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ep1

色のないガラス。サッシの鉄も冷淡な肌をしていた。触ると本当に冷たかった。味気ない廊下。雨が今も降っている所為でかなり湿っている。蛍光灯も色が落ちかけている。廊下を歩いているが、他の生徒の姿は見えない。それもそうだ。休み時間と雖も今は大学受験に向けた重要な試験がすぐそこまで迫っている。私のように呑気に廊下を歩いている場合ではない。私だって好きでこうしている訳じゃない。ただ、教室にいるのが息苦しかった。それだけだった。逃げるように居場所を探した。結果、お手洗いに向かうしかなかった。教室から離れた階段近くに設置されたお手洗い。いつもは遠すぎて歩くのが鬱陶しくなるが、今日は時間稼ぎができることに感謝してしまった。この廊下の長さに。

 しかし私の体はお手洗いの前を通り過ぎてしまった。扉の前をグループの娘達が塞いでしまっている。私は彼女らにも他の人間にも目立たないようにとっさに行き先を変更した。もちろんどこに行くかなんて決まってない。それでも進むしかない。今帰ってしまうと周りの人にヘンに思われてしまう。後三か月近くあそこで過ごさねばならない。今更ヘンに目立ってしまうのも、それはそれで息苦しい。考えてみただけで軽く眩暈がしてきた。ああ、そうだ。これを口実に保健室に行ってみるのはどうだろう。実際気分が悪いというのは多少なりとも嘘ではない。私としては罪悪感が生まれることはないだろう。…しかし、保健室の先生はそう簡単にサボることを許してはくれないだろう。なんせ、先刻のような考えで保健室に行ったのがこれまでに二、三度ある。これ以上はどちらにせよ苦しいだろう。しかしすでに私の足は、段差にかかってしまっている。そのまま降りていくしか道はなかった。

 中庭に立った。雨は止んだが、芝生の地面がかなり湿っている。しかし、ローファーは意外に無事だった。芝生のお陰だろうか。空は未だに一面曇天であるので、わざわざ外に出たがる生徒はいなかった。そして何より寒い。教室中が暖房を掛けているのも、生徒らが外に出たがらない理由の一つだろう。そして一部の生徒が息苦しさを感じるのも同じ原因だろう。息苦しさは多少解消された。冬らしい何かが焦げたような匂いが鼻腔に広がる。しかし、本当に焦げ臭い匂いがする。一年生が農業実習でもしているのだろうか。グラウンドには人一人いる気配がしない。近くの畑で焼いているのだろうと、適当な理由を考え教室へと帰った。

「であるので、葉蔵の心情は…こちらの空欄に埋めるとするならば、このように書けるわけです。今回は十二文字程度でしたので十~十四文字の間で書いてあげると間違いないと思います。」

切りよくチャイムが鳴った。

「はい、ここまでです。礼はいいです。来週ですが、古典の小東先生が出張の関係で古典の授業も私の担当です。」

「えー。」

独りの生徒があからさまな声量でつぶやく。

「…。」

しかし、先生は反応することなく教室を出て行った。

「やっぱ今日も反応なかったな。」

「ねー、流石ロボ先。」

彼の名は路傍道隆先生。綽名は「ロボ先」。とても幼稚な綽名だ。こんな低俗な名前で呼ばれているのを彼は知っているだろうか。いや、知っていたとしても彼は無反応を決め込むだろう。目に見えてしまった。

 また今日も昼休みがやってきた。今日は中庭で弁当を食べることにした。入学当初は冬でもグループやカップルなどで多くの生徒がいた中庭。しかし、最近羽振りが悪くなったのか購買もなくなり、暖を取れる器具などで整えられていた中庭も今では、寂しい姿になっている。一つ、屋根付きのテラスが残っている。人が寄り付かなかったので喫煙室もすぐ隣にあるようだ。だが、喫煙者の教師も今日日希少になっている。つまりもう誰も来ない場所になったのである。寂しくはない。寂しいとすれば、いつもニコニコしてカレーをいっぱいついでくれた購買のおばちゃんがいなくなったのは少し胸が空くような感覚を得た。しかし今は返って、一人が心地良い。私は意外にも久しぶりの気分の良い食事に期待を膨らませていた。

 あっさり食べ終わった。しかし、やはりいつもとは違い満腹感があった。確実に。上機嫌になって、テラスを後にしようとすると昨日のような焦げ臭い匂いが鼻腔に広がった。昨日よりも遥に濃い。弁当を置き、私は喫煙室を見に行った。

「えっ…。」

「ぁ…。」

いるはずがないと思っていたので、彼を見た瞬間強張ってしまった。彼の細長い中指と人差し指の間に挟まる細長いものに目をやり、私は驚愕した。その指の持ち主と、やけに古臭いそのたばこが似合わなかったからだ。

