22
あれから、数週間が過ぎた。
季節は、足早に次のページをめくろうとしている。窓から差し込む光も、心なしか以前より柔らかい。僕らの進学校製圧縮装置は、相変わらず生徒たちを詰め込み、未来という名のベルトコンベアに乗せようと稼働し続けている。
けれど、僕の目に映る世界は、少しだけ色合いを変えていた。
放課後の図書室。僕の定位置は、今も最奥の窓際だ。しかし、そこにいる意味は、以前とはまったく違う。本の海に擬態して、誰からも見つからないように息を潜めるための場所ではなくなった。今はただ、静かに本を読むための、そして——隣に座る彼女の気配を感じるための場所。
如月真昼は、僕の隣で、静かに画集を広げていた。
数週間前、あの教室で見た儚い微笑み。あれは、終わりではなく、始まりの合図だった。彼女は、あの日以来、学校を休んではいない。もちろん、全てが元通りになったわけじゃない。顔にはまだ疲労の色が残り、時折、遠い目をして窓の外を眺めていることもある。父親との関係が、劇的に改善されたわけでもないだろう。
それでも、彼女は変わった。
以前のような、完璧だが生気のない仮面はもうない。かといって、夜の堕天使のような、危うい輝きもない。今の彼女は、もっとずっと静かで、自然だ。地味でおとなしい、という点では同じかもしれないが、それはもう、誰かに強いられた役割ではない。彼女自身が選んだ、穏やかな佇まい。
分厚い氷が、ゆっくりと溶け始めている。そんな気配がした。
時折、彼女は学校を早退することがあった。「カウンセリング」という言葉を、彼女自身の口から聞いたわけではない。けれど、僕が偶然見かけた、彼女のカバンから覗いていたパンフレットには、そういった支援機関の名前が記されていた。彼女は、自分の足で、再生への道を歩み始めているのだ。
「……この絵、綺麗だね」
僕が読んでいた文庫本から顔を上げると、彼女が画集のあるページを指差していた。淡い色彩で描かれた、夜明けの風景画。
「うん」
「夜が終わって、光が差してくる瞬間って、なんだか……ほっとするから」
その言葉には、彼女自身の経験が重なっているのかもしれない。長い、暗い夜を越えて、ようやく見え始めた光。
——『光が差してくる瞬間って、ほっとする』ね。そりゃ、一晩中スプレー片手に街を破壊して走り回ってれば、夜明けは待ち遠しいだろうさ……。
なんて、さすがに口には出せない。僕の皮肉(デバフ効果)は、今の彼女には毒にしかならないだろう。必要なのは、たぶん、共感(回復魔法)とか、そういうやつだ。柄じゃないが。
「お父さんとは……どうなんだ」
僕は、少し躊躇いながら尋ねた。踏み込みすぎるかもしれない、と思ったが、もう僕らは、互いの核心に触れることを避けて通れる関係ではない。
彼女は一瞬、表情を曇らせたが、すぐに静かな瞳で僕を見た。
「……前とは、少し違う。前みたいに、全部を支配しようとは……しなくなった、かな」
「……そうか」
「でも、まだ……。お母さんも、どうしていいか分からないみたいだし……。時間は、かかると思う」
簡単ではないだろう。長年の歪んだ関係は、そう簡単には修復できない。それでも、あの絶対的な支配に亀裂が入ったことは、大きな一歩のはずだ。地盤は揺らぎ、変化は始まっている。
僕自身も、変わった。
相変わらず、教室の喧騒や、進学校特有の欺瞞には辟易している。冷笑的な視線が完全に消えたわけでもない。
けれど、以前のように、全てを「他人事」として切り捨てることはなくなった。クラスメイトが困っていれば、自然と声をかけるようになったし、面倒だと思っていたグループワークにも、それなりに真面目に取り組むようになった。傍観者の席から降りてみれば、世界は意外と、捨てたものじゃないのかもしれない、なんて思うようにもなった。まあ、まだ慣れないけれど。
僕の変化は、隣にいる彼女の影響が大きい。彼女を守りたい、支えたいという気持ちが、僕を動かしている。それは義務感や同情だけではない。もっと確かな、絆のようなもの。あの夜、窓越しに交わした視線と、教室での微笑みが、僕らを新しい関係へと導いたのだ。
彼女は画集を閉じ、僕が読んでいた文庫本に目を留めた。
「それ、面白い?」
「まあまあ。退屈の飼いならし方、よりはマシかな」
僕がそう言うと、彼女はくすくすと、小さく笑った。その自然な笑顔に、僕の心も温かくなる。
図書室の窓から見える空は、雲が切れ始め、青空が広がっていた。午後の光が、僕らを柔らかく包み込む。
静かな時間が流れる。かつての共犯者としての緊張感はない。ただ、隣にいるだけで満たされるような、穏やかな時間。
ふと、彼女が顔を上げて、僕を見た。
「ねえ、神谷くん」
「……なんだ」
「これから……どうなるのかな」
その問いは、僕自身も考えていたことだった。彼女の家庭の問題。僕らの関係。そして、それぞれの未来。不確かなことばかりだ。
僕は、少し考えてから、答えた。
「さあな。とりあえず、俺たちが警察のお世話になったり、家庭裁判所に呼び出されたりしない未来を目指す、とか?」
彼女は半眼になって、じとっと僕を見た。
「……神谷くん、そういうとこ、変わらないね」
「これでも、かなり真剣に考えてるんだが。俺にとっては最重要リスク管理項目だ」
「はいはい」
彼女は呆れたように笑って、肩をすくめた。
「でも、そっか。そうだね……」
僕らは顔を見合わせ、どちらからともなく、小さく笑った。
深刻な未来予想図も、こうして軽口を叩き合えるなら、少しはマシかもしれない。
「……まあ、なんだ」
僕は少し照れくさくなって、視線を逸らした。
「一人じゃない。それだけは、確かだ」
僕の言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。そして、再び、あの日のような、穏やかで、けれど確かな光を宿した微笑みを浮かべた。
雪解けの足音は、まだ小さいかもしれない。再生への道は、遠いかもしれない。
けれど、僕らはもう、一人で歩いているわけじゃない。
光の差す方へ。二人で、一歩ずつ。




