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ドリトルン家 7


「どういうことでしょう? まさか本気で言っているのかしら……。よくわかりませんわ。姫様への嫌味でしょうか?」


 ミントの疑問に彼女は応えようもない。


 その問いに答えたのはフーだった。ブルーベルの来訪から数日後、アリスの前に現れた。


 ミントが愚痴交じりに疑問をぶつけると、彼はその通りになると言うではないか。


「ブルーベル嬢は名義上の母なら子育ても担うべきだと譲らないのです。それを若がお認めになった。若はあの人にねだられると、嫌とはおっしゃれません」


「どうしてあの人は大事なお子を手放すの? 奪われてしまうのならって、辛そうに泣いていたわ……」


 アリスの言葉にフーは失笑をもらす。


「愛情深い母親は自分から愛情深いと公言しない。泣き真似ですよ。お子がいては体面上無視もできません。大旦那様はそういう点はお厳しいから、乳母がいてもそれなりに時間は取られる。好き勝手ができないから、こちらに押しつけたのでしょう」


「あの人が何を言おうが、今回の件はきっぱりとお断りしますわ。姫様は進んでお子の名義上の母になられるのではないのですもの。姫様、同情など禁物でございますわよ」


 話の区切りか、フーは咳払いした。


「しかし道理は通っていますよ。名義上の母が養育も担うのは不思議ではない。むしろその方が、この先お子にも混乱がなくていいでしょう。姫君、あなたを母御ということで定めれば、お子は何の憂いもなく母上に甘えて成長できる。産みの事実はさておき」


「勝手なことばかり言わないで頂戴! 何が「さておき」よ。姫様は名義だけでも無理をしてのまれたんですよ。これ以上の横暴は絶対に許せません!」


 ミントが噛み付くが、フーは涼しい顔だ。


(この人に何を言ったって無理。人の心を傷つけることなんか平気なのだもの)


 先日のレイナの邸での振る舞いはまだまだ鮮やかだ。彼女をかばって間に入ってくれたロエルへの無礼なセリフは、記憶だけで胸が痛くなる。


「産みの母に疎ましがられた不憫なお子です。あなたにも拒否されたら寄る辺がない。このままでは邸の隅で適当に相手にされ、孤独に育つことになるでしょう」


「姫様には関係がありませんわ」


 ミントは突っぱねるが、アリスにはフーの声がいつになく真剣に響いていた。母に見放された子供への同情は真実のものなのではないか。


 フーの表情には憐憫の影は見えない。


「もし引き受けていただけるのならば、ご実家に馬車をお贈りさせていただきましょう」


 フーの申し出にアリスは息をのんだ。馬車は大変高価だ。維持にも金も手間もかかる。実家もかつては所持していたが、父が倒れたのを機に手放してしまっている。外出はほぼなく、稀に必要な時はまだ余裕のある親族の家に借りることでしのいできた。


「もちろん、その費用の分も年金に加えてお渡しいたしましょう」


 望外の申し出に主従は顔を見合わせる。アリスにとって愛人のブルーベルはその存在すら認めたくない。その女性が産んだ子供を育てるなど、無理難題に思えた。


(お気の毒なお子であっても、できないわ……)


 しかし、その見返りは大きい。


 馬車があれば療養中の父も体調によっては大学に通うことができる。今も席があり研究室もあるのだから。復職で日々に張りもでき、健康を取り戻すことも近く叶うかもしれない……。知らず、心は揺れた。


 フーは返事を急かさなかった。アリスがどう答えるか、既に読んでいるのかもしれない。


 長い間の後だ。アリスは頷いた。それにミントも反論しなかった。実家を思えば、拒否できないことをわかっているからだ。


「子供の育て方などわかりません」


「なに、乳母がいるので大した手間などありませんよ」


 乳母がいて、実際的な世話はその女性が行う。フーは簡単に請け合った。


(なら、わたしは遊び相手くらいかしら? 本を読んであげたり……)


 アリスの了承を待って、翌日には離れの増築工事が始まった。居間に二つ部屋があるだけの小さな住まいだ。子供部屋のゆとりもない。更に工事中であるのにもう子供が乳母に抱かれてやってきた。


 せめて子を受け入れる準備が整ってから連れて来るべきだ。こちらへ押し付けたあからさまな振る舞いに、アリスはあぜんとしミントは憤った。


「小リスの言葉は全部きれい事ですわ。フーの言った通り子育ての面倒を厄介払いしたいだけ」


 アリスも遅れてミントの言葉に深く同意した。

 

 ともかく、居間を臨時の子供部屋にすることで間に合わせた。壁の向こうでは工事の音がうるさく人の出入りも多い。全く落ち着かず騒がしい。慣れないアリスもミントもあたふたとした。


 騙されたと思ったのが、


「わたしは通いなので、夕方には帰らせてもらいます」


 と夜を待たずに乳母が帰ってしまうことだった。自身の子もあるからしょうがないが、住み込みとばかり思っていた二人には、大きな誤算だった。


 初日の夜から、泣き止まない赤子に悪戦苦闘した。


 翌日、ミントがフーに乳母の件をねじ込んだ。


「おや、説明不足でしたね」


 などと薄笑いで返すからたちが悪い。知って隠しておいたに違いない。夜間もいてくれる乳母を求めたが、


「そろそろ乳以外も口にするようです。長い期間乳を含ませ続けるのはいかがなものですかね」


 自身は子もいない男のくせに知ったようなことを返した。そう言われればミントも子育ては知らず、抗弁できなかった。


 状況は変わらずだったが、朝昼は乳母がいてくれる。その間は楽ができた。


 父からの課題の読書に励み、またレイナに手紙を書いた。父には告げられないが、仲良しのはとこにはディアーの子供を育てることになったと打ち明けた。


『夜はミントと二人でお世話しているの。泣き止んでくれない時は辛いけれども、ふっくりした頬も身体も可愛いわ。笑ってくれると嬉しくなってしまって……』


 そんな手紙の返しには、


『……「可愛い」だなんて、あなたも本当にのんきな人ね。いいように利用されているのよ。できないことはできないとお答えなさいね。無理な我慢を強いられているのじゃないかと、離れていて不安よ……』


 心配の声があった。しかし、レイナにもアリスの婚家での立場の弱さに加え、実家への援助という弱味を握られている事情もよくわかる。そして、自分の力ではどうしようもないことを知っていた。


 せめて、ドリトルン家の中で損をしないように上手く振る舞ってほしいと願った。


「当主の後継の母親役なら、アリスは悪くない立場ではないかい? その子もすぐ成長する。生母より身近な育ての母へきっと愛情は向くさ。邸で彼女を守ってくれる存在になるよ」


 夫のギアー氏の言葉にレイナは深く納得した。そうであってほしいと思いながら。そして、大きな助けにはならないが、彼女へ季節ごとに贈り物をした。美しい生地であったり、彼女の黒髪に映えそうな帽子も選んだ。味方がいることを意識してほしいとの思いが込められていた。


 アリスもまたはとこによく手紙を書いた。一度はロエルの名も記した。彼への謝罪を述べたものだった。しかし、それきりになった。ふと思うことはある。彼のくれた優しさは彼女にはひどく忘れがたい。


 しかし、それを追うことはなかった。自分の中でなぜか制してしまった上、ロフィの登場で日常が塗り変わってしまった。そして、今の生活に彼女はふと楽しさを感じているのだった。


(わたしがここにいる意味はあるわ)


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