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雨は夜明け前に止んでいた。けれど、空は依然として低く、重たい雲がフィルターのように光を遮っている。まるで世界全体が息を潜めているような、不気味な静けさ。昨日、窓ガラス越しに感じた、か細いけれど確かな繋がりと、彼女の涙に濡れた決意。それが現実だったのか、それとも僕の願望が見せた幻だったのか。確信は持てない。
学校へ向かう足は、昨日までとは違う種類の重さを引きずっていた。絶望的な無力感ではない。これから何かが起こるかもしれない、いや、起こさなければならないという、張り詰めた緊張感と、未知への不安。
教室のドアを開ける。
彼女の席は——空席だった。
予想していたはずなのに、心臓が嫌な音を立てて軋む。父親に、さらに厳しく閉じ込められたのか。それとも……。
授業の内容は、やはり頭に入ってこない。昨日までの虚無感とは違う。今は、アンテナを張り巡らせているような感覚だ。どんな些細な情報も見逃さないように。真昼に繋がる、何かの糸口を。
昼休み。僕はスマホを何度も確認したが、何の通知もなかった。あの『たすけ』というメッセージ以降、彼女との繋がりは完全に断たれたまま。時間だけが、無情に過ぎていく。
彼女は今、どうしている? あの家で、何をされている?
想像は、常に最悪の方向へと転がっていく。
放課後。僕は鞄を掴むと、まるで何かに引き寄せられるように、校門へと向かった。昨日と同じ場所。意味がないと分かっていても、足が止まらなかった。
どうする? このまま彼女の家に向かうか? 何の当てもなく?
立ち尽くし、空を見上げる。灰色の、希望のない空。
その時だった。
ポケットの中で、スマホがけたたましく震え出した。着信を告げるバイブレーション。
表示された名前は——『如月 真昼』。
全身の血が逆流するような衝撃。嘘だろ? 繋がるはずがない。父親に取り上げられたのではなかったのか?
震える指で、画面をスワイプする。耳にスマホを押し当てた。
「……もしもし!?」
僕の声は、自分でも驚くほど上擦っていた。
『……っ……は……ぁ……』
電話の向こうから聞こえてきたのは、言葉にならない、荒い呼吸音と、押し殺したような嗚咽。ノイズが酷く、周囲の音はほとんど聞き取れない。だが、彼女の声であることは確かだった。
「如月!? どうした! 何があった!?」
『……ごめ……っ……かけちゃ……だめ、なのに……』
声は涙で濡れ、途切れ途切れだ。
「今どこにいるんだ! 無事なのか!?」
『……へや……おとう、さん……が……』
彼女の声の後ろで、低く、威圧的な男の声が聞こえた。父親だ。何かを詰問している。
「——だから言っているだろう! 私の顔に泥を塗って、お前はそれで満足なのか!?」
真昼の、か細い返事が聞こえる。
『……ちが……』
「何が違う!? この日記はなんだ! 夜な夜な何をしていた!? あの男は誰なんだ!」
まずい。父親に見つかっている。そして、僕のことも知られたのかもしれない。
「如月! 逃げろ! 電話なんか切って――」
『……もう、むり……』
彼女の声は、絶望の色を帯びていた。
『……聞いて……ほしくて……さいごに……』
最後? 何を言うんだ。
電話の向こうで、父親の怒声が響く。物が壊れるような音。真昼の短い悲鳴。
『やめて!』
『お前が! 全てを! 台無しにしたんだ!』
聞いているだけで、腹の底から怒りが込み上げてくる。陰湿な言葉の暴力。これが、彼女を追い詰めたものの正体。
「如月! 言い返せ! お前は悪くない!」
僕は受話器越しに叫んだ。届くはずもないのに。
だが、その時。電話の向こうで、空気が変わったのが分かった。
真昼の呼吸が、少しだけ落ち着きを取り戻す。そして、涙声の中に、確かな芯を持った声が響き始めた。
『……わたしは……お父さんの、人形じゃ、ない……!』
それは、か細いながらも、明確な反抗の言葉だった。
『……なんだと……?』
父親の声に、驚きと怒りが混じる。
『ずっと……! いい子にしてた! 言われた通りにしてきた! でも……!』
声が震えながらも、大きくなっていく。
『もう、疲れたの……! 私の気持ちなんて、どうでもよかったんでしょ!? 成績が良ければ、大人しくしてれば、それで満足だったんでしょ!?』
『黙れ!』
『黙らない! 聞いてよ! 私が、どれだけ苦しかったか!』
堰を切ったように、彼女の叫びが溢れ出す。それはもう、ただの被害者の悲鳴ではない。自分の言葉で、真実を叩きつけようとする、魂からのシャウトだった。
『夜に、あの格好をして街を壊してたのは……そうしないと、自分が自分でいられなかったから! 息ができなかったから!』
『薬を使ったのも……怖いことから逃げるため! 弱い自分をごまかすため!』
『でも、それしかできなかったの! お父さんが、私をそうさせたんじゃない!』
そうだ、言え。全部ぶちまけろ。お前の本当の声を。僕の言葉が、昨夜の繋がりが、彼女の中で力になっている。
『嘘つきはお父さんの方だよ! 「お前のために」って言いながら、自分のことしか考えてない! 私を支配して、自分の理想を押し付けて!』
『……貴様あっ!』
父親の怒りが、臨界点を超えたのが分かった。電話越しに、殺意に近い気配が伝わってくる。
『もう、あなたの言いなりにはならない!』
真昼の叫びが、部屋に響き渡る。
『私は、あなたの道具じゃない!!』
それは、堕天使の歪んだ翼ではなく、彼女自身の魂から発せられた、本物の声だった。長年溜め込んできた、抑圧への抵抗。人間としての尊厳を取り戻そうとする、最後の、そして最高の——
ガシャン!
激しい物音。何かが床に叩きつけられるような、鈍い音。
そして、通話は唐突に途切れた。
「……如月!? おい! 如月!」
僕は耳に押し当てたスマホに、何度も叫んだ。だが、返ってくるのは、ただの無機質な切断音だけ。
父親の反応は? 真昼は無事なのか? あの最後の音は、一体……?
最悪の想像が、脳裏を駆け巡る。
だが、今は絶望している場合じゃない。彼女は戦ったのだ。自分の言葉で。僕の想いに応えて。
場の空気は、確実に変わった。父親の絶対的な支配は、今、初めて揺らいだのだ。
ここからだ。ここからが、本当の始まりだ。
僕はスマホをポケットにねじ込み、駆け出した。行き先は決まっている。彼女の家だ。無謀? かもしれない。だが、もう傍観者ではいられない。彼女の叫びを聞いてしまった以上、僕もまた、当事者として、この物語の続きを紡がなければならない。
空はまだ、重たい雲に覆われている。
だが、雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいるような気がした。




