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「……かみや、くん……?」


 ほとんど息のような、か細い声。虚ろな瞳が、僕の手元にあるノート――彼女の秘密が詰まった――を捉えている。

 心臓が跳ねた。見られた。読んでいたことを、気づかれた。

 咄嗟にノートを閉じ、背中に隠す。馬鹿げた行動だ。もう遅いのに。


「……き、気がついたのか」


 我ながら、間抜けな声が出た。動揺を隠しきれない。

 真昼はゆっくりと瞬きを数回繰り返した。まだ意識は混濁しているようだが、徐々に状況を認識し始めている顔つきだ。自分がどこにいるのか。なぜ横になっているのか。そして、僕がなぜここにいて、彼女のノートを手にしていたのか。

 彼女の視線が、床に転がったタブレットケースと散らばった錠剤に向けられた。そして、再び僕の顔へ。その瞳に、急速に色が戻っていく。だが、それは生気の色ではない。羞恥、怒り、絶望、そして深い自己嫌悪。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合った、暗い色。


「……見たの」


 声は、まだ弱々しい。けれど、その響きには明確な非難が込められていた。


「……ああ」


 嘘はつけなかった。僕は短く頷く。

 彼女の唇がわなないた。何か罵詈雑言を浴びせようとして、しかし言葉にならない。代わりに、その瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちた。抵抗する気力すら、もう残っていないのかもしれない。


「……最低」

 絞り出すような声。それは僕に向けられたものか、それとも自分自身に向けられたものか。


「……悪かった」

 謝罪の言葉が、何の慰めにもならないことは分かっていた。それでも、そう言うしかなかった。


「君を……助けたくて。何があったのか知りたくて……」

 言い訳がましい言葉が続く。聞いている自分でも、虫がいいと思う。


 彼女は何も答えなかった。ただ、顔を背け、壁の方を向いてしまった。拒絶。その意思表示は、どんな罵声よりも雄弁だった。

 重苦しい沈黙が、狭い空間に満ちる。窓の外はもう、ほとんど闇に包まれていた。図書室の蛍光灯だけが、白々しく僕らを照らしている。


 関係性は、変わってしまった。もう、ただの不本意な共犯者パートナーではいられない。僕は彼女の最も深い秘密を知ってしまった。そして、彼女もそれを知っている。この気まずさは、もう決して消えないだろう。

 だが、同時に、僕の中の決意は揺らいでいなかった。彼女の日記を読んで、その苦しみの深さを知ってしまった以上、もう見捨てることなんてできない。傍観者だった自分は、もうここにはいない。


「……如月」

 僕は意を決して、彼女の背中に声をかけた。


「体は、どうだ? 気分は……」

「……ほっといて」


 弱々しいが、きっぱりとした拒絶。


「そういうわけにはいかない。このままじゃ……」


 まずい、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 彼女をこのままにはしておけない。家に帰すべきか? いや、あのうわ言、あの日記の内容を考えれば、家に帰すのは危険すぎる。かといって、この図書室に隠れているわけにもいかない。もう閉館時間はとっくに過ぎている。見つかれば大問題だ。


「……俺の家に、来るか?」


 口から出たのは、自分でも予想外の提案だった。

 彼女の肩が、ぴくりと震えた。ゆっくりと、こちらを振り返る。涙の跡が残る頬。その瞳には、驚きと、警戒と、そしてほんのわずかな……戸惑いのような色が浮かんでいた。


「……なんで」

「……安全な場所が必要だろ。少なくとも、今夜は」

「……信用、できるわけない」

「……信用しろとは言わない。でも、選択肢は、他にないんじゃないか」


 僕らは見つめ合った。互いの腹を探り合うように。変化してしまった関係性の中で、新しい距離感を測るように。

 彼女が何かを言いかけた、その時だった。


 ブブブ…… ブブブ……


 静寂を破って、振動音が響いた。彼女の制服のポケットからだ。携帯電話の着信。

 彼女の顔が、再び恐怖に凍りついた。ディスプレイを確認するまでもなく、相手が誰なのか分かっている顔だ。


 震える手で、彼女は携帯を取り出した。着信画面の表示を一瞥し、びくりと体を硬直させる。そして、恐る恐る、通話ボタンを押した。

 スピーカーフォンにはなっていない。だが、耳に当てた携帯から漏れ聞こえてくる、低く、威圧的な声の断片だけで、相手が誰で、何を言っているのか、おおよその想像がついた。


 真昼は何も答えない。ただ、「はい……」「……すみません」「……すぐ……」と、か細い声で繰り返すだけだ。電話を持つ手が、小刻みに震えている。顔面は蒼白を通り越して、もはや紙のようだ。昼間に見た、あの怯えきった表情が、何倍にもなって再現されている。


 やがて、通話が切れた。


 彼女は力なく携帯を落としそうになり、慌てて握り直す。そして、絶望的な表情で、僕を見た。


「……帰らないと」

「無理だろ、その状態で!」

「でも……! 帰らないと……!」


 彼女の声は、悲鳴に近い。瞳には、純粋な恐怖の色だけが浮かんでいた。


「お父さんが……今すぐ帰ってこいって……」


 その言葉は、これから始まるであろう嵐の、不吉な前触れのように響いた。彼女の顔に浮かんだ純粋な恐怖が、その言葉の重みを物語っている。父親。これまで彼女を精神的に追い詰めてきたであろう、その存在が、今、牙を剥いて直接介入しようとしている。逃げ場が、急速に失われていくような感覚。見えない壁が、じりじりと僕らに迫ってきている。その足音が、すぐそこまで聞こえる気がした。


 図書室の窓の外は、完全な夜の闇に支配されていた。まるで、僕らの未来を暗示するように。

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