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「お父さんが……今すぐ帰ってこいって……」
悲鳴に近い声。純粋な恐怖に染まった瞳が、僕を映している。父親という、姿の見えない絶対的な存在に対する、抗いがたい怯え。
「無理だろ、その状態で! 今帰ったら……!」
「でも……! 帰らないと……!」
彼女は僕の腕を振りほどこうともがいた。オーバードーズの直後とは思えない、火事場の馬鹿力。いや、恐怖が生み出す力か。
「帰らなかったら……もっとひどいことになる……!」
「だからって!」
僕は彼女の肩を掴んだ。離すまいと。
「俺の家に来い、と言っただろ! 今夜だけでも!」
「嫌だ! あなたの家に……行けるわけない!」
「じゃあどうするんだ! ここに居続けるわけにもいかない!」
僕らは睨み合った。いや、彼女は僕を見ていなかったかもしれない。その瞳は、僕の背後にある何か、あるいは彼女自身の内にある恐怖の対象を見ているようだった。
「……もう、ほっといて」
彼女は、震える声で言った。
「あなたには、関係ないことだから」
「関係なくない! 俺は……パートナーだろ」
口から出た「パートナー」という言葉が、ひどく空々しく響いた。もう、そんな甘っちょろい関係じゃない。僕は彼女の秘密の核心を知り、彼女を救うと決めた。一方的に。
「……パートナーだから、何?」
彼女は、力なく笑ったように見えた。
「あなたも巻き込まれたいの? 私のお父さんがどういう人か、知らないでしょ」
知らない。だが、彼女の怯え方を見れば、想像はつく。常軌を逸した支配者。娘を人形のように扱う、冷酷な人間。
「それでも……!」
「もう、やめて」
彼女は僕の手を、今度は強く振り払った。そして、ふらつく足取りで、出口へと向かう。
「待て! 如月!」
呼び止める僕の声に、彼女は一度だけ足を止め、振り返った。
その瞳には、もう何の感情も浮かんでいなかった。ただ、深い、深い諦めだけが、闇のように淀んでいた。
「……さよなら、神谷くん」
そう言って、彼女は今度こそ、図書室の奥から消えていった。残されたのは、床に散らばった白い錠剤と、彼女の日記、そして僕のブレザー。それから、どうしようもない無力感と、腹の底で渦巻く、行き場のない怒り。
追いかけることはできなかった。いや、しなかった。彼女を無理やり連れて行ったとして、その後どうする? 僕の家に匿う? 親にどう説明する? 現実的な問題が、重い鎖のように僕の足に絡みついていた。
結局、僕はただの傍観者なのか? 決意なんて、口先だけだったのか?
床に落ちた彼女の日記を拾い上げる。ずしりと重い。これは、彼女の魂の重さなのかもしれない。僕はそれを、彼女の学生カバンにそっと戻した。散らばった錠剤も、ティッシュに包んでポケットに押し込む。証拠隠滅、というよりは、彼女の痕跡を消してやりたいという、感傷的な思いからだったかもしれない。
誰もいなくなった図書室は、墓場のように静かだった。
* * *
翌日、学校に来るのが怖かった。彼女の姿がなかったらどうしよう、という不安。そして、もし彼女がいたとして、どんな顔で会えばいいのか分からない気まずさ。
教室のドアを開けると、彼女はいた。自分の席に、昨日と同じように座っていた。
だが、その様子は明らかに異常だった。生気というものが、完全に抜け落ちている。顔色は昨日よりもさらに悪く、目は虚ろで、焦点が合っていない。まるで、魂だけがどこかへ行ってしまった抜け殻のようだ。僕と目が合っても、何の反応も示さない。完全に壁を作られている。いや、壁を作る気力すら、もうないのかもしれない。
休み時間、クラスメイトたちがひそひそと噂しているのが聞こえてきた。
「如月さん、大丈夫かな……」
「なんか、最近ずっと様子おかしいよね」
「親がめちゃくちゃ厳しいって話、聞いたことあるけど……」
「昨日、神谷となんか話してなかった?」
僕の名前が出た瞬間、周囲の視線が突き刺さるのを感じた。居心地が悪い。苛立ちが募る。お前らに何が分かる、と叫び出したかったが、そんなことをする権利は僕にはない。
真昼は、一日中、ほとんど動かなかった。授業も上の空。昼休みも、席を立つことすらしなかった。まるで、世界から自分を切り離そうとしているかのように。
放課後。僕は、逃げるように教室を出た。昨日と同じ轍は踏まない。下手に近づけば、彼女をさらに追い詰めるだけかもしれない。僕にできることは、今は何もない。そう自分に言い聞かせながら、重い足取りで昇降口へ向かった。
校門を出ようとした、その時だった。
見慣れない黒いセダンが、校門のすぐ脇に停まっていた。そして、その車の横で、小柄な少女が、背の高い男に何かを厳しく問い詰められている。
真昼だ。
そして、男は……父親か。
男は、一見すると温和そうな、知的な雰囲気の人物に見えた。おそらく、彼女の学校の教師だと言われても信じてしまいそうな、きちんとした身なり。だが、その目に宿る光は冷たく、真昼に向けられる口調は、距離があっても分かるほど威圧的だった。外面の良さと、内に秘めた冷酷さ。そのギャップが、男の異常性を際立たせている。
真昼は、父親の前で完全に萎縮していた。俯き、小さく震え、ただ父親の言葉を聞いているだけ。反論する様子も、逃げ出す素振りもない。まるで、檻の中の小動物だ。
僕は、数メートル離れた場所から、その光景をただ見ていることしかできなかった。
近づけない。声をかけられない。父親の冷たい視線が、僕のような部外者を寄せ付けないオーラを放っている。
無力感。
昨日、図書室で感じたものよりも、さらに深く、重い無力感が、全身を支配する。
同時に、腹の底から静かな怒りが湧き上がってくるのを感じた。あの男に対する、どうしようもない怒り。
結局、僕は何もできないのか。
彼女が壊れていくのを、ただ見ていることしかできないのか。
父親に促され、真昼は力なくセダンの後部座席に乗り込んだ。車が静かに走り去っていく。
僕は、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
夕焼けが、やけに目に染みた。それは安売りの絵の具なんかじゃなく、まるで血の色みたいに、不吉な赤色をしていた。




