嵐の中で 6
頭に居座る黒い不安は消えることはなかった。何をしていてもどこにいても必ずある。食も細り、好きだった菓子すら口にしたくない。ロエルの名前を口にすることもなかった。
(怖いから)
逃げのようだと思った。けれど、それ以外日々を過ごす術がない。耐えて忍んで、苦しみを彼との逢瀬の思い出で紛らした。繰り返した口づけを思うと、涙も少しだけ痛みを消す。
公爵夫人は居室を見廻し、忘れ物がないかを検めた。王都の邸とは違い、滞在した叔父の館は彼女付きのメイドもいない。一月、身の回りをほぼ自分の手で賄ってきた。それが苦になる育ちでもなかった。
従僕が既に荷物を階下へ運んでいる。部屋を出て階段を降りた。世話になった叔父に丁重に礼を述べた。小領主で静かな独居を楽しむ人だ。今回のロエルの件では非常に迷惑をかけた。
「主人もお待ちしています。街暮らしはお嫌いでも、図書室の稀覯本を読みに、またぜひいらして」
「それはありがたい。ぜひとも、伺うよ」
その後で、夫人はロエルの病室へ足を向けた。ノックの後、ドアを開ける。息子はベッドにいたがそこにたくさんの紙を並べ、調査の状況を分析している様子だ。
髪をかきやりながら母へ顔を向ける。
「わたしはもう立つわね。あなたは好きなだけここにいらっしゃいな。ただ、そのまま山へ向かうのだけは止めて。必ず帰ること」
「わかったよ。勝手なことはしない」
削いだように細くなった頬はまだちゃんと戻らない。しかし病の影は既になかった。彼は療養の為にしばらく滞在することを望んでいる。大叔父の館が気に入り心地いいようだった。主人も勧め、「まだふらつくから、馬に乗れるまではここにいる」とのことだ。
「勝手なことばかりのくせに」
大病を乗り切った息子の髪をくしゃりと撫ぜた。我が子を失うかと思ったあの恐怖は、今も生々しく鮮やかだ。
叔父からの知らせを受け、ロエルの急病を知った。帰郷の途中で人事不省となったロエルを親しい叔父宅に運び入れたのは、従僕の機転だった。叔父の手配ですぐ医師が呼ばれ、その治療が功を奏した。
しかし、公爵夫妻が駆けつけた時のロエルは、既に息を引き取った風に見えた。何の反応も示さず弛緩し、その様に夫人は悲鳴を上げた。医師が彼の足先に太い針を刺し、その反射を見るまでは息が出来なかったほどだ。
枕頭にあって乱れた髪を梳き、無精髭を剃ってやる。大人になった息子のこんな世話は辛く、切なかった。
「ほら、ハンサムさん。令嬢方が放って置かないわ」
返事は返らない。何度も涙を拭った。回復は遅々としていたが現れ、高熱が引けば意識を失うこともなくなった。公爵は息子の回復を確信した後に王都へ戻った。夫人は残って看病に当たった。
実は夫人は館に着いて早々、ロエルの病室にあるものを見つけている。長い髪の毛だ。女性のものだとすぐにわかる。メイドのものかと気にも留めなかったが、館に黒髪のメイドはいない。そもそも黒髪は珍しい。
ふと記憶とつながったのは、ロエルの病状が危機的な状況を脱し、夫人も緊張を解いた時だった。
(アリス姫……)
まさか、とは思うが、腑に落ちることもある。息子の彼女への態度は特別だ。単なる親切を超えている。口にこそしなかったがそう感じていた。
そしてアリスも、夫人がロエルとの連絡がないと嘆いた時、なぜか涙を見せた。同情を感じ易い繊細な人かと思ったが、息子の連絡が遅いという母親のぼやきに泣くのは、やはり行き過ぎた繊細さだろう。彼女とは知人程度の仲に過ぎないのに。
(ロエルを見舞った?)
そうであれば、息子が求めたに違いない。本当に死の淵にあったのだから。全てを諦めた彼が、彼女を望んだのかもしれない。それにアリスは応えた……。二人の仲は、夫人が想像する以上に深いのではないか。
問えば、息子はどう返すか。順調な回復を見守りながら、何度も迷った。結局口にせず、ここを立つ日を迎えてしまった。
ロエルは大人で恋愛など好きにすればいいと思う。割り切ったつき合いをする女性がいるようなことを、夫からも仄めかされたこともある。相手の人を軽んじない思いやりが持てるのなら、何も言うことはない。息子の私生活は彼自身のものだ。
しかし、相手がアリスなら別だ。彼女は人妻だ。養子もあって、不自由な生活の中幼い子に心を砕いている。息子が戯れに手を出していい相手ではない。露見すれば、より傷を負うのは彼女の方だ。
(それをわかっているの?)
ただ、彼が最期に会うことを選んだのは、誰でもない彼女だった。どれほどの思いで、彼女との別れの時間を過ごしたのか……。そう思うと詰問したい気持ちも萎えてくる。
「あなたが邸を空けていると父上もお寂しいわ。早くお帰りなさいね」
「ああ。帰りは、ご都合を聞いて大叔父上をお連れするよ」
「そうして頂戴」
「心配かけて悪かった。それと、ありがとう」
「いいの。元気になってくれれば」
頬を手の甲でひと撫ぜし、部屋を出た。息子のアリスへの配慮と良識を信じながらひっそり吐息した。
(駄目ね。結局甘いの。自分の子供には)




