嵐の中で 3
シェリーシュが部屋を出て、アリスは椅子をベッドのすぐ側に動かして座った。こうすれば、薄暗がりでもロエルがよく見える。目覚めてもすぐ気がつく。
従僕の説明からもロエルの状態は決して安心できるものではない。固く閉じて見える瞼は苦しさの現れかとも思う。
椅子から立ち、床に膝をついて彼の手を取った。だらりと投げ出された手は力なく、彼女が触れても反応もない。あれほど会いたいと望んだ。ほんの側にいながら、自身の気配も気づいてもらえない。
涙が溢れ、顔をベッドに伏せた。彼は彼女に会うことで「あきらめがつく」と書いた。何のあきらめをつけようというのか。
彼は目を開けない。彼女を見てもくれない。
(まだ会えていない)
考えたくないが、思いは暗く沈む方へ流れていく。もし、このまま終わりになってしまったら。これで彼と別れることになったら……。突きつけられた恐怖に彼女は嗚咽をもらした。
彼のくれたものは両手に抱えきれないほどだ。ほとんど形のないものだが、いずれも彼女の胸の中で大切な思い出として残っている。ミントが彼とのつながりを強く推した意味も、今なら深く納得できた。それらは誰にも冒せない、彼女だけの宝物だ。
のちに、彼とはきっと決別する。しかしこんな終わりは嫌だ。それはこんな残酷なものであってはならない。いつか、彼が別の相応しい女性を選ぶ。その事実は彼女を切なさに溺れさせるはず。幾日も身を切る辛さに沈むだろう。
しかし、彼との最後はそうでなくてはならない。
(どうか、どうか……、こんなまま置いて行かないで)
泣きながらアリスは彼の手を握る。彼に何も返せてはいない。わたしを望むその理由も知らない。何を諦めようとしているのか。
「あなたの口から教えて……」
どれほど時間が経ったのか。厚く引かれたカーテン越しにまだ日は差さない。アリスはベッドに突っ伏すように泣いていた。
感情を発散させたことで少しだけ心に余裕ができた気がする。胸を軋ませる痛みはまだあるが。
顔を上げ、頬に触れかかる髪を耳にかきやった。泣き過ぎて目は腫れぼったいはず。涙を指で始末してロエルを見た。その時、彼が短く咳き込んだ。アリスは慌てて彼をのぞき込む。苦しいのか、何か欲しいのか。
彼女ではうろたえるばかりで何も出来ない。人を呼ぼうとドアを向いた。その時、小さな声が聞こえた。
「……アリス?」
信じがたいが、声は紛れもなく彼女を呼んでいる。振り返ると、ロエルは頭を枕に沈み込ませた力ない様子のままそこにいる。違うのは、瞳を開けていることだ。どこかぼんやりした眼差しで彼女を見ている。
上げた手が何かを捉えようと空を切った。アリスは落ちたその手を取った。指を握り問いかけた。
「お加減はどう? ……お水は要らないかしら」
ロエルが頷くので、傍の水差しからグラスに水を注いだ。それを少しだけ身を起こした彼の口元へ運ぶ。幾らか口に含んだ後で少し咳き込んだ。
「人を呼びましょう」
「いや……」
首を振りまた枕に頭を沈ませる。少しの動きも身体に触るのだ。闊達な彼しか知らないアリスはその痛々しい様子に涙がぶり返す。散々泣いた後だというのに、枯れない涙が頬を伝う。
「……来て下さった。無理かと……」
「お辛いのでしょう? どうしたら……?」
彼女の髪に彼の指が触れた。緩く指が絡む。頬に流れた彼の指は涙をやんわりと拭う。その甘い刺激にアリスの悲しみは確かに慰められた。
(これも……、あなたが初めて)
「僕の為に、泣いて下さるの? いつも、あなたを困らせてばかりいる……」
「……本当に、そう…」
「少し、気分が悪いだけだったのに、気づいたら、大事になってしまっていた……」
「あなたのお付きの人は、とても困ったようよ。随分、ご無理をなさったのでしょう? 早くお帰りになればよろしいのに」
「……形に出来ないのなら、始めた意味もない」
頑なな返答だった。責務への彼なりの意地もわかる。しかし、健康を大きく損ねて家族にも多大な心配をかけた。それと同等のものとは彼女には思えない。
咳き込んだ後で、
「……あなたが駆けつけて下さったのなら、こうなった意味がある。……そうでしょう? 僕にも、それだけの価値はあるのだと知れた……」
彼がつないだ言葉にアリスは顔をしかめた。病気の影響なのかもしれないが嫌な言葉だった。常に前を向いた言葉をくれた彼らしくない。
「そんなことをおっしゃらないで……」
急な知らせに全身を震わせてここまで来た。彼女にとって初めての経験で、以前の彼女であれば絶対に尻込みした冒険だ。それを迷わず選んだのは、彼への思いに他ならない。
斜に構えた物言いは事態に拗ねたようにも、彼女を突き放すようにも感じられる。真意を計りかねて、困ったように小首を傾げて彼を見る。
(「会いたい」と書いたのは、あなたなのに)
「あなたがそんな風でいらっしゃるのを、何度も夢見た……。僕の言葉が、おわかりにならないみたいに、困ったように……」
「わたしは夢でもあなたを煩わせるのね。何をおっしゃったの?」
彼はそれに答えず、疲れたように吐息した。会話がもう辛いのかも知れない。こんな程度のことが身体に障るのが悲しかった。
「もうお休みになって。無理はいけないわ」
「……これが、最後になって…」
「止めて!」




