ep2
午後の授業は全くもって退屈だった。理系科目も私はある程度出来ていた。・・・勿論、超一流大学の医学部やら薬学部やらを受験する『エリート』たちに比べれば、そこに天と地ほどの差があるのには変わりない。あくまで文系クラスのこのクラスの中では多少出来るんじゃないかと自負しているだけだ。それもあくまで主観的評価なので真偽は定かでない。
カツカツ。
静まりかえった教室にチョークを黒板に打ち付ける音が聞こえる。物理の先生はチョークの使い方が荒い方らしい。他の先生ではまずないだろうが、一文字、下手したら漢字の一画ごとにチョークの先端が砕け、粉が待っている。お陰で物理の授業の後の掃除は黒板下が一番大変だ。
「皆さんはとりあえずこのことを抑えていただければいいです。板書することは以上なので、後は提示したワークか各々自習の形で。」
私たちが受けるのは物理と言っても物理の基礎科目だ。先生から見たら程度の低い内容なのかも知れない。しかも化学教室ではなくわざわざ別棟のこの教室まで足を運ぶ必要があったので、彼にとって授業をするメリットはないのだろう。生徒へ自習を言い渡した後不機嫌そうに足を組んで、何かの答案を睨み始めた。指導している理系の子の推薦書か、他の課題の答案紙だろう。四、五枚あるようだ。隣に座る、確かた、竹・・・男の子は今日も気持ち良さげに昼寝している。ワークは終わっていたので、・・・机の中から現代文の問題集を引っ張り出して机の上に広げた。ああ、あとノートも要る。そう思って机の中を覗き込んだ矢先、
「はぁ。おーい。寝てる人。近くの人起こしてあげてください。」
持っていた紙の束を教壇に叩きつけ、先生は気だるげにこう言った。その音を聞きつけ、体が震えた生徒や顔を上げた生徒がちらほら。私は淡い期待を持って隣を見たが、彼は寝顔をこちらに向け気持ちよさそうに寝ていた。仕方あるまい。ここで起こさないと私の非になるので、私は彼の席に手を伸ばした。初めに机の端を軽く叩いてみた。起きない。次に肩を叩いた。起きない。少し体勢が厳しいが、今度は肩を持って体を揺さぶってみた。・・・これでも起きない。ここまで来ると名前を呼ぶべきかと思ったが、あたりが静まり返っている中、どれほどの声量までが許されるのかがいかんせん分からない。というか名前が分からない。このように、私が彼を起こしあぐねているとその奥から声がした。
「せんせぇ~、武田君が起きません。」
「武田ぁ?ああ、いいよいいよそいつは寝かせとけ。俺が野球部の顧問と分かっての行為だから、相当な覚悟があるんだろうし。」
クスッという静かな笑い声が教室内に漏れ出た。
その日の授業はやけに短かった。
「ねぇ、ちょっといい。」
思ったよりも問題集が進まなかったと内心口をとがらせていた私だったが、久しぶりに教室内で他人に話しかけられ感情が驚愕に塗りつぶされた。その後私は彼女に促され、教室の外に出た。
「武田君に触ったよね。」
武田君が誰だか一瞬分からなかったが、ようやく思い出した。それは隣の席の男の子の名だ。席替えされないので、何となく名前を憶えているつもりだったがこうやって面と向かってその名を言われて、ようやく思い出した。というか竹田ではなく、武将の「武」と田圃の「田」だった。
「・・・触ったんだよね。うちね、その確認がしたいだけなんだけど。」
何だか責められているような気がしたのでとりあえず肯定した。
「そう。あと二か月よね。おんなじクラスなの。その間、二度と関わらないでくれる。」
「ん。」
何故だか全然話が入ってこなかったが、とりあえず首を縦に振っておいた。
「・・・もういいよ、それだけだから。んん、早く行って。」
じっと彼女の顔を見ていて気付かなかったが、後ろに取り巻きらしき女子が数人ある。ああ、テリトリーから出て行けってことだね。私はまたあの息苦しい教室に戻るとしますか。
昼休み。私は懲りずに弁当を持って中庭に歩き始めた。途中で横切った食堂には学年関係なく多くの生徒が詰めかけていた。あの中にいることを想像してしまって寒気がしたので、改めて近づかないことを胸にした。
「路傍先生。」
「・・・あら、また来てしもた。」
