箱の中のアリス 3
言葉通りロエルはアリスへ手紙を書き送った。これまでと同じくレイナの手紙に同封する形を取り、誰の目にも触れず彼女の元へ届けられた。
彼女への他愛のない問いかけで便箋は埋められていた。節度ある内容で感情を綴ったものではない。けれども一部筆が走ったような箇所が、彼女の呼吸を止めることもあった。
『……あなたの下さったお答えが僕は嬉しかった……』
彼女が示した「答え」とは、彼の質問に返した夫ディアーへの本音だ。振り返れば、抑えた言葉にも感情があふれていたと思う。紛れもない心の奥の声だった。それが「嬉しかった」とはどういうことか。
同じ手紙を何度も一人の夜に読み返した。戸惑いに混じってため息がこぼれた。しかし、言葉以上の何かを探すのはためらわれた。
問いかけばかりの内容で、返事を書かない訳にはいかない。居間でその手紙に向かっていて、人の気配にすぐに手紙を伏せた。侍女のミントもメイドたちものぞき見るような不躾のことはしない。また、彼女の手紙に興味などないだろう。相手は決まって実家の父かはとこのレイナでしかないのだ。
時間をかけて短い返事をしたためた。万が一誰かの目に触れても構わないよう注意を払った。レイナのものと重ね封をする。
返事にはまた便りが返ってきた。何度も往復するうちレイナは封書に名を貸すばかりになり、中身はほぼロエルの手紙、という形になった。
そんな中、ロフィの小姓見習いも始まった。手紙にはそんな内容も混じる。アリスが王宮でのロフィの様子を不安がると、それに応えて返しがあった。
『僕が推薦状を用意しましょう。それがあればパレスの中も入れますから。ロフィ君の活躍をご覧になれますよ』
読みながらアリスは頬が緩んだ。
(やっぱりお優しい方)
しかし、続きが目に入り「まあ」と思わず声が出た。
『会っていただけるのならお渡ししましょう。いかがです?……』
とある。前回寄付を行った孤児院の訪問を促された。以前から二ヶ月近く経ち、様子を伺いに再度訪れても違和感はない。そして、外出の理由としてとても相応しい。
アリスが判断に悩むところを予想して、彼が楽しんでいそうな様子も何となく読める。そんなところもやや悔しいが、やはり紹介状はほしい。慣れない王宮でロフィの頑張る姿を見たい気持ちは切実だ。
応諾の返事をした。
ミントに頼み孤児院への差し入れを用意してもらう。慰問は口実だという後ろめたさがあり、せめて喜ばれる物を届けたいと思った。
「厨房に言って、子供たちが喜びそうな物を用意してもらいますわね。他に、母屋に孤児院で使えそうな物がないかも聞いておきますわ。こちらはケチなお家ですけれど、清潔な布ものはふんだんにありますからね」
「ありがとう」
ロエルからの申し出は彼女をたじろがせた。けれど、約束を交わしそれが予定になると心が浮き立った。単純に出かけるのが楽しいのもあるが、彼に会う喜びもその中にはある。手紙のやり取りを通して、その存在は確実に鮮やかになっていた。
幼いまま嫁がされた彼女の世界は離れのみと言ってよく、ごく小さい。この先、そこから出ることはないと信じている。
(変わり映えなく日々を繰り返していくだけ……)
外出、手紙の往復……。ロエルを通じて不意に起きた変化だった。それはアリスの心を揺さぶり続けた。逃せない思いにかられるのがわかる。
孤児院を訪ねた帰りだった。アリスが持参した慰問の物資にロエルは感心していた。馬車の中でもさかんに褒めた。悪い気はしないが恥ずかしくなる。
「わたしは頼んだだけです。侍女が用意してくれたのです」
「子供たちの姿が頭になかったら、そう頼まれることもなかったはずです。お気持ちがなければ思いつきもしませんよ」
見つめられながらそんな言葉をもらうと、頬が熱くなる。彼女は窓に視線を向けた。ふと沈黙ができた。
じき、レイナの邸へ着くはずだ。この日はレイナの邸で落ち合い、そこから二人で孤児院へ向かった。ロエルの提案だった。
「公園通りの方が近いのですが、人目につき易い。ギアー氏の邸なら安全です」
彼の言葉にアリスは窓から目を戻した。何が「安全」なのだろう。慈善の外出で見られて困ることなどない。
「姫は既婚者でいらっしゃる。知る人が見たら、男とお出かけになるのをとやかく言う者もいるでしょう」
「……なら、あなたもお困りになるのでは? あなたの方が有名のはずですもの」
