ドリトルン家 3
結婚の真実を知ってからもアリスの日常に変化はない。母屋の近くを避けて庭を散歩し、塀の外のざわめきを聞いた。
ブルーベルというディアーが邸に迎え入れた女性を見かけることもあった。それは決まって馬車を仕立てての外出の際だ。散歩は好まないらしい。庭を歩く姿を目にすることはなかった。
変わったことは、ミントがフーに求めアリスが実家へ父の見舞いに訪れる許可をもらえたことだ。母屋のブルーベルの存在を見逃す代わりの待遇の譲歩にしては易いらしい。
月に一度、アリスは高家へ出かける。これもミントが強く求め、その際の手土産にふんだんと菓子や果物も要求した。前もって母屋の厨房に伝えれば用意しておいてもらえる。ミントはそのため母屋の使用人らと話す機会ができ、邸の様子も知れるようになっていった。
「派手好きでわがままなお人らしゅうございますわ。旦那様はその言いなりとか。使用人らは表立って「お方様」と呼んでいるそうです。おかしいですわね、やはり「奥様」とは呼ばせられないのですわ。しょうがありませんわ、しょせんは舞台で歌って稼いでいたような人ですもの」
ミントの言葉にははっきりと悪意があった。感じたが、アリスは咎め立てせずにいた。ただ、乗らず流すに留めた。
「おきれいな人ね。ちょっとお見かけしても華やかで目立つわ」
「まあそうでなければ、旦那様を引っ掛けられはしませんわ。二十三歳だそうです。小柄だからもっと若く見えました」
「そう」
と受けながら、わずかにアリスは傷ついていた。十五歳の自分に大人のディアーが惹かれないのは当然だと思った。ブルーベルのような成熟した女性を好むのはよく理解できた。
ドリトルン家に来て半年が過ぎた頃だ。
お茶の時間で、アリスは離れの居間にいた。ミントが厨房の人と仲良しになり、アリスの食卓に上る品は上等になった。その前までは、ディアーとブルーベルに配膳した分の残りをかき集めて皿に乗せた、寄せ集めの余り物だったという。そのことを怒りに顔を真っ赤にしてアリスに愚痴ったミントだったが、すぐに改善させた。
というわけで、茶菓子にしてもディアーたちと同等のものが並べられるようになった。
「厨房から距離があって、パイは冷めてしまっておりますけれどね」
「お前もお上がり」
「はい、後で頂戴しますわ」
ミントは食事のことでひどく憤ったが、それでも高家で口にしていたものに比べれば、質も量も格段に上だった。自分と同様に父の食事情も潤ったことを知るにつれ、アリスはしみじみと嬉しく思った。
境遇に慣れれば、今の暮らしをありがたいとさえ思う。
(この一点のみでも、ドリトルン家に嫁いだ価値はあったわね)
来客が告げられ、アリスはカップを置いた。
「フーですわ。何の用かしら? お茶のお邪魔でしょう、追い返しましょうか?」
大きな声だ。扉も開け放したままで、玄関のフーにもミントの声が届いているに違いなかった。わざとしているのがわかって、アリスはちょっと笑った。
「いいわ。通して頂戴」
フーは居間に入ると、アリスに挨拶をした。ミントの用意した席に着く。
「歓迎してもらって嬉しいよ」
これはミントへの皮肉だ。そのまま部屋に控えた。アリスとフーを二人にさせる気がないようだった。
「何の用?」
アリスが来訪の意図を問う先にミントが聞いた。フーはアリスに向かい、
「高家は極めて名家だと尊ばれていますが、仕える侍女はまるで安酒場の女給のようですね」
と薄く笑った。
「なんて無礼な!」
「気安くていいと褒めたんだ」
アリスはミントをなだめた。確かに、訪れた人へ褒められた対応ではない。
「何かお話があったのでしょう?」
フーがこちらへ足を向けることはこれまでなかった。アリスのために要求があるときは、ミントが彼のいる母屋に乗り込んで行く。
「姫君にお知らせと、あとちょっとしたお願いがあるのです」
「お父様に何か?」
高家の使いは一旦母屋に行き、そこから伝えられる。直接アリスの元へ来ることはなかった。それもミントが常々要求してきたことだが、フーはそれを許さなかった。父や実家の異変などは即座に知らせるからと、それだけは約束してもらってある。
