23
季節は、あの息詰まるような夜と、張り詰めた空気の数週間を置き去りにして、穏やかな初夏へと移り変わっていた。空は高く澄み渡り、日差しは白く、眩しい。世界は、何事もなかったかのように、ただ明るく輝いている。
僕と如月真昼は、並んで学校からの帰り道を歩いていた。
かつて僕が退屈と皮肉だけで眺めていた、ありふれた放課後の風景。だが今は、その一つ一つが、以前とは違う色彩を帯びて見えた。
隣を歩く真昼の横顔を盗み見る。
彼女は、少しだけ髪が伸びた。相変わらず物静かな雰囲気は変わらないけれど、以前のような、自分を押し殺したような硬さはない。表情は柔らかく、時折、道端の花や空を飛ぶ鳥に目を向けては、小さく息を呑む。その仕草は、まるで生まれたばかりの雛が、初めて世界に触れるかのようだ。
あの夜の絶叫と対決の後、彼女を取り巻く環境が劇的に変わったわけではない。父親との間には、まだ分厚い氷の壁があるだろうし、母親との関係も、一朝一夕には変わらないはずだ。カウンセリングにも、まだ通っていると聞く。
それでも、彼女は歩き出していた。自分の足で。光の差す方へ。
僕自身も、あの頃とは違う場所に立っている。
相変わらず、進学校の空気は肌に合わないし、世の中に対する冷めた視線が完全に消えたわけでもない。けれど、もう世界を斜めから眺めて、自分だけは安全地帯にいる、なんていう勘違いはしていない。面倒事の中に飛び込んで、傷ついて、それでも手を伸ばすことの意味を、僕は知ってしまったから。
「……神谷くん、さっきの数学の小テスト、どうだった?」
不意に、真昼が僕に話しかけてきた。その声は、以前の平坦な響きではなく、少しだけ明るいトーンを帯びている。
「さあな。たぶん、赤点ギリギリを回避する程度の、平凡な出来栄えじゃないか」
「ふふ、神谷くんらしいね」
彼女は悪戯っぽく笑った。僕の軽口に、こんな風に反応してくれるようになったのも、最近の変化だ。
「君はどうなんだ。また満点か? 優等生は違うな」
「ううん、今回はちょっと……難しかったかな」
彼女は少し照れたように視線を落とした。その頬が、夕日に照らされて、ほんのりと赤く染まっているように見えた。成績や評価という名の檻から、彼女も少しずつ自由になっているのかもしれない。
僕らは、他愛のない話をしながら、ゆっくりと歩く。
かつての、図書室での息詰まるような密談や、夜の街での危険な共犯関係とは、まるで違う時間。そこには、張り詰めた緊張感も、互いの腹を探り合うような疑心暗鬼もない。ただ、隣にいることの、穏やかで、確かな温もりだけがあった。
不意に、彼女が立ち止まり、空を見上げた。
つられて僕も見上げる。高く、どこまでも続く青い空。白い雲が、ゆっくりと流れていく。
「……綺麗」
彼女が、ぽつりと呟いた。
「ああ」
僕も頷く。
「まるで、安売りの絵の具とは違う、本物の空みたいだな」
僕の言葉に、彼女はきょとんとして、それから「なにそれ」と吹き出した。
そうだ。あの頃、僕が見ていた夕焼けは、安売りの絵の具みたいに派手で薄っぺらかった。僕自身の心が、そう見ていただけなのかもしれない。
今は違う。世界は、ちゃんと色を持っている。
僕らは再び歩き出す。影が、長く伸びて、二つ、ぴったりと寄り添っている。
未来がどうなるか、まだ分からない。彼女の心の傷が完全に癒えるには、もっと時間が必要だろう。僕らの関係も、これからどんな形になっていくのか、まだ名前はつけられない。
けれど、不安はない。
隣には、彼女がいる。
彼女の隣には、僕がいる。
それで、十分だった。
かつて、図書室の窓際で退屈を飼いならしていた僕。
夜の闇の中で、折れた翼を背負い、街を壊していた彼女。
僕らは、それぞれの檻から抜け出し、今、同じ日の光の中に立っている。
真昼の空の下。
風が、僕らの間を優しく吹き抜けていった。それは、新しい季節の始まりを告げる、爽やかな風のようだった。
そして、本当の“真昼”が、僕らの隣で、静かに始まった。
お読みくださり、ありがとうございました。
今後、いくつかエピローグ後のわちゃわちゃした話も書いてみたいと思います。
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