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「邪魔しないで」
氷のように冷たい拒絶の言葉と、雨の中に消えていく彼女の背中。僕の制止を振り切り、彼女は夜の闇へと飛び込んでいった。最後の、最も危険な抵抗のために。
雨脚は強まる一方だった。冷たい滴が容赦なく僕の体を打ちつけ、体温を奪っていく。だが、それ以上に心の芯が冷え切っていくのを感じていた。
追いかけるべきだったのか? 無理やりにでも止めるべきだったのか?
いや、できなかった。彼女のあの瞳を見た後では。憎しみと絶望と、そして自らを破壊することも厭わない、硬い決意の光。僕の言葉など、もう彼女には届かない。
後悔が、じわりと胸に広がっていく。無力感が、重い鎖のように手足に絡みつく。僕は結局、またしても傍観者だった。いや、今回は違う。彼女を止められなかった時点で、僕はもう、彼女の破滅の共犯者だ。
どれくらいそうしていただろうか。全身が冷え切り、感覚が麻痺し始めた頃、僕はようやく重い足を引きずって、家路についた。雨音だけが、やけに大きく耳について離れない。
家に帰り着き、シャワーを浴びても、体の芯の冷えは取れなかった。自室のベッドに倒れ込む。時計はもう、深夜を指そうとしていた。
眠れるはずもなかった。真昼のことが頭から離れない。今頃、彼女はどこで何をしている? あのメモにあった場所に、スプレーを手にしているのだろうか。それとも……。
最悪の事態ばかりが頭をよぎる。父親に見つかったら? 警察に捕まったら? あるいは、自暴自棄になって、もっと取り返しのつかないことを……。
僕にできることは何もない。ただ、祈るように、スマホの画面を見つめるだけ。彼女からの連絡を待つ、というにはあまりに望み薄で、ただ時間を浪費しているだけだ。
その時だった。
ブルッ、と短いバイブレーション。
画面に表示された通知に、心臓が跳ね上がった。
如月真昼。
慌ててメッセージアプリを開く。受信したメッセージは、たった一言。
『たすけ』
ひらがなで、途切れたような、切羽詰まったメッセージ。
何があった!?
僕は震える指で、返信を打ち込んだ。『どうした!?』『どこにいる!?』『何かあったのか!?』矢継ぎ早に送る。送信自体は、される。だが――。
いつまで待っても、メッセージに既読マークがつかない。
まるで、僕の送った言葉が、分厚い壁に阻まれて、彼女の元へ届いていないかのようだ。
嫌な予感が、急速に膨れ上がっていく。
通話履歴から、彼女の番号をタップする。コール音が鳴る前に、無機質なアナウンスが流れた。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため、かかりません』
嘘だ。さっきまでメッセージを送ってきたはずだ。電波が届かない? 電源が入っていない? そんなはずはない。
何が起きている?
最悪の想像が、現実味を帯びて襲いかかってくる。
彼女の「最後の抵抗」は、失敗したのだ。父親に、見つかった。捕まった。そして……。
あのメモ。《支配者》《偽善者》《人形じゃない》。あれが父親に見られたとしたら? 彼女の部屋から、日記や、スプレー缶や、あるいは僕とのやり取りの記録が見つかったとしたら?
父親は、全ての秘密を知ったのだ。彼女の夜の顔。破壊活動。そして、僕という共犯者の存在も。
父親の怒り。校門で見た、あの冷徹な目の奥に宿る、底なしの支配欲と怒り。それが今、彼女に向けられている。
『たすけ』
あの短いメッセージは、彼女が父親に全てを暴かれ、スマホを取り上げられる寸前に、最後の力を振り絞って送ったSOSだったのではないか。
僕の指は、無意識に彼女の番号を何度もリダイヤルしていた。だが、返ってくるのは冷たいアナウンスだけ。メッセージを送っても、既読マークは永遠につかないだろう。
解ける糸。暴かれる全て。
僕と彼女を繋いでいた、細く、危うい糸は、完全に断ち切られてしまった。
彼女は今、どうしている? 父親の閉じた世界の中で、どんな仕打ちを受けている? 想像するだけで、全身の血の気が引いていく。
助けに行かなければ。
でも、どうやって? 僕に何ができる?
無力感。昨日までの比ではない、絶対的な無力感。それが、暗い海の底から浮上してくる巨大な怪物のように、僕の心を覆い尽くしていく。
窓の外では、雨がまだ降り続いていた。止む気配はない。
長い、長い夜が始まった。僕にとって、そしておそらく彼女にとっても、これまでで最も暗く、絶望的な夜が。




