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 息を切らして、僕は彼女の家の前にたどり着いた。冷たい雨上がりの空気が、火照った体に張り付く。心臓がまだ、激しく脈打っている。耳の奥には、電話越しに聞いた彼女の叫びと、父親の怒声、そして最後に響いた鈍い物音がこびりついていた。


 家は、静まり返っていた。


 外から見た限りでは、何の異変も感じられない。灯りはついているが、人の気配はほとんど感じられなかった。あの激しい対決があったとは、とても思えないほどの静寂。だが、それは嵐の後の、全てを押し流された後のような、重苦しい静けさだった。地盤が、音もなく揺らいでいるような気配。


 どうする? インターホンを押す? いや、それは自殺行為だ。父親が出てきたら終わりだ。

 僕は息を殺し、昨日と同じように裏手へと回った。庭木の影に身を潜め、二階の窓を見上げる。真昼の部屋と思われる窓。カーテンは閉まっている。中の様子は窺えない。


 彼女は、無事なのだろうか。


 あの後、どうなったのだろうか。


 父親は? 母親は?


 最悪の想像が、また鎌首をもたげる。それを振り払うように、僕はただ、窓を凝視し続けた。何か、ほんの小さな変化でもいい。彼女が無事であるというサインが欲しかった。


 時間は、粘り気を持って進んでいく。待つことしかできない、という状況は、これほどまでに神経をすり減らすものなのか。傍観者だった頃には、決して味わうことのなかった焦燥感。


 不意に、窓のカーテンが、わずかに動いた。

 僕は息を飲んだ。見間違いじゃない。カーテンの隙間から、人影が見える。


 真昼だ。


 彼女は、ゆっくりと窓際に立った。昨日とは違う。憔悴はしているが、あの時のように何かに怯えきった様子ではない。どこか、張り詰めていた糸が切れた後のような、虚脱感にも似た静けさを漂わせている。

 彼女の瞳は、ただ疲れているだけではなかった。嵐が過ぎ去った後の、凪いだ海のような静けさ。それは、長年彼女を縛り付けていた鎖が、一つ断ち切られた証のように見えた。


 彼女の視線が、庭の暗がりを探るように動いた。そして、僕の姿を捉える。

 僕らは、またしても窓ガラスを隔てて見つめ合った。

 言葉はない。けれど、視線だけで、多くのことが伝わってくる気がした。


 僕は、そっと頷いた。大丈夫か? と問うように。

 彼女は、しばらく僕を見つめた後、ほんのわずかに、こくりと頷き返した。そして、指で窓の内側をそっと撫でた。まるで、僕の頬に触れるかのように。冷たいガラス越しに、確かな温もりが伝わってくるような錯覚。

 その時、部屋の奥から、低く、くぐもった声が聞こえた気がした。父親の声だろうか。彼女の肩が、かすかに震える。まだ、恐怖は消えていない。地盤は揺らいだが、完全に崩れたわけではない。危険はすぐそばにある。


 それでも、彼女は僕から視線を逸らさなかった。そして、ゆっくりと、震える手で——Vサインを作って、僕に見せた。


 ピースサイン。あるいは、勝利のサイン。


 それはあまりにも不似合いで、けれど、今の彼女が示す精一杯の意思表示だった。大丈夫だ、と。負けなかった、と。これからだ、と。そんな声が、聞こえた気がした。凍てついていた彼女の世界に、小さな、けれど確かな亀裂が入った瞬間。


 僕の中で、何かが熱くなるのを感じた。そうだ。終わりじゃない。ここから始まるんだ。

 彼女は、慌てて僕に何かを伝えようと、口を動かした。声は聞こえない。だが、その唇の動きは、はっきりと読み取れた。


『また……あした』


 そして、彼女はカーテンを閉めた。窓の光が遮断され、薄いくぐもった膜のような布が現れた。


『また、あした』


 その言葉と、あのVサイン。それは、断絶の終わりと、未来への約束を意味していた。具体的な解決策はまだ見えない。父親という脅威も去ってはいない。それでも、彼女は明日へ繋ごうとしている。僕との繋がりを、保とうとしている。


 それだけで、十分だった。


 僕の中で、張り詰めていたものが、ゆっくりと解けていくのを感じた。安堵と、そしてこれから始まるであろう戦いへの、新たな決意。

 僕は、もう一度だけ窓を見上げ、そして静かにその場を離れた。

 家路を辿る足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽かった。心の中に、確かな熱が灯っている。それは、彼女の魂の叫びを受け止め、そして彼女と繋がれたという、静かな、しかし力強い熱だった。


 翌朝。教室のドアを開ける。

 彼女の席には——真昼が座っていた。

 昨日までの虚無や、硬質な能面とは違う。少しだけれど、血の色の戻った頬。まだ疲労の色は濃いが、その瞳には、確かに意志の光が宿っている。まるで、分厚い氷の下で、春を待つ草の芽のような、静かな強さ。


 僕が席に着くと、彼女は一瞬だけ、僕の方を見た。そして——ほんのわずかに、口元を綻ばせた。

 それは、笑顔と呼ぶにはあまりにもささやかで、儚いものだったかもしれない。けれど、それは間違いなく、僕らの間で交わされた、初めての穏やかな微笑みだった。作り物ではない、本当の感情の欠片。絶望の底から顔を出した、小さな希望の光。


 夜明けは、もうすぐそこまで来ている。

 僕らの歪んだ関係は終わり、新しい物語が、今、静かに始まろうとしていた。

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