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幼な妻は泣くことを止めました〜いばらの館には夢見たものは何もなかった〜  作者: 帆々


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エピローグに代えて

 

 二年後――――。



 アリスはロエルのクリーグス領地で暮らしていた。喧騒もなくのどかで豊かな自然に囲まれている。おっとりと過ぎる美しい時間は彼女を幸福な妻にしていた。


 緊張がとれずアリスの後ろに隠れていたロフィも、ほどなくロエルの存在に慣れて懐いた。慕われると可愛いようで、ロエルもよく乗馬や狩りに連れ出している。親しさを増す二人をアリスは微笑ましく眺めたが、ロエルにもロフィにも親子を押しつけることはしなかった。


 いつの瞬間にか、ロエルが「父親になりたいと思う」とロフィに告げたことで、二人は父子になった。成長もあるが、ドリトルン家の離れにいた頃より幸福そうに見える。


 ロエルの大叔父とも親密につき合い、アリスはロエルの留守になどよく訪ねたり招いたりを繰り返した。近隣の人々との社交などは敢えて行なっていないが、様子を見て今後を考えてもいいと話し合っていた。


 はとこのレイナも夫のギアー氏と共に訪れてくれる。数日滞在することも多く、以前より親密さは増した。


 結婚後距離を置くことになった公爵夫妻も半年後には訪ねてくれた。アリスは特に夫人に対して申し訳なさで胸が詰まったが、逆に夫人にひどく詫びられて慌てる場面もあった。


「よそ様のご家庭を壊した息子を情けなく思った。けれど他にもあの子には人並みであってほしいというわたしの願望を押しつけていたの。それがロエルの幸せにつながるかもわからないのに……。結婚後もあなたを無視するようなことになって、本当にごめんなさい」


「いいえ、実際わたしは既婚した身でロエルと気持ちを交わしていたのだから、十分はしたないことをしていました。それに、ドリトルン家の事件もあったし……、ご不快に思われるのは仕方がありませんわ」


 夫妻とはこれを機に交流が始まった。ロエルが父を狩りに呼ぶこともあれば、母が叔父を訪ねる際に滞在することもある。


 一方アリスの父は手紙でのやり取りのみで、頻度も内容も以前と何も変わらない。結婚に際して、ロエルが挨拶に参じたいとの旨を書き送ったが、「それには及ばず」と「与えた本をよく読むように、貴公からもよろしく指導を頼む」と斜め上からの返答だった。これには彼も言葉がなかったようだ。


「お義父上をご招待してはどうだろうか?」


 後もロエルは気遣ってくれたが、アリスは首を振った。高家の父を招待すること自体が誤りで、こちらから参上してご機嫌を伺う態度が正しい。招待などしても父は無礼に感じるだけで、ロエルに益もない。娘に愛情はないかといえばそうではなく、それが手ずから学問を施すことで表れていた。


 アリスには女主人になることの意味もわからなかった。食事は与えられたものを冷めていようが固かろうが黙って食べるのが普通で、献立を考えるなど思ってもいなかった。また、部屋のしつらえなどもあるものを利用するのが当たり前で、好みに変えようとする意思もない。


 全く頼りにならない彼女を支えたのはやはりミントで、アリスの意図を汲み取り上手くことを運んでくれる。越して数日で、もうここで十年も仕えているような落ち着きっぷりで、新たな使用人たちを差配していた。


 そのミントも邸の離れにシェリーシュと暮らしている。アリスやロエルはこれまでと同じくミントと呼ぶが、他にはシェリーシュの姓の「ドレア夫人」で通していた。


 調査の仕事の為ロエルは長く留守をすることもあるが、それでも以前のように三月以上も邸を空けっ放しはなくなった。趣味のように受けていた依頼を吟味し、より興味の持てるものだけに注力するやり方に変えていった。