「路傍先生。」

「…あぁ。っていうか近づかない方がいいよ。保健の授業で習わなかったかい。…ほら、受動喫煙ってやつ。」

そんなことは百も承知だ。私は彼の普段の様子と、今の人間臭い様子との差に衝撃を受けて固まってしまっているのだ。

「…ま、まぁいいや。だいぶ短くなったしな。ちょっと待ってね。」

灰皿に彼はその棒を擦り付け、火を消した。

「それで、ごめんなさい。名前がわかんなくて、教えてもらえると助かるんだけど。多分三組の子だよね。」

「あ、三組の海本です。」

「海本さんね。お、ちょうど出席簿あるやん。えーと海本さん海本さん、あった。海本さんね。…うん提出物は全部出とるね。」

「あ、いや。遅れて出したのもあって…。」

「遅れても出す方が偉いよ。…あんまり言っちゃだめだけど、皆ろくに出してないよ。多分今更学校の課題とかやってる場合じゃないんだろうね。成績もほとんどの子がもう決まってるしね。後は消化試合ってわけだ。」

彼は授業中には見せない悲しい目をしていた。

「それに比べて海本さん、よく頑張ってるね。前の模試の国語の校内トップは海本さんだったはずだろう。しかも九割もとってたらしいね。これは相当な強みだと思うよ。」

私はうまく話しだせず口をもごもごしていた。未だに体が緊張してしまっている。そんな私に対しても先生は優しく喋りかけてくれる。

「海本さんって推薦?」

「いや、あの、一般で。」

「あー、だったら成績はまだ決まってないね。それでもこのままいくと国語は五がつくと思うよ。もう提出物もないし、古典も多分出しようがないはずだから、…そうだね。」

別に私は成績の話がしたかったわけではない。そう言いたかったが、今更そんなことは言えない。しかし、ほんの少し沈黙が続いてしまった。先生は今一度成績表を見つめている。私のを見ているのか、それとも…。

「あ、あの。先生。」

「うん。」

「先生ってそのぉ、おたばこ吸いになるんですか。」

緊張して敬語がおかしなことになった。その大したことない事実にも狼狽えてしまった。

「…ははっ。うんおたばこ吸いになるよ。」

その狼狽を軽く笑い飛ばしてくれ、先生は椅子から立ち上がった。

「ぁ…。」

やはり大きかった。かなり高いところから見つめられて再びたじろいでしまった。

「ああ、ごめんね急に立ち上がって。そろそろ職員室戻らなければならないんでね。歩きながら話そうか。」

そうして私たちは中庭から離れていった。案の定弁当を忘れてしまったので、後に取りに行く羽目になった。


「海本さん、太宰が好きなんだ。奇遇だねぇ。私もだよ。」

いつしかそんな話になっていた。先生は私に足取りを合わせて歩いてくれている。

「どの作品が好きなんだい。」

「えっ。」

私はたじろいでしまった。太宰治が好きと言ってもはまったのは高校からで、まだ十冊も読めていない。そのなかからだとすれば…。

「『人間失格』です。やっぱり。」

そこではたと気が付いた。こんな作品誰もが知っている。太宰のことを読み込んでいない人間でも多くの人が『走れメロス』かこの作品を選ぶだろう。浅い人間かと思われただろうか。

「んんー。やっぱりそうだよね。正直あれは、初めて読んだときに何か言いようもない、特別な感情を得た。国語教師、しかも現代文の教師としてそれを形容できないのはいささか『恥』ではあるがね。」

先生は疲れたような顔をしてそう言った。先生ほどに雑念のなさそうな、完璧そうな人にもそんな気持ちがあるのかと私は意外に思った。

「いやぁ話が出来てよかった。文学が好きな子なんて最近はめっきり減っちゃったからね。海本さんと話せて愉しかったよ。」

「私もです。」

先生とは話しやすかった。他の誰とも違う、お互い気の許せる感じがした。先生はそう感じただろうか。いつしか私たちは職員室の前についていた。国語科の職員室は四階にあるのでいつもはかなり遠かったが、今日は思った以上に短かった。

「それじゃ、海本さん。…とと、言うの忘れるところだった。」

「…は、はい。」

「中庭寒いからね、先生みたいにたばこを吸いに来るのでもなかったら、来ちゃだめです。風邪引いちゃいけないからね。あー、まぁだからといって海本さんに勉強しろとは言わないけど。」

恐らくお節介になるかも知れないと、言うのを渋っていたのだろう。

「分かりました。」

「…まあ、いつもとは限らないけどたばこはちょくちょく吸うからね。僕。」

先生は持っていたペンを中指と人差し指に挟み、それを咥えるような仕草をした。

「教室居たくないんだろ。」

彼と目を合わせられずにいたが、その言葉で不意に顔を上げてしまった。彼の双眸は暗闇で、その中に一筋の憐憫の眼差しがあった。

「僕もそうだった。ていうか今もそうだよ。ここで仕事するのがだいっ嫌いでね。」

最後はこの中にいる別の先生に聞こえないようにしたのか小声でいった。

「一人ってすごい楽だからね。…また会って話そう。授業以外のとこでね。」

彼はそういうと国語科職員室に消えていった。先ほどまでの賑やかな気持ちが北風に徐々に冷やされていくのを感じた。チャイムが鳴った。これは十分前の予鈴だろう。私は教室に帰ることにした。



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