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幼な妻は泣くことを止めました〜いばらの館には夢見たものは何もなかった〜  作者: 帆々


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嵐の中で 4


 衝動的な拒絶だった。思いがけず大きな声が出てアリス自身慌てた。どうしてもその先を彼に続けさせたくなかったのだ。自虐な彼も嫌だったが、簡単に先を諦めたかに見える彼も耐え難い。


「……お側にいるわ。だから、もうお休みになって……。お願い……!」


 彼の口にした「最後」に過敏になったくせに。それに引きずられて泣きじゃくる自分も、同じだけ「最後」にこだわってしまっていた。


 彼の手が彼女の手をつかんだ。弱いがしっかりと握る。彼女の手を引き寄せ自分の胸に押し当てた。ふらりと身体が彼の方へ傾く。


「……同情で、僕につき合って下さるのか、都合がいいから、そう合わせて下さるのか……。あなたのお気持ちを教えて下さい。僕を傷つけるとか、そんな配慮はいいから、言葉を飾らずに……、どうか、本当の心を聞かせて下さい……」


 これまでになく二人の距離は近づいている。しかし、そのことよりも彼の問いが彼女を驚かせ、言葉を失わせた。


(どうして?)


 二人きりで過ごした幾つかの時間。やましさはないが、振り返ればある段階から、同じ何かを共有していたように思う。秘密の手紙のやり取りに及んでは、完全に背徳感を負っての行為だ。それが為にどれだけ悩み迷ったか知れない。「同情」や「都合」では超えられない境界を渡ったのは……、


(好きだから)


 その峻烈な思いに突き動かされて、ここにいる。けれども彼の目に「同情」や「都合」での行動に見えるのか……。


 アリス自身には自明の思いであっても、彼女の言葉も行動も女性らしい婉曲さで覆われている。真意を何重にも包んだ漠としたそれらに、ロエルはうんざりしたのかもしれない。


「あなたが……、わからない」


 めまいがした。息を吸い込むと同時、彼の髪や肌の匂いが感じられる。ようやくほんの側で彼を感じていることに気づく。異性の他の誰かではきっと不快さを思ったはず。けれど、ロエルにはときめきの勝った羞恥があるだけ。


「あなたでなければ、わたしはここにいません」


「……なら、僕に、接吻してくれますか?」


 唐突な申し出に、彼女はたじろいだ。


(わたしは……)


 しかし迷ったのはわずかだ。彼の中の彼女への不安を消せるなら、構わなかった。顔を上げて彼の唇に自分のそれを重ねる。恥ずかしさに瞳は閉じていたが。


 一線を超えた瞬間、すぐに唇は離れた。彼女は目を伏せて身を引いた。その背に彼の腕が回った。強い力ではなかったが簡単に抱きすくめられた。アリスには抗う意図もなく、逆に彼からの口づけを受けた。


 それは彼女の知らない接吻で、触れるだけではなく少し長く唇が絡んだ。


「あなたをどんなに愛しているか……」


 その囁きにアリスはうっとりと瞳を閉じたままでいる。


「あなたが好き」


 彼の腕に抱かれた今を嬉しいと思った。


「……試すようなことをして、申し訳ない……。あなたが手紙に書かれたように、……あなたにはご家庭もあって、……お子さんもおいでです。僕はその事実をどうしようもない……。結局、あなたを帰すしかなくて、……それを阻む術も持たない。自分が、何の力もない愚かな男だと知って、情けなくなるのです……」


 彼の声には力がない。アリスはそれが気がかりで、彼の腕を外しその身を横たえさせた。大きく息をついている。


「……まだ、お帰りに、ならないで。あなたを、失いたくない……」


「お側にいます。ほら……」


 横たわった彼の手を取り、それを自分の頬に当てる。


 彼からの手紙が途絶える直前、アリスは夫ディアーの愚痴を書き送った。私的な内情を綴ることは打ち解けた思いの表れのつもりだった。しかし、彼からの返しはその内容を責めるもので、ひどく慌てたことがあった。


 ミントはそれをロエルの嫉妬だと微笑ましく捉え、彼女もその見方に安堵した。返事で詫びはしたがそれほど深刻に受け止めなかった……。


 今の彼の告白を聞き、自分の解釈とは大きく違い驚いた。そして少なくなく彼を傷つけていたのだと遅れて気づいた。シェリーシュもロエルが発病の前に考え込んでいたと言っていた。それは彼女の手紙が原因なのかもしれない。


 人妻との恋。先がなく行き止まりなのは、アリスにとってだけではない。


(ロエルもそう……)


 彼が恵まれた独身貴族だからといって、戯れの恋に身勝手に飽きた、と疑い続けたのはアリスの側の偏見だ。真剣なだけより心を苛んでしまった。


「ごめんなさい。あなたを悩ませたわ」


「でも、……僕のせいでしょう」


 ほんの側にあって互いの思いを分かち合った。恋の成就は確かに二人を酔わせていて、時間の流れもこれからも、淡く霞んだ。


 と、ドアをノックする音が聞こえた。開かずに、


「そろそろご出立を。朝が近いようです」


 アリスを促すシェリーシュの声がかかった。できるだけ暗いうちに人目を避けて彼女を帰宅させようとの配慮だ。


 彼女は立ち上がった。ロエルを見つめる。彼が彼女へ手を伸ばす。立ち去りがたくその手を取った。瞳が引き合うように、再び口づけ合う。


 重なった唇が熱を帯びる前に、彼女は彼から離れた。何かを引きちぎるようだと感じた。


「必ずお元気になって。お約束して」


「……あなたは、なんてきれいなのだろう……」


 返事は的外れなもので、それが彼の答えなのかと悲しくなった。空の手形も切ってくれない。別れの間際に泣きたくないのに、涙が頬を伝った。


(これがロエルの「あきらめ」なの?)


 アリスは胸が潰れそうになる。


 ドアが開く。シェリーシュが彼女を急かした。最後に振り返るとロエルは既に瞳を閉じていた。ぐったりと弛緩した様子が切ない。


 外へ出ると東の空にわずかな赤みがある。朝がもうそこまでやって来ていた。


「公爵邸からの先触れがありました。じきご夫妻がお見えになります。鉢合わせは何とも不味い事態ですので……」


 名残惜しげに館を振り返るアリスへ、済まなさそうに告げた。両親に彼女の姿が見られることがあれば、申し開きのしようがない。親しみを見せてくれた公爵夫人の好意も瞬時に消し飛んでしまうに違いない。


 幸福を味わった直後に、ひたひたとした沼の淵に立っている自分とロエルを思う。


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