信じたいほど、僕の世界は昨日から歪んでいる。


 夕焼けは安売りの絵の具みたいに派手で薄い。日が沈む頃、街は別人格を呼び覚ます。ネオンの常夜灯。自販機の蛍光管。コンビニ前の白線。光が多いほど闇は濃く、闇が濃いほど人は嘘を吐きやすい。


 そんな哲学めいた独り言を、脳内ナレーションが勝手にしゃべっていると──


 《嘘つき》


 白いスプレー文字が視界を横断した。コンクリ壁にでかでかとプリントアウトされた心の叫び。乾きかけの塗膜から、ツンと鼻を刺す溶剤臭。昨日の残像がそのまま現実に重ね焼きされる。


 いや、これは昨日じゃない。フォントが違う。カーニングも甘い。つまり新作。犯人は近くにいる。


 僕は呼吸を潜ませ、音を立てないよう靴底を転がす。探偵ごっこなんて柄じゃない。でもごっこ遊びでもしなきゃ、我が人生ろくなイベントが起きないのだ。


 角を曲がった瞬間、視界が白に支配された。いや、正確には「ブロークンホワイト」。折れた翼を片方だけ背負う少女が、路地の真ん中で缶スプレーを振っていた。


 シャッ、シャッ、と2往復。

 歪んだ光輪が揺れるたび、ウィッグの長い銀髪がネオンを反射する。

 如月真昼。昼は地味で真面目な図書委員。夜は堕天使。二つのファイルを同時に開いた僕の脳味噌は、処理落ち寸前だ。


「……芸術活動中?」


 声は出た。出したのは僕だ。自覚が追い付くより先に言葉が落ちる。

 スプレーの噴射音が止まり、彼女の動きも凍った。振り向いたその目は、昼間の無味な瞳とは別物。ワンカップ日本酒くらい濁って危うい光。


「来ないで」


 吐息より軽い警告。それでも圧は重い。足が地面にピン留めされる。冗談抜きで釘を踏んだかと思うほど。


「別に行きたくて来たわけじゃ──」


 言い訳はノイズキャンセルされた。彼女が缶を構え直す。標的は壁でも自販機でもなく、僕。


「近づけば、吹きかけるよ。あなたの制服、真っ白に塗りつぶす」

「白はうちの校則カラーだから問題ないんじゃ?」

「でも延滞金は発生する」


 延滞金? 昨日の図書館ジョークをここでリプライしてくるとは。冗談を介した脅迫。なんてクリエイティブ。


「わかった。これ以上は踏み込まない」

「踏み込まない? 遅いよ。神谷くんは、もう私の秘密に靴跡つけたでしょう?」


 彼女の声は笑っていないのに、言葉だけが笑っている。背徳感でコーティングされたキャラメルみたいに甘くて苦い。


 サイレン。遠くで赤と青が交互に瞬く。パトカーが近づくたび、彼女は缶を背に隠し、片翼を震わせた。


「早く逃げて」

「逃げるのは君だろ」

「私は逃げ癖がつきすぎた。だから壊してる」


 言葉の意味を咀嚼する前に、サイレン音が路地の喉元に噛みついた。条件反射。僕の手が真昼の手首を掴む。冷たい。スプレー缶より軽い。


「来い」

「放して」

「嫌だ。面倒事嫌いの僕が、いま盛大に面倒事に飛び込んでるんだ。巻き込まれるなら二人セットじゃないと割に合わない」


 ギシ、とフェンスが鳴り、僕らは薄暗い建設中ビルの隙間へ滑り込んだ。息を止める。サイレンの影が通り過ぎる。

 静寂が戻るまで十秒。体感では十分年。


 闇の底で、彼女の翼が微かに揺れた。


「……どうして助けたの」

「面倒だから」

「嘘。面倒なら、見なかったことにするはず」

「……そうかも」


 沈黙。僕らの呼吸音だけが二倍速でループする。


 彼女は缶を投げ捨て、片翼を外した。折れたプラスチックの根元が月光に鈍く光る。


「神谷くん。共犯、してくれる?」

「ダメだ」

「どうして」

「共犯って言葉、安すぎる。割り勘にすらならない」

「じゃあ……」

「パートナーなら考える」


 自分でも背筋がぞわっとした。中二病か。いや、中二なんだから正しい。

 真昼は唇を噛み、そして――笑った。壊れかけの蛍光灯みたいな、明滅する微笑。


「わかった。パートナー」


 その瞬間、僕の中で何かがカチリと噛み合う音がした。傍観者が舞台袖からステージへ蹴り出されるクリック音。


 遠ざかるサイレン。ぶつかる視線。落ちる夜。

 ネオンの上、折れた翼が影を描き、偽りの羽ばたきを始める。


 世界は今、嘘で飛ぶ。僕らはその風に乗る。

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