穴の意味 4
ドアが叩かれ、アリスは顔を上げた。昼食の席でロフィと別れ、それ以来ぼんやりと過ごしていただけだった。ここに閉じ込められてよりそんな日が続いている。何をするのにも虚しさがつきまとい、悲しさとやりきれなさにため息しか出ない。
「姫様、ミントでございます。ここを開けますから!」
ドアを叩いているのはミントのようだ。懐かしくも感じるその声に彼女は立ち上がった。ドアに駆け寄る。鍵はどうしたのか。彼女の居間は施錠されていて、フーから許しを得たメイドのみが鍵を預かっている。食事時と寝室へ下がる時以外開かれることはなかった。
ドアを蹴りつける音が続き、外にいるのはミントのみではないことが知れた。驚きにのまれて見つめる中、どれだけかしてドアが破られた。
まずミントが駆け入ってきてアリスに抱きついた。互いに抱きしめ合う。ミントの肩越しに男性の姿が見えた。部屋は暗く、それに慣れていたアリスは廊下から入る光のまぶしさに目を細めた。
「ご無事でようございました」
「……何があったの?」
アリスの部屋は位置的に馬場から遠い。固く閉ざされたドアからは捜索の騒ぎも耳に届かなかった。
涙を見せながらミントが腕を解く。
「ロエル様が助けに来て下さったのですわ」
「え」
彼がこの邸に来るなどあり得ない。信じられない気持ちで首を振る。その彼女を伸びたロエルの腕が抱きしめた。
抱擁は強く彼女はひと時息ができなかった。
彼の腕に包まれたことは何度かある。そのいずれもふんわりと優しいもので、今のような力強いものではなかった。髪に彼の唇感じる。背に回った手がしっかりと彼女を抱いて離さない。
会えない期間に思い出の中の彼と幾度も会った。儚く他愛のない白昼夢で、どの彼も彼女に優しかったが、いつもふつっとかき消えてしまう。その後に空っぽの自分が残されてとても悲しかった。
(違う)
無惨な夢の続きなどではなかった。
「ロエル……」
溢れ出す涙に彼が唇を当てた。
「迎えに来ました」
彼は腕を解き、彼女を外に促した。部屋を出て廊下を進み大階段を降りる。階下には警吏が彼らを待っていた。ここに来てアリスも邸の異常を知った。そもそも、彼女を懲罰的に閉じ込めていたフーはどうしたのか。彼女はフーの条件のいずれも果たしていないのに。
ロエルはアリスをミントに任せ、警吏の元へ行った。その硬い表情からいい話ではないのはわかる。
「何があったの?」
「やはりあったのでございますよ、穴の中に死体が……」
ミントはアリスにこれまでの経緯を説明した。それらを聞き、ロエルがこの場にいる訳もようやくつながった。ミントが彼女のために知恵を絞り動いてくれたことに改めて感謝した。
「お前のおかげよ、ありがとう。わたし、きっとあのまま暗い部屋で終わってしまうのだと……」
「とんでもございませんわ。お礼ならぜひロエル様になさって下さいませ。ミントの言葉を信じて下さったのは、ひとえに姫様へのご愛情ゆえ、ですもの」
アリスは恥じらいつつ頷いた。ロエルの行動がなければ、彼女は今もあの暗がりで項垂れていただろうから。
話が済んだロエルが警吏の一人を連れ彼女の側に戻って来た。身分を告げた後で警吏長はアリスに聴取の協力を願い出た。
「あなたが二ヶ月に及ぶ間軟禁状態におありだった事実は、複数の使用人から証言が取れています。そこに至る経緯などをのち、証言いただくことになります」
アリスは答える前にロエルを見た。彼が小さく頷く。
「事実をそのままおっしゃればいい」
「では、申し上げます」
彼女への質疑はそれで済んだ。
「この邸には司直の手が入り更に調査が進むそうです。あなたへの聴取はすぐにではないでしょう。今はここから離れてご実家に行かれてはいかがですか? お送りします」
「ロフィはどこに?」
