表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/33

20

 雨は夜明け前に止んでいた。けれど、空は依然として低く、重たい雲がフィルターのように光を遮っている。まるで世界全体が息を潜めているような、不気味な静けさ。昨日、窓ガラス越しに感じた、か細いけれど確かな繋がりと、彼女の涙に濡れた決意。それが現実だったのか、それとも僕の願望が見せた幻だったのか。確信は持てない。


 学校へ向かう足は、昨日までとは違う種類の重さを引きずっていた。絶望的な無力感ではない。これから何かが起こるかもしれない、いや、起こさなければならないという、張り詰めた緊張感と、未知への不安。


 教室のドアを開ける。


 彼女の席は——空席だった。


 予想していたはずなのに、心臓が嫌な音を立てて軋む。父親に、さらに厳しく閉じ込められたのか。それとも……。

 授業の内容は、やはり頭に入ってこない。昨日までの虚無感とは違う。今は、アンテナを張り巡らせているような感覚だ。どんな些細な情報も見逃さないように。真昼に繋がる、何かの糸口を。


 昼休み。僕はスマホを何度も確認したが、何の通知もなかった。あの『たすけ』というメッセージ以降、彼女との繋がりは完全に断たれたまま。時間だけが、無情に過ぎていく。

 彼女は今、どうしている? あの家で、何をされている?

 想像は、常に最悪の方向へと転がっていく。


 放課後。僕は鞄を掴むと、まるで何かに引き寄せられるように、校門へと向かった。昨日と同じ場所。意味がないと分かっていても、足が止まらなかった。

 どうする? このまま彼女の家に向かうか? 何の当てもなく?

 立ち尽くし、空を見上げる。灰色の、希望のない空。


 その時だった。


 ポケットの中で、スマホがけたたましく震え出した。着信を告げるバイブレーション。


 表示された名前は——『如月 真昼』。


 全身の血が逆流するような衝撃。嘘だろ? 繋がるはずがない。父親に取り上げられたのではなかったのか?

 震える指で、画面をスワイプする。耳にスマホを押し当てた。


「……もしもし!?」


 僕の声は、自分でも驚くほど上擦っていた。


『……っ……は……ぁ……』


 電話の向こうから聞こえてきたのは、言葉にならない、荒い呼吸音と、押し殺したような嗚咽。ノイズが酷く、周囲の音はほとんど聞き取れない。だが、彼女の声であることは確かだった。


「如月!? どうした! 何があった!?」


『……ごめ……っ……かけちゃ……だめ、なのに……』


 声は涙で濡れ、途切れ途切れだ。


「今どこにいるんだ! 無事なのか!?」


『……へや……おとう、さん……が……』


 彼女の声の後ろで、低く、威圧的な男の声が聞こえた。父親だ。何かを詰問している。


「——だから言っているだろう! 私の顔に泥を塗って、お前はそれで満足なのか!?」


 真昼の、か細い返事が聞こえる。


『……ちが……』


「何が違う!? この日記はなんだ! 夜な夜な何をしていた!? あの男は誰なんだ!」 


 まずい。父親に見つかっている。そして、僕のことも知られたのかもしれない。


「如月! 逃げろ! 電話なんか切って――」


『……もう、むり……』


 彼女の声は、絶望の色を帯びていた。


『……聞いて……ほしくて……さいごに……』


 最後? 何を言うんだ。

 電話の向こうで、父親の怒声が響く。物が壊れるような音。真昼の短い悲鳴。


『やめて!』


『お前が! 全てを! 台無しにしたんだ!』


 聞いているだけで、腹の底から怒りが込み上げてくる。陰湿な言葉の暴力。これが、彼女を追い詰めたものの正体。


「如月! 言い返せ! お前は悪くない!」


 僕は受話器越しに叫んだ。届くはずもないのに。

 だが、その時。電話の向こうで、空気が変わったのが分かった。

 真昼の呼吸が、少しだけ落ち着きを取り戻す。そして、涙声の中に、確かな芯を持った声が響き始めた。


『……わたしは……お父さんの、人形じゃ、ない……!』


 それは、か細いながらも、明確な反抗の言葉だった。


『……なんだと……?』


 父親の声に、驚きと怒りが混じる。


『ずっと……! いい子にしてた! 言われた通りにしてきた! でも……!』


 声が震えながらも、大きくなっていく。


『もう、疲れたの……! 私の気持ちなんて、どうでもよかったんでしょ!? 成績が良ければ、大人しくしてれば、それで満足だったんでしょ!?』


『黙れ!』


『黙らない! 聞いてよ! 私が、どれだけ苦しかったか!』


 堰を切ったように、彼女の叫びが溢れ出す。それはもう、ただの被害者の悲鳴ではない。自分の言葉で、真実を叩きつけようとする、魂からのシャウトだった。


『夜に、あの格好をして街を壊してたのは……そうしないと、自分が自分でいられなかったから! 息ができなかったから!』


『薬を使ったのも……怖いことから逃げるため! 弱い自分をごまかすため!』


『でも、それしかできなかったの! お父さんが、私をそうさせたんじゃない!』


 そうだ、言え。全部ぶちまけろ。お前の本当の声を。僕の言葉が、昨夜の繋がりが、彼女の中で力になっている。


『嘘つきはお父さんの方だよ! 「お前のために」って言いながら、自分のことしか考えてない! 私を支配して、自分の理想を押し付けて!』


『……貴様あっ!』


 父親の怒りが、臨界点を超えたのが分かった。電話越しに、殺意に近い気配が伝わってくる。


『もう、あなたの言いなりにはならない!』


 真昼の叫びが、部屋に響き渡る。


『私は、あなたの道具じゃない!!』


 それは、堕天使の歪んだ翼ではなく、彼女自身の魂から発せられた、本物の声だった。長年溜め込んできた、抑圧への抵抗。人間としての尊厳を取り戻そうとする、最後の、そして最高の——


 ガシャン!


 激しい物音。何かが床に叩きつけられるような、鈍い音。

 そして、通話は唐突に途切れた。


「……如月!? おい! 如月!」


 僕は耳に押し当てたスマホに、何度も叫んだ。だが、返ってくるのは、ただの無機質な切断音だけ。

 父親の反応は? 真昼は無事なのか? あの最後の音は、一体……?


 最悪の想像が、脳裏を駆け巡る。


 だが、今は絶望している場合じゃない。彼女は戦ったのだ。自分の言葉で。僕の想いに応えて。

 場の空気は、確実に変わった。父親の絶対的な支配は、今、初めて揺らいだのだ。


 ここからだ。ここからが、本当の始まりだ。


 僕はスマホをポケットにねじ込み、駆け出した。行き先は決まっている。彼女の家だ。無謀? かもしれない。だが、もう傍観者ではいられない。彼女の叫びを聞いてしまった以上、僕もまた、当事者として、この物語の続きを紡がなければならない。


 空はまだ、重たい雲に覆われている。

 だが、雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいるような気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