17
……まだ、終わらせない。
鏡の中の自分に告げた言葉は、暗闇の中に灯った小さな火種のように、僕の中で静かに燃え続けていた。傍観者の仮面は砕け散り、後には「行動する」という、ただそれだけの、しかし確かな意志が残った。
だが、意志だけでは現実は動かない。
自室に戻り、ベッドに腰を下ろす。さて、どうするか。如月真昼は、父親という名の檻の中に完全に閉じ込められている。連絡手段はない。彼女の家の場所すら、僕は知らない。正面突破など、無謀にもほどがある。父親は手強いだろう。おそらく、僕のような子供が太刀打ちできる相手ではない。
手詰まりか?
いや、何かあるはずだ。彼女に繋がる、細い糸が。
僕は、あの夜、図書室の準備室で彼女のカバンから取り出した、あの日記帳を再び手に取った。一度は読んだ。だが、あの時は衝撃と混乱の中で、ただ事実を追うだけで精一杯だった。もう一度、読み返してみる。彼女の言葉の中に、何かヒントが隠されているかもしれない。
ページを捲る。几帳面な、けれど時折感情の奔流に乱される文字。父親からの精神的支配の記録。夜の堕天使としての破壊の記録。薬への依存。孤独と絶望。
読み進めるうちに、以前は気づかなかった、あるいは読み飛ばしていた部分が、妙に目に留まるようになった。
破壊活動の記録の中に混じる、奇妙な記述。
『あの壁の《嘘》は、本当は私の声なのに』
『壊すだけじゃ足りない。本当は、気づいてほしいだけなのかも』
薬に関する記述。
『これがないと飛べない。でも、飛んだ先には何もない』
『いつか、翼がなくても飛べる日が来るのだろうか』
そして、僕に関する記述。
『あの人も、傍観者。でも、他の人とは少し違う気がする』
『目撃者。共犯者。……それだけ?』
『もし、あの人が本当にパートナーなら……』
言葉は断片的で、多くは疑問形で終わっている。彼女自身も、自分の感情を持て余していたのだろう。だが、そこには、単なる破壊衝動や絶望だけではない、別の何かが確かに存在していた。
それは、声にならない叫び。
歪んだ現状を変えたいという、か細い渇望。
誰かに、本当の自分を見つけてほしいという、孤独な願い。
そして、僕に対する、ほんのわずかな期待……あるいは、戸惑い。
これは、彼女が絶望の淵から発していた、静寂の中の微かな響き。
僕は今まで、それに気づかずにいた。彼女の派手な夜の顔や、完璧な昼の仮面にばかり気を取られて、その奥にある、か細い本音を聞き逃していたのだ。
『たすけ』
最後に送られてきた、あの短いメッセージ。あれは、単なるSOSではなかったのかもしれない。僕という、唯一秘密を共有する相手に向けられた、最後の信頼の証だったのかもしれない。
僕の決意が、確信へと変わっていく。
彼女を救う。それは、僕の一方的な自己満足じゃない。彼女自身の、声にならない叫びに、僕が応えるということなのだ。たとえ彼女が今、絶望の底に沈んでいたとしても、僕が手を伸ばすことを、心のどこかで待っているかもしれない。
腹の底から、新たな力が湧き上がってくるのを感じた。無力感に苛まれていた心が、確かな目標を持つことで、再び動き始める。
問題は、どうやって行動するか、だ。
彼女に接触する方法。
父親の監視を掻い潜る方法。
そして、彼女をあの檻から解放する方法。
どれも、一筋縄ではいかないだろう。リスクも大きい。僕一人でできることには限界がある。
まずは、情報収集が必要だ。彼女の家の場所。父親のこと。学校内の情報。使えるものは、何でも使う。
次に、接触の試み。メッセージや電話がダメなら、別の方法を考える。手紙? 誰か他の生徒を介する? いや、リスクが高すぎる。もっと直接的で、確実な方法……。
そして、最終的に、彼女をどうやって救い出すか。物理的に連れ出す? それとも、外部の機関(警察? 児童相談所?)に助けを求める? それぞれにメリットとデメリットがある。あらゆる可能性も考慮しなければならない。
思考が、具体的な計画の断片を紡ぎ始める。一つ一つのピースはまだ小さく、頼りない。だが、それらを組み合わせ、形にしていく。危険なパズル。失敗は許されない。
僕は机に向かい、白紙のノートを開いた。ペンを握る手に、力がこもる。
傍観者の時間は終わった。
今度は、僕が物語を動かす番だ。
窓の外は、まだ暗い。だが、東の空が、わずかに白み始めているのが見えた。夜明けは、近いのかもしれない。