まず父の健康が頭にあった。
「いや、そうではありません。先日ご機嫌伺いに参じましたが、お元気のご様子で。お邸の皆さんも変わりないようです。ご安心を」
「そう」
それなら、後は大した問題ではない。アリスはフーを見た。目が合い先にフーが視線を外した。
「お知らせとは、ある出来事についてです。ブルーベル嬢が子を身ごもられました。おわかりでしょうが若のお子です」
それはつぶてのような言葉だった。ぱしりと強く彼女の胸の辺りを打った。ひととき呼吸も忘れた。
「……わかるもんですか、どこの誰の種だか知れない」
やはり先にミントが応じた。そこでアリスはやっと大きく息を吸った。
無礼極まりないミントの言葉をフーは穏やかに返す。
「確かに。しかし、嬢がそう告げ、若はお信じになっている。それが全てです。……ともかく、若のお子が生まれるのです」
「それが何?」
「姫君は若の奥様でいらっしゃる」
フーの声にアリスは顔を上げた。嫌な驚きがまだ尾を引いていてうつむいてしまっていた。
「形だけのね」
ミントがぶすっととした声で返した。フーはそれに取り合わず、アリスを見ながら言葉をつないだ。
「お子の母君になっていただきたいのです」
「え」
今度はミントより先に声が出た。言葉ではなかったが。意味がわからず側に控えたミントを見た。彼女の前で組んだその手が、硬く握られている。
「よくもまあ、ぬけぬけと……。厚かましい! 姫様を何だと思っているの!」
「だからこそ、ぜひ高家出身の姫君にお子の母になっていただきたい。そうでなければ、お子は相続権を持てないからです。庶子を大旦那様はお認めではない」
「どこまでこちらを馬鹿にすれば気が済むの!」
しばらくミントの罵声が続いたが、どれもアリスの意識の外にあった。
(これがフーの言った「ちょっとしたお願い」なのね)
まだまだ続きそうなミントの怒声をアリスは制した。落ち着くためにカップを取りお茶に口をつけた。せっかくの香気のあるお茶がぬるくなってしまっている。それでも喉を通ると少し気持ちがしゃんとする。
「ディアー様はどうおしゃっていて?」
「お子を授かるのをお喜びですよ。他はご関心がない。……母になっていただくと言うと大袈裟だが、あなたのお手を煩わせることは何もありません。ただ、形式上の母としてお名をお貸し下さるだけで済みます」
「断ったら、お父様への年金を止めるとか言うのでしょう?」
「そこまでは……。納得いただくまで説得には参りますよ」
「わかりました。お子に良いようにはからって下さいな」
「姫様」
ミントの声がかかったが、アリスはその手を握ることで抗弁を封じた。
フーは彼女の承諾を取るとすぐに離れを辞した。用が済めばそれ以上は無駄な時間で、割く意味も気持ちもないのがわかる。
以前、夫ディアーの真の姿を知らされた時に比べ、まだ痛みは少なかった。名義上母になるということも実感もない。
ディアーとブルーベルに子供ができ、より二人の絆は強まるのだろう。彼にとっては、庭の片隅の離れにいる幼い妻など存在しないに等しい。もし、彼女のことが念頭にあるのなら、自身で話をしにやってくるはずだ。
「よろしいのですか? 縁もゆかりもない子の母になられるだなんて、姫様のお名に関わります」
「それより、お子がディアー様の財産を継げない方がお気の毒よ」
「そんなお優しいことでは、益々フーがつけ上がりますわ」
「お子に関しては、わたしがすることなど何もないとフーも言っていたし、もういいじゃない」
気が滅入っていたがアリスは無理に笑ってみた。自分でも強張った笑みだと思った。ミントはアリスの寛大過ぎる承諾を盾に、フーから待遇改善をもぎ取ろうとぶつぶつ言っている。
「姫様がご自由にお手紙を出せるくらいは認めさせなきゃ」
自分のために懸命になってくれる侍女を、アリスは切ないほど嬉しく思った。ドリトルン家での彼女の味方はそのミント一人だ。
(ありがたいのことだけれど……)
その慣れ親しんだ愛情だけでは満たされていない心に気づく。
(ディアー様の中のわたしは、なんて小さいのだろう)
きっと影さえもないと思った。