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 文化祭前日。


 教室の空気は、いつもとは違う種類の熱気を帯びていた。チョークの粉ではなく、ペンキと段ボールと、それから根拠のない高揚感の匂いが混じり合っている。進学校製圧縮装置が、年に一度だけ「青春」という名のラベルを貼って、中身の多様性を(無理やり)アピールしようとする日。それが文化祭だ。


 当然、僕、神谷透にとっては、極力関わりたくないイベントの一つである。

 面倒事は避けたい。人混みは嫌いだ。クラスの妙な一体感には反吐が出る。


 ——はずだったのだが。


「神谷くん、そっちの段ボール、もう一つこっちに持ってきてくれる? 古い文学全集が入ってるやつ」


 声の主は、教室の奥で黙々と作業を進める如月真昼だ。僕がこの青春ごっこ(という名の強制労働)から逃亡せずにいる唯一にして最大の理由。


「……文学全集ね。どうせ誰も買わないだろ、そんなもの」


 僕は悪態をつきながらも、指示された段ボール箱——やけに重い——を彼女の足元へ運んだ。


「そんなことないよ。意外と掘り出し物目当ての人もいるかもしれないし」

「だといいな。不良在庫になったら、発案者のお前が責任取って全部持って帰れよ」

「……神谷くん、口、悪い」


 じろり、と軽く睨まれる。以前なら、こんな視線すら滅多に向けられなかったことを思うと、これも大きな進歩なのだろう。たぶん。


 僕らのクラスの出し物は「古本カフェ」。真昼が図書委員としての知識(と、おそらくは半ば押し付けられた責任感)から発案者の一人となり、実現した企画だ。

 しかし彼女は、単なる古本販売に留まらず、妙なこだわりを発揮し始めていた。自身が担当する「おすすめコーナー」の設営である。テーマは「夜明けを待つ君へ」。……僕への当てつけか、それとも無自覚か。判断は保留する。


 問題は、そのコーナーに添えるPOPや推薦文カードの作成に、彼女が尋常ではないエネルギーを注いでいることだ。


「うーん、この青は、まだ『夜』が深すぎる気がする……。もう少しだけ、希望の『白』を混ぜた方が……」


 カラーペンを何本も並べ、紙切れに何度も試し書きをしながら、彼女は真剣な表情で唸っている。まるで精密機器でも設計しているかのようだ。


「おい、如月。それ、いつまでやってるんだ? 神経使いすぎて、本番前に倒れるぞ」

「……神谷くんには、分からないかもしれないけど、こういうのは妥協できないの」

「どうせ自己満足だろ、それ」


 僕がいつもの調子で言うと、彼女はペンを置き、こちらを向いた。そして、静かに、しかし真っ直ぐな視線で言い返す。


「じゃあ、神谷くんは手伝ってくれるの? 口だけじゃなくて」

 ……ぐっ。核心を突かれた。手伝う気など、毛頭ない。


「……っ」

 言葉に詰まる僕を見て、彼女は小さく鼻を鳴らしたように見えた。


「……いや、俺は他の作業がある」

 僕はそそくさと、組み立て途中の本棚の方へ逃げた。どうにも、今の彼女には口で勝てそうにない。


 しかし、その本棚も安物で、説明書が分かりにくい。悪戦苦闘していると、いつの間にか隣に来ていた真昼が、僕の手元を覗き込んできた。


「あ、これ、向きが逆だよ、神谷くん」

「は? 合ってるだろ」

「合ってないってば。……もう、貸して」


 彼女は僕の手から部品を取り上げ、慣れた手つきで組み立てていく。


「……別に、俺だって少し考えればできた」


 負け惜しみを口にする僕に、彼女は呆れたような、面白がるような視線を向けた。


「ふーん? さっき『説明書が悪い』って言ってたけど?」


 ……しまった。墓穴を掘った。


「……それは、それだ」

 僕が苦し紛れに言うと、彼女は楽しそうに、ふふ、と笑った。


「はいはい、不器用な神谷くん。次は何をお手伝いしましょうか?」

 完全に遊ばれている。なんだか、主導権が逆転しているような……。いや、元々、彼女のペースに巻き込まれていたのか?


「…ん」

 僕はむくれて、床に転がった本棚の小さな部品を顎で指した。


 近くでPOPの色塗りを再開していた真昼が、僕の視線に気づき、すぐに立ち上がって、その部品を拾い上げ、黙って僕に手渡した。


「……どうも」

「……別に」


 この、言葉少なな連携だけは、健在らしい。

 少し離れた場所で作業していたクラスメイトが、僕らを見て苦笑している。


「なんかさー、神谷と如月さんって、やっぱり面白いよね。独特っていうか」


「「……」」


 僕らは顔を見合わせ、揃ってため息をついた。

 まあ、なんだ。面倒な文化祭には変わりないが、退屈する暇はなさそうだ。


 夕方、設営がほぼ完了した教室。真昼のこだわりが詰まった「おすすめコーナー」は、確かに他のやっつけ仕事とは一線を画す、静謐で知的な雰囲気を醸し出していた。


「…まあ、悪くはないんじゃないか」

 僕は素直な感想を口にした。

「……でしょ?」

 彼女は少し得意げに頷く。

「これで、一人でも多くの人が、本を手に取ってくれたら嬉しいんだけど」

 その横顔は、達成感と、明日に向けた確かな期待に輝いていた。


 ……たまには、こういう文化祭の熱気に浮かされるのも、悪くないのかもしれない。ほんの少しだけ、そう思った。

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