01
僕が、この進学校製圧縮装置──別名「県内トップクラスの優等生収容施設」に、今日もきっちりと詰め込まれている理由は三つある。
一つ、家から近い。
二つ、学費が安い。
三つ、ここを選ばないと親が泣く。
つまり、僕自身の意志はゼロだ。ゼロは無限より小さい。ないものは測れない。だから教師もクラスメートも、僕のことを測れない。その居心地の悪さを、彼らは「透くんってクールだよね」の一言でラッピングしてくる。雑だ。プレゼントならリボンくらい結んでほしい。
で、そんなクール(包装紙)な僕の定位置は図書室の、最奥、窓際、背もたれがギシギシ鳴る壊れかけの椅子だ。ここはいい。
空調は効きすぎ、蛍光灯は白すぎ、棚は背が高すぎ──そんな「すぎる」だらけの無機質空間で、本の海に擬態していれば誰も僕を探しに来ない。授業終了のチャイムが鳴った瞬間から閉館ベルが鳴る瞬間まで、この椅子と僕の関係は、誰にも割って入られない。
そう、割って入ろうとさえしなければ。
「神谷くん」
彼女は小さく声をかけた。小さく、けれど輪郭のくっきりした声だ。まるでシャープペンの芯──濃度HB、芯径0・3ミリくらいの。折れやすく、でも線は鋭い。
如月真昼。地味で、真面目で、図書委員で、僕の静寂を管理する女。今日も前髪は定規で切ったかのように一直線。カーディガンは校則色。表情はモノクロ写真の解像度。
「なにか御用?」と顎だけで訊く僕。
「いえ、神谷くんが借りていた本の返却期限が昨日まででした」
わざわざ最奥席まで取り立てに来るなんて、図書委員の鑑か、単なる仕事熱心か。あるいは──僕を覗きに来たのか? そんな自意識過剰な視線を、僕はすぐに丸めてゴミ箱に投げた。
「はいはい」と、僕は鞄から問題の書籍を取り出す。タイトルは『退屈の正しい飼いならし方』。
皮肉を込めて選んだ自己啓発本だ。彼女は受け取ると、表紙を指でとん、と弾いた。
「面白かった?」
「まさか。退屈の飼いならし方を読んでる間、退屈が暇つぶしに僕を飼いならしてたよ」
自分でも意味不明な比喩を放つ。けれど如月真昼は無反応だ。皮肉は水に落ちたインクみたいに彼女の前で拡散し、輪郭を失った。
彼女は軽く頭を下げ、カウンターへ戻ろうとする──その後ろ姿に、わずかな違和感が引っかかった。
制服の袖口。かすかに残る、乾きかけの白い粉。
チョーク? いや、図書室に黒板はない。じゃあ製図用? 違う。妙にきめ細かい。
僕は目を細める。見間違いと言い聞かせるように瞬きを重ねても、粉は袖に止まり続ける。
……まさか。
そのとき図書室の外で、蛍光灯がジッと鳴った。まるで「ほんとに気づいちゃっていいの?」と、世界が僕に耳打ちするみたいに。
* * *
放課後。雨は降りそうで降らない。空気はぬるく、街は早くもネオンの準備運動を始めている。
僕は帰宅ルートをわずかに外れ、繁華街の裏通りへ流された。おおよそ「面倒事回避主義者」の行動ではない。自覚はある。でも──袖口の白い粉が、頭の奥でノイズのように囁いて離れない。
裏通りのコンクリ壁に、真新しい落書きがあった。白いスプレーで大きく一文字。
《嘘》
書いたばかりなのか、塗料の匂いが湿った空気に混じって鼻を刺す。その匂いを嗅いだ瞬間、僕は確信した。図書室で嗅いだ粉の匂いと同じだ。
「……マジで?」
自分の声が自分の耳に届くより早く、遠くで警笛が鳴った。パトカーの青いランプが、曲がり角の向こうでチカチカと瞬いている。通報? 落書き犯はまだ近くに?
僕はコンクリ壁を撫でる指先に、微かなぬめりを感じる。乾ききっていないスプレー。つまり犯人は数分前までここに──いや、もしかすると今も──。
パトライトが近づく。
逃げればいい。僕は関係ない。傍観者だ。落書きを見ただけ。それだけ。
そう足に命じた瞬間、路地の奥、金網フェンスの陰で何かが動いた。
白。翼にも似た、しかし折れ曲がった白。
「……うそだろ」
声にならない呟きが喉を焼く。粉の正体、白い落書き、《嘘》の文字……全部が一本の線に繋がった。
折れた翼を背負った少女──
いや、あれは如月真昼だ。昼は地味で真面目な図書委員。夜は歪んだ堕天使。
僕の世界は静かに、けれど確実に壊れ始めた。
そして僕は悟った。
傍観者でいることは、もう許されない。
だって僕は──目撃してしまったのだから。
今夜、世界でいちばん派手な嘘を。
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