表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/33

10

 けたたましく鳴り響いていた閉館チャイムが止むと、図書室にはしん、と静寂が戻った。いや、静寂じゃない。僕の荒い呼吸音と、腕の中でかろうじて息をする彼女の、不規則で浅い呼吸音だけが、やけに大きく響いている。

 パニックは、まだ完全には収まらない。だが、頭の片隅で冷静な部分が警鐘を鳴らしていた。このままここにいてはまずい。誰かに見つかるかもしれない。そうなれば、すべてが終わる。


 まず、確認しなければ。

 震える指先で、彼女の首筋に触れる。脈。ある。弱いが、確かに打っている。次に、胸元に耳を寄せる。呼吸。浅いが、途切れてはいない。


 生きている。

 その事実に、全身の力が抜けそうになるほどの安堵を覚えた。だが、同時に焦りが込み上げてくる。一刻も早く、安全な場所へ。そして、何とかしなければ。


 資料準備室はダメだ。発見されるリスクが高すぎる。カウンターも論外。どこか、人目につかない場所……。

 最奥の窓際。僕の定位置。あそこなら、書架の死角になっていて、外からも見えにくい。


 決めた。


 僕は床に散らばった白い錠剤には目もくれず、真昼の体を慎重に抱え上げた。思ったよりもずっと軽い。けれど、意識のない人間というのは、こんなにも重いものなのか。ふらつきながらも、一歩、また一歩と、書架の間を縫って図書室の奥へと進む。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。誰か来ないか、息を殺して耳を澄ませながら。

 ようやく最奥のスペースにたどり着き、床に自分のブレザーを敷いて、その上に彼女をそっと横たえた。窓から差し込む夕暮れの名残の光が、彼女の白い顔をぼんやりと照らしている。まるで、壊れやすいガラス細工のようだ。


 どうする? 保健室へ運ぶ? いや、無理だ。説明がつかない。このまま様子を見る? でも、もし容態が急変したら……。


 思考が堂々巡りする中、彼女が小さく身じろぎした。そして、掠れた声で、何かを呟き始めた。


「……お父さん……やめて……」


 うわ言?

 僕は息を飲んで、彼女の口元に耳を寄せた。


「……もう……叩かないで……嘘つき……」

「……わたしは……人形じゃ……ない……」


 断片的な言葉。けれど、その一つ一つが、彼女の苦しみの核心を抉り出すような、重い響きを持っていた。親。父親。暴力? 嘘つき。人形。

 昼間に見た、電話での怯えきった様子がフラッシュバックする。あの痣も、もしかしたら……。

 彼女の秘密の、そのさらに奥深くにある暗闇。その一端に触れてしまったような気がして、背筋が凍る。


 彼女をもっと知らなければ。理解しなければ。そうでなければ、助けることなんてできない。

 衝動的に、僕は彼女が落とした学生カバンに手を伸ばした。ためらいはあった。他人の持ち物を漁るなんて、最低の行為だ。だが、今はそんなことを言っていられない。


 カバンの中は、教科書やノートが整然と並んでいた。昼間の彼女らしい、几帳面さ。その一番下に、一冊の、鍵のかかっていないシンプルなノートがあった。日記帳だろうか。


 震える手で、ページを開く。


 そこに記されていたのは、僕の想像を絶する世界だった。

 几帳面な、けれど時折感情の昂ぶりで乱れる文字で綴られていたのは、父親からの執拗な言葉による精神的支配の実態だった。成績、言動、友人関係、そのすべてを管理され、否定され、人格を歪められていく過程。母親は見て見ぬふり。逃げ場のない息苦しさ。


 そして、夜の記録。


 『堕天使』になった経緯。初めてスプレー缶を手にした日のこと。壁に《嘘》と書いた時の、歪んだ解放感。ガラスを割る瞬間の、刹那的な高揚。

 さらに、あの白い錠剤のこと。最初は好奇心だったものが、次第に夜の「飛行」に不可欠な「翼」となり、依存していく様子。薬が切れた時の不安感。量を増やしていく焦り。


 『誰も本当の私なんて見てくれない』

 『壊すことでしか、自分がここにいるって証明できない』

 『消えてしまいたい』


 ページをめくる手が止まらなくなる。彼女の孤独。絶望。そして、心の奥底からの、か細いSOS。


 これが、如月真昼の真実。


 地味で真面目な図書委員の仮面の下に隠されていた、あまりにも痛々しい、秘密の核心。

 僕は愕然とした。今まで僕が見ていたのは、彼女のほんの上辺だけだった。夜の堕天使の姿も、昼間の仮面も、そのどちらもが、彼女が生き延びるためにもがいた結果の、歪んだ現れだったのだ。


 面倒だ、なんて思っていた自分が、ひどく浅はかで、身勝手に思えた。危うさに惹かれていた? 羨望? そんなものは、彼女の苦しみの前では、塵芥にも等しい。

 胸の奥から、熱い何かが込み上げてくる。それは怒りか、悲しみか、それとも……。


 助けなければ。

 このままにはしておけない。

 傍観者でいた自分を、今、心底後悔している。

 僕の中で、何かが決定的に変わる音がした。面倒事回避主義者の仮面が砕け散る音。


 その時だった。


「……う……」


 彼女の瞼が、微かに震えた。ゆっくりと、その瞳が開かれる。

 まだ焦点は合っていない。虚ろな、ガラス玉のような瞳。その瞳が、偶然にも、僕の手元——彼女の日記帳を——捉えた。

 彼女の唇が、わずかに動く。


「……かみや、くん……?」


 か細い、ほとんど息のような声。その頼りない響きは、僕が知っている彼女のどの声とも違って聞こえた。


 僕の手の中で、開かれたままの日記帳が、やけに重く感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