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ドリトルン家 6


『……あれ以降、手紙のやり取りまでがドリトルン家の検閲を受けるのでは、と心配していたの。随分窮屈なお邸のようだから。でも、あなたがすぐにお手紙をくれたから、少しだけ安堵しました。


 わたしは大丈夫。何も気にしていないわ。ただあなたのことが気にかかるばかり。


 ロエルのことは心配しないで。あの男性の使用人の言動は、決してあなたのせいではないとわかっていらっしゃるから。確かにご不快の様子だったけれど、じき気分を変えてお帰りになったわ……』



 レイナからの返事を読み、アリスはほっと吐息した。先日の夜の件で、レイナやロエルへのフーの無礼が悔やまれてならなかった。それを制せずにいた自分ももどかしく惨めだった。


 文面通り受け取ることはできないかもしれない。彼の父上までを巻き込んだひどい暴言だったのだから。それでも怒りを堪えてくれた彼を、アリスは自制心のある紳士だと思った。


「ロエル・ゼム・アレクジア。困ったことがあればぜひ力になりますよ」。


 実際に彼に頼み事をする自分を想像できないが、言葉だけでも嬉しかった。声には優しさの重みがあった。


 ミントが客の来訪を告げた。アリスは手紙をたたみ手近の本に挟んだ。この離れに客など、フーでしかない。しかし、フーなら客とは告げないはずだ。


 返事も待たず、客が居間に入ってきた。ディアーの愛人のブルーベルだった。思いがけない人の登場にアリスは言葉を失う。


 緋色を基調にした華やかなドレスを着ている。栗色の髪を高く結った小柄で愛らしい様子は、ディアーが「小リスちゃん」と呼ぶのもさもありなんと言えた。


 ミントがアリスをうかがう。彼女が軽く頷いたのを見て、椅子を勧めた。


 ブルーベルは腰を下ろし周囲を無遠慮に眺めた。


(何の用かしら?)


 不思議に思ったが、元よりこの女性と話すことなどない。夫のディアーに愛されている見たくもない顔だった。口を開かずにいると、焦れた声が言う。


「何か言ったらどうなの? あなた耳は聞こえて?」


「聞こえます。ただ、何をお話しするのかわからなくて……」


「挨拶くらいしたらどう? わたしから訪ねているというのに」


 ブルーベルの言葉にミントがぷっと吹き出した。王族を除き、アリスら高家の者は人々の最高位にある。親族以外の人物に自分から言葉をかける習慣を持たない。ブルーベルがにらみつけるがミントは知らん顔だ。


 しかし、既に高家を出た身だった。先日会ったレイナも実業家夫人としてそんな旧弊は影を潜めていたかに見えた。


(見習わなくちゃ)


「ようこそいらっしゃいました。今日は何かご用でしょうか?」


 笑みこそ浮かばないが、丁寧にそう言った。


「そうよ。用がなきゃわざわざ来ないわ。ロフィのことよ」


 ブルーベルが産んだディアーの子だ。男子でロフィと名付けたとも聞いている。そして、アリスはその形式上の母になることをフーに認めさせられていた。


「何と言っても、我が子は愛おしいわ。あなたにはわからないでしょうけれど、命を賭しても守りたい存在よ。ディアーも同じように言ってくれているわ」


 誇らしげな声だ。相槌を打ちかねてアリスは黙った。愛人の子供自慢がペラペラと途切れない。できれば耳をふさいでいたかった。自分の前で立場の絶対的な差を見せつけたいのかと思った。


 うつむいたアリスに代わって、ミントが応じた。


「姫様は少し気分がお悪いようですわ。そろそろお帰りを……」


 ブルーベルはそれに取り合わず、長くため息をつく。


「わたしは何でも持っているつもりだったわ。美しさに劣らない頭の良さもあるの。だから、舞台で一番に輝くのはわたしだった。名のある女優よりわたしの歌と言葉が紳士連中を惹きつけるの。ディアーよりもっと身分の高い紳士だって、わたしに夢中になったわ。でも……」


 言葉の後で、ハンカチを取り出し目に当てる。ブルーベルの仕草にアリスとミントは顔を見合わせた。


「わたしには生まれ持った身分がないの。美貌やあふれる才能と引き換えても、今はそれが欲しいわ。……だって、それがないばかりに、わたしは最愛の息子をあなたに奪われてしまうのだもの」

 

 感情が突き上げるのか嗚咽をもらす。


「ひどいわ、……あなたは人形みたいにそこに座っているだけ。なのに、わたしの命より大事なものを奪うの……!」


 ブルーベルの涙ながらの訴えにアリスは全くうろたえてしまう。確かに彼女の子の名義上の母になることになった。しかし、全く本意ではない。フーに無理矢理のまされたに近い。


「あなたのお子を奪うことはありません。ただ、形式だけの話のはず。フーはそう言っていました。わたしは何もせずとも済むって……」


「何もせずとも?」


 ぬれた目でアリスを見る。射るような目つきで恐ろしかった。


「腹も痛めず子の愛おしさも知らずに、母親が務まると思っているの? 身分だけじゃ、そんなお飾りの妻じゃ、決して本当の母親になんてなれない。そんな甘いものじゃないの。姫様だか何だか知らないけれど、勘違いしないで!」


 突拍子もない難癖だった。しかしアリスはもちろんのこと、勝手の違った事柄でミントもいつもの調子で反論できない。その二人を前に、ブルーベルは肩を震わせ産みの母としての切ない心情を訴える。


「我が子との別れは、身を切るような痛みよ」


 ようやくミントが応じた。


「フーにおっしゃってはいかが? あの人から言ってきたことですもの、何とかなるのでは…」


「フーなんか!」


 ミントの言葉を遮り激しく首振る。切なげに唇を噛んだ。


 どれほどかの沈黙の後だ。ブルーベルがほっと吐息し落ち着いた声を出した。


「わたしも覚悟したわ。手放すわ、きっぱりと。奪われるくらいなら、自分から差し出すわ。それが真の母としてのせめてもの愛情よ。代わりに育てて頂戴。名義だけで母になろうなんて甘い話はないもの」


 話の成り行きに、アリスはまたもミントと顔を見合わせる。さすがにミントはすぐに反論した。


「おかしな道理を押しつけないで下さい! あなたのお子を姫様がどうして育てなくてはならないのです?」


「わからないの? 馬鹿な人。身分だけいい正妻にロフィを奪われるのが辛いの。なら、最初から手放すわ。あの子の肌の温もりもまだ浅い今なら、断ち切れる……」


「断ち切らなくても……」


「あの子をお願いね」


 ブルーベルはきっぱりと告げた。立ち上がり、裾さばきも鮮やかに部屋を出ていく。鼻をすする音が小さく聞こえて消えた。


 つむじ風のようだった。アリスはぼうぜんとししばらく声もない。


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