路傍先生は案の定喫煙室でたばこを吸っていた。
「今日はでもあったかいね。一月ももう終わりだからかな。」
「かもしれない、です。」
少しまごつきながらも私は答えた。
「あはは。」
先生はどっちか分からない笑い声を上げた。ほんの少し沈黙に私は耐え切れず口を開いてしまった。
「あのっ!先生。お隣座ってもよろしいですか。」
私は少し声を張り上げてしまったので、先生は少し困惑したようだ。
「え、ええっと。いいんやけど、ここ喫煙室やし、僕の近くは余計に臭いと思うよ。」
「い、いいんです。あと、ご飯も食べていいですか。」
先生は眉を顰めたが、すぐに声を立てて笑った。
「あははっ。海本さんおもろいなぁ。いいよ、座って。その代わり、他の子や先生には内緒ね。」
先生は口に人差し指を当て、私を見た。私は彼のその姿を見て胸が少し胸が苦しくなった。
弁当を開けた。昨日の残りがなかったので冷食を詰め込むしかなかった。
「お弁当美味しそうだね。」
「ありがとうございます。」
予想していたことだが言葉が続かない。ふと先生を見る。口寂しのか、飴を舐めているようだが目線はかなり遠くに向いているようだ。
「どした?」
「えっ。」
無駄な肉のない彼の横顔を見ているうちに私は箸を止めてしまっていたようだ。先生もいつしか私を見ていた。
「えっと...。」
私は少しの間逡巡していた。何か話を振らなければ。しかし、昨日のような面白くない話はしたくない。ならば...。
「先生は太宰の中だと何が好きですか。」
やっとの思いで口に出した。だが、案外後先考えずに口走ったので、いつもよりすんなり言葉にできた。
「そうだねー、悩むところだ。」
そう言いつつ、先生は長椅子に置いていた教科書や出席簿の中から小さな本を取る。
「かなり最近、というか現在進行形で読んでるこの本かな今のところ。」
彼はブックカバーを外した。表紙にはパンドラの匣と書いてあった。実際表紙には読み古した感は無く、新品さながらの綺麗さである。
「パンドラの匣...」
匣は"はこ"と呼ぶことなど知る由もなかった私は、太宰のその本の感想など述べられるはずもなく黙りかかってしまった。私から聞いたというのに。
「書店が割と近くにあるんだよね。清水書店って言うんだけど。勤務明けにちょくちょく寄って、気になった本があれば買ってるだ。そこで見つけたんだけど、何というかその時は何も考えてなかったんだけどね、読み進めていくと本当に共感することが多くて。」
清水書店は私もよく行っている。が、言い出せずにいた。
「しかも単に共感するんじゃなくて次第に自分のことに思えてきて。いや、というか生徒のことかなどちらかと言うと。...この時期はみんな視野が狭くなっちゃってるからね。狭まるしかないとも言えるけど。そんな彼らに是非読んでほしい本だね。僕じゃなくて。」
苦笑いしながら本を大事そうにしまった。先生はここまで内容を分析しているのか、と驚くとともに自分がいかに浅はかだったか痛感した。気恥ずかしくて立ち尽くしていた。
「海本さんは、どうだろうな。まぁ、仮にも教員だからね。この時期に本を読めなんて言えないけど、自分の可能性について考えるときに出会うべきだった本だと僕は思うよ。」
何と答えれば角が立たないだろう。先生は良識ある大人だ。クラスメイトのあの子とは訳が違う。
「…読みたいです。」
率直にそう言った。正確には読んでみたいと言いたかったのだが、先刻の葛藤の中で適切な助詞を選ぶのは難しかった。
「おお、そっか。あともう少しだから、読み終わったら貸してあげるね。」
「え。」
予想だにしない返答があって、先生を直視してしまった。
「ん?」
先生は脚を組んで、腕で頭を支える体勢を取ってこちらを見ている。
「え、いやそんなつもりじゃ、なかったんですけど…。」
「ぇ?…あ、ああ。ごめん。僕の早とちりだったね。別に貸して欲しいとも言ってなかったね、海本さんは。」
先生は頭をぽりぽり掻いている。
「その、貸していただけるなら…先生が読み終わったあと…す、すぐ返すので!」
先生ははにかんでこう言った。
「はは、いいよ。貸したげる。」