ドリトルン家 2
午後、庭を歩いていた。離れ近くの塀の側で耳をすます。近所の子供達の喧嘩の声や、その親らしい甲高い注意などが聞こえる。
「手伝いをしろって言ったろう? このトンマ! 妹を叩くんじゃないよ。何度言ったらわかるんだい、この子は。ああ、嫌になるったら!」
よく息継ぎもせず、一息であの長い文句を言い切れるものだ。アリスも真似て詩を誦じてみたが、すぐに息が切れた。
母屋近くまで足を運べば、使用人たちが忙しげに動いているのが見えた。次々に大きな荷物を運び入れている。
それらの一つ、美しい姿見が日を反射して光った。眩しさに彼女は目を細めた。大きなトランクを抱えた使用人が手を滑らせた。落ちて地面に角をぶつけた。
「気をつけてったら! その衣装箱の値段だって馬鹿にならないのよ。旅行にも便利なように特注してあつらえたの。他にないのよ。気をつけて!」
女性の声が響いた。よく通る高い声で叱りつける。さっきの子供を叱る母親と同じく、一息で続いた。きっと喉が強いのだろう。
何となく眺めていると女性の姿も目に入った。全身が深い赤の衣装で、大きな羽飾りの帽子をかぶっている。その下の小さな顔が見えた。頬だけがほてったように赤い。美しい人だと思った。
(お客様かしら?)
ふと目が合った。アリスは軽く会釈した。ディアーの知人かもしれない。妻として粗相があってはいけない。
相手の目がアリスを凝視しついっと離れた。敢えて存在を無視する仕草だ。彼女はそんな振る舞いを受けたことがない。驚きにやや呆然となった。
そこへ邸の中からディアーが現れた。白いシャツにブルーのスカーフを長くなびかせている。彼はいつも洒落た身なりを崩さない。この日も洗練された装いだ。自分が魅力的だと知る自信のある歩調で真っ直ぐに赤い女性に向かう。
すぐに距離が果て彼は女性の肩を抱いた。ごく親しい間柄のみに許される触れ合いだった。そこにもアリスは違和感を持つ。
(お友だちではないわ)
「知らせをくれれば劇場まで迎えに行ったのに。君の到着を待つ時間が短縮できた」
「嫌よ。楽屋で亭主面をされたら恥ずかしいもの」
「ひどいな、そうさせてくれないのか」
ディアーは女性の頬に唇を寄せた。くすぐったげに微笑んで女性は身をよじった。
それらを目にしアリスは小さな悲鳴を上げた。自分は何を見ているのか、訳がわからない。
初めて女性が彼女を意識した。ディアーに問う。
「ねえ、あの子は何?」
遅れて彼もアリスに気づく。しかしすぐに目を逸らした。女性を邸の中に促す。
「離れに預かっている少女だよ。親のない可哀想な子なんだ」
「まあ、ディアーったら優しいのね。大した慈善家だわ」
「見直したかい? 僕の小リスちゃん」
二人が中へ消え、その後を追うように使用人らが荷物を運び込む。
たった今終わった寸劇が、彼女をひどく戸惑わせ混乱させた。「離れに預かっている少女」? 「親のない可哀想な子」?……。
(どういうこと? わたしは望まれてドリトルン家に嫁いたはず。わたしは妻なのではないの?)
唇に押し当てた指先は冷たい。しばらくして彼女は母屋の中へ足を向けた。結婚して以来入ることのほぼなかった場所だった。こちらの使用人は彼女が中へ入ることをやんわりと禁じてきた。理由は準備がまだであるとか、旦那様が時間を置きたがっているとか……。それらをアリスは鵜呑みにしてきた。
(だって、嘘をつかれる理由がわからないもの)
広い玄関の奥に彼らが消えるところだった。ディアーが「小リスちゃん」と呼んだ小柄な女性の腰に手を当て、エスコートの態勢だ。男性が妻など特別な女性にだけする仕草だ。もう見間違いようもない。女性は夫の特別な誰かだ。
「ディアー様!」
思わずその背を呼び止めた。吹き抜けの玄関は彼女のほっそりとした声でもよく通った。首だけ彼が振り返る。
それに勢いを得てアリスは更に言い募ろうとした。自分でもわからない何かを。
しかし、その前にディアーの声が響いた。彼女へ向けたものではない。
「フー! いるんだろ? 任せた。面倒はごめんだ」
それだけで彼はアリスの視界から消えた。どれほど経ったのか、自分の前に影ができた。ゆらりとした痩身のフーだ。いつ現れたのかも定かではない。困ったようにため息をついている。
「こちらへはご無用とお伝えしたはずですがね」
「どうして母屋に入ってはいけないの? わたしはこの家に嫁いだのに、どうして?」
「理由はもうご覧になったでしょう」
ディアーが「小リスちゃん」と呼んだあの女性がここに住まうからだ、という。
「妻がいるのに、別の女性を?」
「愛人を持つ男など珍しくもないでしょうに。とりわけ、若はあなたとの結婚に及び腰だった。さっきのブルーベル嬢の機嫌を損じかねないと、ご不満だったのです」
話しながらフーは彼女を外へ導く。母屋から出そうというのだ。意固地な気分になり、彼女は玄関に踏み留まった。ここを去るのは自分ではないはず。
喉からやってくる涙の元を何とか飲み込んだ。
「なら、……どうしてわたしと結婚を?」
「若のお父上の大旦那様が強く望まれてのことです。高家の姫を妻にさえすれば、好き勝手は許すと」
