19
雨音だけが響く深夜。窓ガラス一枚を隔てて、僕と如月真昼は見つめ合っていた。彼女の憔悴しきった瞳。そこに一瞬宿った、驚きと困惑、そして微かな光。それは、絶望の闇の中に差し込んだ、予期せぬ一条の灯火のようだった。
声は出せない。言葉も交わせない。父親の監視があるかもしれない。近所の誰かが見ているかもしれない。リスクは計り知れない。
けれど、伝えなければならないことがあった。今、この瞬間に。僕自身の、本当の言葉を。
僕はポケットからスマホを取り出した。冷たい雨に濡れて、画面が滲む。指先がかじかんで、うまく操作できない。それでも、必死にメモアプリを起動させた。
何を書く? 何を伝える?
取り繕った言葉や、上辺だけの励ましは、今の彼女には届かないだろう。僕自身の弱さ、醜さ、そして本当の気持ちを、正直にぶつけるしかない。
震える指で、画面に文字を打ち込んでいく。まず、自分のことから。
『俺は、ずっと傍観者だった』
『面倒事を避けて、傷つくのが怖くて、いつも安全な場所から他人を見下してた』
『君のことも、最初はそうだった。面倒な奴だって』
一度指を止め、窓の向こうの彼女を見る。彼女は、僕が何をしているのか分からず、ただ不安げにこちらを見つめている。僕はスマホの画面を、彼女に見えるように掲げた。
彼女の目が、画面の文字を追う。眉間にわずかに皺が寄る。
僕は、さらに言葉を続けた。彼女への、複雑な感情。
『でも、本当は羨ましかったのかもしれない』
『君が、自分の存在を必死に刻みつけようとしてるのが。俺にはできないやり方で』
『君の夜の顔も、昼の顔も、どっちも君自身なんだって、今はわかる。苦しくて、もがいてる証なんだって』
彼女の瞳が、揺れた。唇が微かに震えている。僕の言葉が、彼女の心の壁を少しずつ溶かし始めているのだろうか。
そして、彼女の核心に触れたこと。
『君の日記を読んだ。勝手に。最低だって分かってる』
『でも、読まなきゃ分からなかった。君の本当の苦しみを』
『あの父親のことも。君がどれだけ傷ついてきたかも』
父親、という文字を打った瞬間、彼女の体がびくりと震えた。恐怖の色が再び瞳をよぎる。
最後に、今の僕の決意を。
『だから、もう傍観者でいるのはやめた』
『君を、助けたい。あの檻から、連れ出したい』
『俺は臆病で、無力かもしれない。何ができるか分からない』
『でも、もう君を一人にはしない』
最後の言葉を打ち込み、僕はスマホを強く握りしめた。そして、画面を再び彼女に向け、自分の胸を指差した。これが、俺の本心だ、と。
雨が、僕の顔を叩く。彼女の表情は、雨粒と窓ガラスのせいで、はっきりとは見えない。僕の言葉は、ちゃんと届いているのだろうか。独りよがりの感傷だと思われていないだろうか。不安が胸をよぎる。
どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも感じられる沈黙の後、彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、大粒の涙が止めどなく溢れ落ちていた。だが、それはもう、あの夜に見た絶望や自己嫌悪の色だけではなかった。硬く凍りついていた何かが、内側からゆっくりと溶け出していくような、そんな浄化されるような涙に見えた。固く結ばれていた唇がわずかに緩み、強張っていた肩から、ふっと力が抜ける。
彼女は、小さく、しかしはっきりと頷いた。一度、二度、三度。それは、僕の言葉を受け止めたという、確かな意思表示だった。そして、そっと、震える指先で、窓ガラスの内側に触れた。まるで、そこにいる僕の存在を確かめるかのように。冷たいガラス越しに、彼女の微かな体温が伝わってくるような錯覚を覚えた。
次に、彼女は何かを伝えようと、震える唇を動かした。声は、雨音に阻まれてほとんど聞こえない。けれど、その懸命な口の動きと、涙に濡れた瞳の真摯な光から、その言葉ははっきりと読み取れた。
『……あり、がとう』
その瞬間、僕の心臓が大きく脈打った。伝わったのだ。僕の拙く、正直なだけの言葉が、閉ざされた彼女の心に、確かに届いたのだ。
涙で滲む彼女の瞳の奥に、僕は確かな光を見た。それはまだ、頼りなく揺らめく小さな灯火かもしれない。けれど、それは間違いなく、絶望に抗い、立ち上がろうとする意志の光だった。彼女の中で、何かが変わろうとしている。反撃の狼煙は、今、静かに、しかし確かに上がったのだ。
あとは、彼女自身の声で、あの分厚い檻を壊すだけだ。そのための勇気の欠片は、今、彼女の心に灯ったはずだ。僕の言葉が、その小さな火付け役になれたのだとしたら……。
そして、最後に、もう一度。
彼女は僕の名前を呼んだ。あの夜、意識の狭間で聞いた声よりも、ほんの少しだけ強く、確かな響きを持って。
「……かみや、くん……」
その声は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。けれど、僕の耳には、そして心の奥深くに、はっきりと届いた。それは、助けを求める声であり、信頼を寄せる声であり、そして、共に戦う覚悟を決めた声のようにも聞こえた。
僕は力強く頷き返し、雨の中、音もなくその場を後にした。
冷たい雨は、もう気にならなかった。僕の心の中には、彼女から受け取った、確かな熱と、揺るぎない希望が灯っていたからだ。




