10
けたたましく鳴り響いていた閉館チャイムが止むと、図書室にはしん、と静寂が戻った。いや、静寂じゃない。僕の荒い呼吸音と、腕の中でかろうじて息をする彼女の、不規則で浅い呼吸音だけが、やけに大きく響いている。
パニックは、まだ完全には収まらない。だが、頭の片隅で冷静な部分が警鐘を鳴らしていた。このままここにいてはまずい。誰かに見つかるかもしれない。そうなれば、すべてが終わる。
まず、確認しなければ。
震える指先で、彼女の首筋に触れる。脈。ある。弱いが、確かに打っている。次に、胸元に耳を寄せる。呼吸。浅いが、途切れてはいない。
生きている。
その事実に、全身の力が抜けそうになるほどの安堵を覚えた。だが、同時に焦りが込み上げてくる。一刻も早く、安全な場所へ。そして、何とかしなければ。
資料準備室はダメだ。発見されるリスクが高すぎる。カウンターも論外。どこか、人目につかない場所……。
最奥の窓際。僕の定位置。あそこなら、書架の死角になっていて、外からも見えにくい。
決めた。
僕は床に散らばった白い錠剤には目もくれず、真昼の体を慎重に抱え上げた。思ったよりもずっと軽い。けれど、意識のない人間というのは、こんなにも重いものなのか。ふらつきながらも、一歩、また一歩と、書架の間を縫って図書室の奥へと進む。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。誰か来ないか、息を殺して耳を澄ませながら。
ようやく最奥のスペースにたどり着き、床に自分のブレザーを敷いて、その上に彼女をそっと横たえた。窓から差し込む夕暮れの名残の光が、彼女の白い顔をぼんやりと照らしている。まるで、壊れやすいガラス細工のようだ。
どうする? 保健室へ運ぶ? いや、無理だ。説明がつかない。このまま様子を見る? でも、もし容態が急変したら……。
思考が堂々巡りする中、彼女が小さく身じろぎした。そして、掠れた声で、何かを呟き始めた。
「……お父さん……やめて……」
うわ言?
僕は息を飲んで、彼女の口元に耳を寄せた。
「……もう……叩かないで……嘘つき……」
「……わたしは……人形じゃ……ない……」
断片的な言葉。けれど、その一つ一つが、彼女の苦しみの核心を抉り出すような、重い響きを持っていた。親。父親。暴力? 嘘つき。人形。
昼間に見た、電話での怯えきった様子がフラッシュバックする。あの痣も、もしかしたら……。
彼女の秘密の、そのさらに奥深くにある暗闇。その一端に触れてしまったような気がして、背筋が凍る。
彼女をもっと知らなければ。理解しなければ。そうでなければ、助けることなんてできない。
衝動的に、僕は彼女が落とした学生カバンに手を伸ばした。ためらいはあった。他人の持ち物を漁るなんて、最低の行為だ。だが、今はそんなことを言っていられない。
カバンの中は、教科書やノートが整然と並んでいた。昼間の彼女らしい、几帳面さ。その一番下に、一冊の、鍵のかかっていないシンプルなノートがあった。日記帳だろうか。
震える手で、ページを開く。
そこに記されていたのは、僕の想像を絶する世界だった。
几帳面な、けれど時折感情の昂ぶりで乱れる文字で綴られていたのは、父親からの執拗な言葉による精神的支配の実態だった。成績、言動、友人関係、そのすべてを管理され、否定され、人格を歪められていく過程。母親は見て見ぬふり。逃げ場のない息苦しさ。
そして、夜の記録。
『堕天使』になった経緯。初めてスプレー缶を手にした日のこと。壁に《嘘》と書いた時の、歪んだ解放感。ガラスを割る瞬間の、刹那的な高揚。
さらに、あの白い錠剤のこと。最初は好奇心だったものが、次第に夜の「飛行」に不可欠な「翼」となり、依存していく様子。薬が切れた時の不安感。量を増やしていく焦り。
『誰も本当の私なんて見てくれない』
『壊すことでしか、自分がここにいるって証明できない』
『消えてしまいたい』
ページをめくる手が止まらなくなる。彼女の孤独。絶望。そして、心の奥底からの、か細いSOS。
これが、如月真昼の真実。
地味で真面目な図書委員の仮面の下に隠されていた、あまりにも痛々しい、秘密の核心。
僕は愕然とした。今まで僕が見ていたのは、彼女のほんの上辺だけだった。夜の堕天使の姿も、昼間の仮面も、そのどちらもが、彼女が生き延びるためにもがいた結果の、歪んだ現れだったのだ。
面倒だ、なんて思っていた自分が、ひどく浅はかで、身勝手に思えた。危うさに惹かれていた? 羨望? そんなものは、彼女の苦しみの前では、塵芥にも等しい。
胸の奥から、熱い何かが込み上げてくる。それは怒りか、悲しみか、それとも……。
助けなければ。
このままにはしておけない。
傍観者でいた自分を、今、心底後悔している。
僕の中で、何かが決定的に変わる音がした。面倒事回避主義者の仮面が砕け散る音。
その時だった。
「……う……」
彼女の瞼が、微かに震えた。ゆっくりと、その瞳が開かれる。
まだ焦点は合っていない。虚ろな、ガラス玉のような瞳。その瞳が、偶然にも、僕の手元——彼女の日記帳を——捉えた。
彼女の唇が、わずかに動く。
「……かみや、くん……?」
か細い、ほとんど息のような声。その頼りない響きは、僕が知っている彼女のどの声とも違って聞こえた。
僕の手の中で、開かれたままの日記帳が、やけに重く感じられた。