もう一度フーは彼女を外へ導いた。
「さあ、外へ」
彼女はいやいやをするように首を振る。
「じゃあ、わたしは何のためにここに……、ディアー様の妻となったの?」
「甘えたことをおっしゃるな」
それは鋭い声だった。頬を打つような厳しいもので、アリスはびくりと身を震わせた。
「こちらへ」
すかさず促され足が動いた。怯えてしまっていた。叱責したフーの声も怖かった。そして自分の置かれた境遇に震えてしまっていた。
慌ただしく結婚が決まり、それにもあまり動じずに来れた。それは自分がひっそり夢見ていたからなのだと思う。未来の夫に望んで選ばれた、運命の巡り合わせなのだと……。
(まるで幼い頃のおとぎ話のように、勝手に夢見て……)
いつしか涙が頬を伝っている。涙のにじむ目に指を押し当てた。そこに鋭さをやや消したフーの声が降った。
「我慢なされば、悪くないご生活は保証しましょう。ご実家のお暮らし向きも心配なさる必要もない。ただ、賢く目をつむるだけのお話です。きっとあなたのお為になる」
返事もできず、うなだれてフーの声を聞くだけだった。退路を絶たれ、選びたくない道を示され、それ以外道がないと脅される。
(これがわたしの結婚。お飾りの妻……)
自分を人形のようだと思った。
さすがに気丈ではいられず、アリスはミントを前に泣きじゃくった。気持ちのやり場がなかった。
主人に忠実な侍女は怒り狂った。
「フーに言ってやりますわ。こんな結婚は破棄にすると。愛人が母屋に住んで、正妻の姫様がちっぽけな離れだなんて。高家を侮るにも程があります! そもそもがドリトルン家などとは身分違いも甚だしいご縁ですのに。なんて無礼な、身の程知らずを!」
今にも飛び出しかねないミントの腕をアリスはつかんで止めた。
「なぜお止めになるんです? 帰りましょう、ご実家に。きっと殿様も姫様への振る舞いに憤って、離縁をご理解下されますわ」
「……いけないわ」
「なぜでございます? こんな無礼を耐える理由などありませんわ」
アリスは首を振る。ミントの言うように簡単にここを出てはいけない。
(できない……)
彼女の我慢の下に高家の生活がぶら下がっている。それをついさっき、フーに突きつけられたばかりだ。
彼女が我を張り実家に逃げ帰ったとする。そうなれば、即座にフーは高家への資金を止める。その先は考えなくとも読めた。困窮した名ばかりの名門に戻るだけだ。
(お父様のお薬代もないわ)
父が病がちになったのは線の弱さもあるが、高家にとって高価な医療を受けられなかったためもある。倒れるまでは不調を押して大学にも務めていた。教授は名誉職で大した金にはならないが、家にはそれでも収入源だった。累代の困窮で父の代で急に家運が傾いたのでもない。
「姫様はこちらで、もうずいぶん我慢なさいましたわ」
ミントの怒りがアリスを逆に冷静にさせた。ディアーの振る舞いを見ぬ振りすることが、賢いのかはわからない。
ただ、感情のままここを飛び出してもひととき彼女自身がすっとするだけ。誰も幸せになれない。
「殿様ばかりか姫様も詐欺にかけるなんて、不届きな輩ですわ。許せません」
「ねえミント、こう考えるのはいけないかしら?」
怒りのために頬を赤くしている侍女を前に、言葉をつないだ。今の暮らしが決して悪くないこと。実際、ディアーの事実を知る前までは満足していた。それは変わらない。
「それに、お父様への年金がいただけるのは何よりありがたいわ。またきちんとお医師に来てもらえるもの」
ミントだって婆やの孫で、高家の苦しい内情は知り抜いていた。病弱な当主の療養事情に話が向けば、文句も途切れてしまう。
「だから、ここを出てはいけないと思うの。……今ではないわ」
「まさか、我慢なさるおつもりで?」
「我慢……、かしら? 結婚しただけで、妻でもなんでもないようだもの。何かを耐えたつもりもないし……。ディアー様にはわたしを飾り物でも妻にしたことが都合がよろしいの。……わたしにとっても、妻の形でいれば都合のいいことが幾つもあるわ。お互い様ではない?」
「それにしたって、あんまりなやりようではございませんか!」
涙が乾きつつあるアリスに代わり、ミントが涙ぐんでしまっている。
「決して悪いようにはしないって、フーは保証してくれたの。それは信じてもいいのじゃないかしら。この家にとっても、高家から来たわたしは必要なのでしょうし」
「姫様……!」
ミントはすがるように彼女に抱きついた。ミントにだって一時の激情が去れば、アリスの判断が穏当であるとわかる。高家への年金が絶たれるのは父思いのアリスにとって、一番の弱点だった。
「あの冷血漢め!」
ミントは泣きながらフーを罵った。
主従抱き合いながら、しばらく泣いた。
そうしながら、まだアリスの心には余裕があったのかもしれない。彼女は男性を知らないが、人の心は移ろうことはわかる。
(いつか、ディアー様がわたしを本当の妻と認めて下さる日も、来るのかもしれないもの……)
胸に芽吹いた小さな初恋は踏みにじられていた。しかし、摘み取られたのではなかった。
(ここにいる限り、それを待っていたい)