霧中 3
フーとの会話の数日後、ブルーベルは邸を出て行った。手切金の件が片づけば清々したものだった。次の暮らしの計画に心は移ってしまっているのが知れた。
立場もしがらみも違うが、その身軽さをアリスは羨ましく思った。
「母屋ではメイドが随分減ったそうですよ。子リスのお世話係はもちろんのこと、他に五人も減ったのだとか。フーの指示で使わない部屋は閉めてしまっているそうです。亡き大旦那様のお部屋もそうらしいですわ」
舅の死に次いで女主人同然のブルーベルも消えた。彼女がいなければ客人も少なく、メイドも減った。邸は火の消えたような寂しさだという。
「そう」
「ディアー様はこれからどうなさるのでしょうね? まだお若いし、ずっとお一人ということもないでしょうし。どこかで子リスのような女を見つけて来るのかしら?」
「かもしれないわね」
「それにしたって、次の女性ははずれを引きますわね。子リスの時とは違って、ディアー様に自由になるお金はわずかですもの」
夫の将来にアリスの心はちらりとも動かない。興味もなかった。
義父もブルーベルもドリトルン家を成す駒の一つだった。アリス自身もロフィも夫のディアーもそう。フーだってそこに入るだろう。その重要な駒が二つも消えた。残された駒は四つ。そこにふと禍々しさを感じた。
(ブルーベルの話のせい。聞かなければ良かった)
手習いを終えた後で、ロフィは馬場で馬の稽古を受けるのが常だった。アリスはそれをよく見に行った。時間の余裕もあるが、ロフィ自身が上達を母親に見せたがる。
子馬の手綱を引かれながらゆっくりと馬場を回っている。途中見物するアリスに手を振って見せた。
そこにふらりとディアーがやって来た。彼が馬場を使うことがあるのを彼女も知っていた。時に使用がロフィと被り、ちょっとした会話はするようだった。
肩につく長髪を流し、シャツの首元にスカーフを風に遊ばせた洒落た姿だ。少しだけ肉付きがよくなったが好男子ぶりは変わらない。
ディアーはロフィたちに近づくや、馬術の教師に代わり子馬の手綱を取った。見ているアリスは眉根を寄せた。
教師とは違い小走りに子馬を走らせるため、ロフィの顔が恐怖にこわばるのが見えた。そうしておいて、思い切り子馬の尻を叩いた。それに驚いた子馬はロフィを乗せたまま駆け出した。
その光景にアリスが悲鳴を上げた。教師が子馬に追いついて手綱を取り戻した為、事なきを得た。その間ロフィは子馬にしがみつき堪えていた。
馬を下ろされたロフィは一目散にアリスに駆け寄りしがみついた。泣きじゃくってしまう。その身体をかき抱く彼女に、
「悪かった。ちょっとした冗談だ」
ディアーは軽く笑いながら詫びた。もしロフィが馬から落ちていれば、怪我を負ったはずだ。幼い子供に対して看過できない行為だった。アリスは怒りで目の縁を赤くしながら、彼をにらみつけた。
従順な彼女しか印象にないディアーは、その反応に虚をつかれたようだった。
「悪気はない」
彼女はそれに返事をせず、ロフィを伴い背を向けた。よほど怖かったのか、泣き止まないロフィを途中抱え、離れに戻った。
ことの次第をミントに告げると、同じくまた激怒した。
「何てことをなさるお人でしょうか。馬の事故は恐ろしゅうございますのに、まだお小さい坊っちゃまに、ひどいなさりようですわ」
母とミントに慰められ宥められ、ようやくようやく落ち着きを取り戻した。促されてこの後の王宮へ向かう支度を始めた。
その後、ディアーは晩餐に来るように招待を寄越した。ミントが使いに応じたが、アリスは首を振るだけで答えに代えた。
「反省されたのでしょうね。これまで晩餐などお声がかかったためしもないのに。お詫びのおつもりですよ」
「恐ろしかったのはわたしより、ロフィよ」
その声にミントは常にないアリスの憤りを感じた。高貴な人の特徴かアリスの特性か、怒りが長続きしない質だ。気分を害しても、しばらくすればのほほんと薄れ消えてしまう。
その主人が昼前の出来事の怒りを午後遅くまで引きずるのをミントは初めて経験した。それにロフィへの深い愛情を再確認する。
と同時に、そのことがアリスを幸福から遠ざけてしまっているのも感じた。
アリスの実家高家は王宮の事情が大きく変わり、生活にゆとりが出て来ていた。贅沢をしなければドリトルン家からの援助は不要で、自立が可能な状況にある。つまり、彼女は離縁が可能になった。
(ご離縁なさってご実家にお帰りになれば、ロエル様との将来も十分あり得るわ。アレクジア公爵様の側がどういうご意見かは置いておいて)
しかし、アリスが決して離縁を選ばないことはミントにもわかる。ロフィを置いて家を出るなど、彼女には決して出来ない。
先代の命での養子縁組だったが、あれはアリスをドリトルン家に縛り付ける重い鎖だった、と今のミントはため息を吐く。養育も任され、それがアリスの意識をロフィ中心にしてしまった。もちろんミントにだってロフィは愛らしい子供で、その幸せは全力で守りたい。
(でもそれは、ロフィ坊っちゃまが姫様のお子だから……、なのよね)
何を一番に置くか。アリスの中の優先順位を変えることで、ロエルとの未来が描け、彼女自身の幸福への選択肢が増える。とても口に出来ないが、ミントは密かにそう考えることもある。
決してアリスに進言はできない諦めもある。そんなことを勧める侍女をアリスは遠ざけてしまうかもしれない。
(のち、ロフィ坊っちゃまがご立派に母親思いに成長されて、ディアー様やフーなんかを追い払って下さるかもしれないし)
とも思い直し、
(でも、父親譲りの放蕩息子に育って、姫様を悩ませるかもしれないわ。その時にはロエル様はとっくにこちらをお見限りだろうし)
などと世を拗ねたことも思う。
アリスとロエルの恋を思い出作りと推し進めてきたミントだが、ここに至って、
(姫様を拐って下さればいいのに。駆け落ちなさればご一緒にならざるを得ないわ。姫様は質素な方だしロエル様も穴でも掘ってればご機嫌なようだし、そっと静かにお暮らしになってもお幸せなはず……!)
などと一人合点する。そこにロフィの存在は欠けていて、自分の残酷さにちょっと嫌になるのだった。