「僕はいいのです。そんなこと気にしたこともない」
ロエルは軽く首を振る。
落ち合う場所の変更には不名誉な噂を防ぐ目的があった。アリスはそのことにちょっと胸がしんとなる。少しばかり浮き立った思いでやって来た。孤児院の様子を再び見るのも興味深かった。ミントが用意してくれた物資も喜ばれた。実りのある時間だったと思う。
ただ、二人でいる姿を人が見れば、醜聞になることもあり得る……。それは、彼と一緒にいてはいけないということだ。現実感はないが恐ろしく思えた。父が知ればどう思うか。また、ドリトルン家の誰かに見られればどうなるか……。
「そんなお顔をなさらないで。怖がらせてしまいましたね。少しだけ慎重になればいいだけのことです。僕に任せて下さい」
ロエルは膝に置いた彼女の手をそっと握り、すぐに離した。彼の手の感触はアリスのしばらく指に留まったままだ。
「……あなたを外に連れ出す価値はきっとあります」
それはアリスの望んだ答えではなかった。欲しかったのは、彼女に時間を割く理由だった。
「不安ですか?」
そう問われ彼女はもう尋ねなかった。真っ直ぐに自分へ注ぐ彼の瞳にまるで吸い込まれそうに思えたからだ。
「この後、もうしばらくだけ時間をいただけませんか? 僕の邸にお連れしたいのです。母が孤児院へ寄付をする奇特なご婦人にとても興味を持っていて…」
ロエルの母は彼女のために孤児院への紹介状を書いてくれたと聞く。断る理由はない。アリスは頷いた。
彼の母の話題にふと思い出す。その母は昔、世間の噂に悩んだと言った。あの時は自然に聞き流した。詮索する気持ちも起きなかった。しかし、本人に会う今となれば少し気にかかる。
(何の噂だったのかしら?)
ロエルが馬車を止め、御者に自邸へ向かう旨を命じた。それを待ってから彼女は切り出した。
「ご不快だったらよろしいのです。以前、ロエル様はお母様にまつわるお噂のことをおっしゃっていました。どういったことだったのですか? もし、差し支えなければ教えていただけませんか?」
彼の表情が硬くなったように見えた。それを見て、いけないことを聞いてしまったのだと、アリスは気持ちが冷えた。
(とても失礼だったわ)
何と詫びようか、唇を開きかけた時だ。ロエルは楽しそうに笑った。笑顔のまま、
「あなたが初めて僕の名を呼んで下さった。しかし、様はおかしいでしょう。あなたの方がはっきりと身分が上ではないですか」
予想の全く別の方向からの反応が返ってきて、アリスはあっけに取られた。返事が遅れる。
「男性のお名前には皆、様を付けます。そのように習いましたもの」
「ドリトルン家のあの嫌味な男にも様を?」
「フーはフーですわ」
「だったら僕もそのようにお願いしたい。そちらが嬉しい。ほら、レイナ夫人も僕に様など付けませんよ。親しい人は皆んなそうです。何度もお会いしてあなたとは仲良くなったと自負しているのですが、自惚れていますか?」
彼女は首を振る。ロエルを信用していた。そうでなければ、馬車で二人きりになどなれない。
「……では、わたしも名前でお呼び下さい」
「喜んで。……先ほど母の噂についてお聞きでしたね。あなたに差し支えなどありませんよ」
彼は両親の身分違いの結婚について語った。そのことが原因で、社交界では彼の母を悪く言う噂が絶えなかったことも。少しでも印象を変えようと、慈善活動に努めた動機もよく理解できた。当初は偽善的な振る舞いだったかも知れないが、長く続けている事実はその人柄を物語っているだろう。
アリスは彼の母が社交界と距離を置く理由が腑に落ちた。
身分違いというならば、アリスとドリトルン家との縁組もそうだった。レイナも当てはまる。身分差のある結婚は窮しての選択だった。その結果、娘を売ったと噂されたのは高家の方で、ドリトルン家もレイナの夫のギアー氏も無傷に近い。外から見て、得をして見える側が叩かれるのだ。
ただ、身分差がありながら公爵に見そめられるには、よほどの女性でないと難しい。容姿や資質、運、全てに恵まれた特別な人物だ。
アリスはちょっと吐息した。
「きっと皆さん、ロエルのお母様がお羨ましかったのね」
彼女の嘆息まじりの言葉に、彼は吹き出した。首を振りおかしそうにしている。
「母に言ってやって下さい、アリス。驚くと思いますよ」