 彼の不在の間のアリスも気にかかる。困っていないか怖がっていないか心配でもあり、彼の留守に慣れられるのも嫌だった。


「奥方様と離れたくないというだけでしょうに」


 とシェリーシュにからかわれれば、その通りだと思う。出先では彼女のふんわりとした雰囲気が恋しく切なくなる。


 彼女は彼に何かを強いることはなかったが、暮らしの中で心の変化を感じていた。身勝手な独身貴族は消え、二人のこれからの幸福に主な考えが移っている。それを守ることと、互いから目を逸らさないこと。


(アリスが微笑んで側にいてくれれば、それで僕は幸福なのだけれど)


 結局そんな簡単なところに落ち着いてしまう。



 

 アリスはロエルに腕を預け寄り添っていた。緑の中を歩き、少し先にうさぎを追ってロフィが駈けている。背も伸び言動も幼児らしさは抜けていた。活発で明るい少年に育っている。


「あまり先に行かないで」


 アリスがロフィの背に声をかけた。振り返りつつ手を振る。


 蜂蜜色の日差しの中、目を細めて眺めた。欠けたものなど見つけられず、欲しいものすら浮かばない。ロエルの妻になってからアリスは幸せの意味を知った。心が満たされることで湧き起こる充足感と安心感。今になれば、はとこのレイナがいつもうっとりとするような微笑みを浮かべている理由もわかる。


 日が陰り出し、辺りは暮かけのように暗くなっていく。突然の変化に、ふとアリスはロエルの腕をつかんだ。


 その時、しっかりとあった質感が砂のように脆く消えた。隣のロエルはどうしてか影のように薄まって儚い。アリスを見つめながら変わりない笑顔を向けている。何か話している。


(なのに、聞こえない)


 途端、周囲は暗く沈んだ――――――。



 そこでアリスは目覚めた。目にいっぱい涙が溜まっていて、瞬きのたびに溢れ出す。


 室内は暗くまだ夜が深かった。


 顔を手で覆い指先で涙を拭った。


(また嫌な夢……)


 彼女を包む全てが消え、一人暗闇に残される悪夢を時々見ることがあった。夢から覚めた今も鼓動が落ち着かない。恐怖がすぐに引いていかない。


 ドリトルン家で囚われていた彼女はもう過去のものだった。暮らしていて思い出すこともあまりない。あっても深刻な感傷ではなかった。何かしらの心の傷が無防備な睡眠に入り込み、しつこくこの現実こそ夢想だと語りかけてくるようで不快だった。


「……どうかした?」


 背後から彼女を抱きしめるロエルが囁いた。起こしてしまったのかと、アリスは申し訳なくなる。


「……ごめんなさい。何でもないわ」


「泣いているの?」


「……嫌な夢を見ただけ」


 彼は彼女の頬に口づけた。やんわりと耳朶を噛む。そうされるとくすぐったく甘やかな気持ちになり、心が凪いだ。


「どんな夢?」


 問いながら彼の手が彼女の腹部に触れた。少し丸みを持ったそこを守るように包む。アリスは彼との初めての子を身ごもっていた。二人はそれをとても喜び合っていた。


「……ううん。いいの」


「明日、あなたの為にロフィと大きな獲物を獲ってくる。だから、元気を出して」


 彼の声は優しい。初めての妊娠に彼女が繊細になるのを気遣ってくれている。悪夢もその作用かと考えるのかもしれない。


 ふと、微かな違和感を持った。それは身体の奥で何かが動いている不思議な感覚だった。彼女の腹部に手を置く彼も感じたようで、


「動いた」


 と囁く。遅れてそれが子の胎動だと気づく。ロエルの吐息に絡むような笑みがもれた。彼女も驚き、彼を振り返った。これまではっきり感じてこなかったそれが、二人同時にはっきりと体験出来た。それがアリスには嬉しい。


 振り返った彼女に彼は口づけた。


「愛している。何もかも、全てありがとう」


「わたしこそ……。あなたに恋をして良かった」


 こんなにも彼を感じ、彼もそれに応えてくれる。影のような夢は些細な過去からの落とし物。ふっと吹きやる程度で今に紛れて消えてしまう。


(また怖い夢を見るかもしれない)


 それでもいいとアリスは思えた。過去も含め彼女だから。


「愛しているわ、ロエル」


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