「彼は僕の邸に。母が見てくれています。追ってすぐにお送りしましょう。ここには連れて来られなかった」
彼のロフィへの配慮に胸が熱くなった。彼女へ向けた優しさよりも心に沁みるのがわかる。
「本当にごめんなさい。あなたにはご迷惑ばかり……」
「あなたが詫びられる必要は一切ない。そう、ロフィ君は物怖じせずにとても勇敢でしたよ。褒めておあげになるといい」
「ええ、そうね」
ミントは準備もあり、少し遅れて実家に向かうことになった。アリスはふと気になり、背後の侍女へ声をかけた。
「ねえ、フーは? 見えないのだけれど……」
邸の騒ぎにあの男が出て来ないのはどういうことだろう。しかしミントは首を振るだけで答えなかった。
外に出ると強い日差しが降り注いだ。長く屋内を強いられた彼女はそれで目がくらみ、めまいを起こした。ロエルがそれを支え、そのまま彼女を抱き上げた。
人目もあり恥じらって抗うが、見送るミントまでが、
「姫様はお痩せになりましたもの。ロエル様にお甘えになられては?」
などと涼しい顔で言う。その側にはシェリーシュもいる。ミントを手伝うことがあるはずと残ることになった。
馬車に運ばれ扉が閉じた。すぐに走り出す。対面に同乗した彼が彼女の手を取り「非常に嫌な話ですが……」と前置きした。
「死体の身元が判明しました。ご主人のディアー氏でした。傷みがひどかったようですが、衣服などから判断したとのことです。銃痕から死因は近距離からの銃殺でした」
アリスは小さい悲鳴をあげた。目を閉じる。強い衝撃が去った後には、大きな疑問が湧き上がった。
「……ディアー様は外国に行かれたのではないのですか? どうしてそんな……」
「「邸を出た」「外国に向かった」。いずれもフーがそう告げただけでしょう。そこに根拠はない。彼がディアー氏を殺害し、あなたもご承知のあの穴に埋めた」
「フーが? なぜ?」
「主従間での何か遺恨があったとは想像しますが、はっきりとはもうわからない。それに関して彼が何かを残しているとは僕も思わない」
ロエルの説明は妙だった。フーがどこかにかき消えたかのような。そんな違和感を持ってしまう。
「執務室で自ら命を絶った姿が発見されました」
ロエルの告げた事実にアリスは言葉もない。代わりに切ないような吐息がもれた。フーはドリトルン家から切り離せない一部で、義父亡き後はそのものだったとも言えた。その彼が消え、彼女の中で急速に婚家の影が薄らいでいく。
(終わった……)
たどたどしくつないできたドリトルン家での日々が、今ぷつりと切れた。開放感も嬉しさも、または寂寥もない。ただ、自分が何かを脱いだのを感じた。重い花嫁衣装とも着古した喪服とも言える。
「悲しいのですか?」
気づけば彼女は涙を流していた。フーの死を悼むほど落ち着いていなかった。しかしロエルの言葉に、胸を突く傷みがあるのもわかる。
「恩は感じています。助けてもらったことも多いの」
過去にはフーの仕打ちに涙したことも多い。けれどもそれは彼から出たものではなく、亡義父やディアーの意見をフーが代弁し執行しただけのことだった。冷淡な言動で彼女を追い詰めたが、そこに彼の意思はあったかも疑わしい。今では。
アリスは首を振った。フーへの感情は捉えどころがなく言葉にし辛い。ただ少しも憎んでいない自分が嬉しかった。フーの死と同時に夫のそれも重なったが、物語の登場人物の悲劇のように現実感がない。
ロエルが席を移り、彼女の隣に掛けた。肩を抱き涙を拭ってくれる。額や頬に口づけられるのを感じたが、少し身をすくめただけで抗うことはしなかった。
限られた時間のささやかな触れ合いで、互いに感じた空白の幾らかは埋まる。乾いた喉が水を求めるのに似て、心地よく満たされていく。
アリスは今、ただうっとりと彼を感じてその温かさに甘えていたかった。




