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02

 翌朝、教室の空気は常温保存された退屈そのものだった。HR前のざわめきは湯気の立たない味噌汁みたいにぬるく、僕はまだ昨夜の残像で脳内をチリチリと焦がされていた。


 あれは夢。いや、夢にしては生々しすぎるスプレー臭──嗅覚の記憶は嘘をつかない。


「おはよう、神谷くん」


 爽やかというより無味無臭の声が背後から降ってきた。振り返れば、如月真昼。

 彼女はいつも通りの優等生フル装備──前髪水平、リボン角度±ゼロ、笑顔はサービス業の鏡。目の下に薄いクマがある以外は、昨日と何ひとつ変わらない。「夜の顔」とは似ても似つかない。


「おはよう。昨日返した本、延滞金とか取られてない?」

「大丈夫。記録を書き換えておいたから」


 書き換え? 正攻法に見せかけた逸脱。それは図書委員としてアウトじゃないのか。

 僕が眉をひそめると、彼女は静かに微笑んだ。まるで「心配しないで。私は嘘の扱いに慣れてるから」とでも言うように。


 * * *


 休み時間。僕は図書室のカウンター前で立ち止まった。真昼が背を向けて貸出カードを整理している。白い指先。爪の端に、極細の絵具のような白いラインが残っていた。やっぱり消えていない。


「如月さん」

「なに?」


 振り返る動作は静かだが、声音が一瞬だけ硬質に跳ねた。心臓が小さく脈打つのが分かる。


「昨日さ、帰り道で落書き見たんだ。《嘘》って文字。スプレー、まだ乾いてなかった」


「そう」


 ただ一言。平坦すぎて、逆に意味深だ。僕は続ける。


「……君、絵とかやる?」

「やらない」

「スプレーアートは?」

「やらない」

「じゃあ──」

「神谷くん」


 彼女はカード束を机に置き、僕との距離を半歩詰めた。教室で見せる微笑は剥がれ、代わりに無表情という名の仮面が上書きされる。


「人には触れられたくない秘密があるよね」

「……あるかもね」


「きのうも、きょうも。神谷くんはとても観察眼が鋭い。でも鋭い目は、切っ先を間違えると自分を傷つける。私はそれを忠告したいだけ」


 優しい声色。けれど言葉は薄氷だ。踏み抜けば下は真っ暗。


「忠告、ありがとう」

「どういたしまして」


 彼女はいつの間にか笑っていた。完璧な優等生スマイル。さっきまでの冷気は跡形もなく溶けている。

 ──夜の堕天使と、昼の天使。どちらが偽物かなんて愚問だ。きっと両方とも本物で、両方とも嘘だ。


 僕はカウンターを辞し、席へ向かう途中で棚に手を伸ばす。抜き取ったのは『偽りの構造』。偶然じゃない。無意識が選んだ皮肉だ。

 ページをめくると、活字が全部「嘘」「嘘」「嘘」に見える。活字酔いしそうな眩暈──その奥で、昨夜の白い翼が羽ばたく音がした。


 静かな図書室。吊り下げ型時計の秒針が、誰にも気づかれず狂ったリズムを刻む。

 僕は思う。傍観者のままでは済まされない。けれど当事者になるには、あの折れた翼の重さを担ぐ覚悟がいる。


 ページの向こう、背後に気配。振り向くと真昼が本を差し出していた。『堕天使論──墜ちる者の心理』。


「これも面白いよ。期限は……守ってね」


 優等生の仮面越しに、ひどく哀しい笑みが零れた。

 その笑みはスプレーより真っ白で、嘘より鋭かった。

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