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幼な妻は泣くことを止めました〜いばらの館には夢見たものは何もなかった〜  作者: 帆々


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箱の中のアリス 2


 緑の豊かな公園を並んで歩く。天気が良く気持ちのいい午後だった。散歩を楽しむ人々の姿も目につく。


 いつもの離れがせせこましいのではないが、緑の小道を行くと手足が伸びるような心地だった。敷物を広げてピクニックをしている者たちもある。

 

(ロフィも連れて来てあげたいわ)


 不意に甘い香りが流れ、そちらへ目が向く。屋台の店が何やら売っている。アリスが目を凝らすと店先に並ぶ菓子が見えた。気になって見てしまう。


 どれだけか見つめていた。気づけばロエルが手で口元を押さえ吹き出すのを堪えている。咳払いするように笑いを引っ込めた。


「行ってみましょう」


 彼に誘われて店の方へ向かう。揚げたての菓子が紙の小箱に入れて売られている。糖蜜をかけたそれらはキラキラとしてアリスの目を引いた。


「一つくれないか」


 彼女に聞かずにロエルは一つ求めた。渡した金が大きく店主は釣りがなく困っていた。


「要らない」


 そう釣りを断り、受け取った菓子をアリスに手渡した。


「どうぞ」


 受け取った小箱の菓子は彼女の手の中でほかほかと温かい。


「ありがとうございます」


 指でつまめるほどの小さな揚げ菓子は、中にジャムが入っていてそれが口の中で溢れ出る。生地の甘さと酸味が合ってとてもおいしい。


 もう一つ、と頬張った。視線を感じて顔を上げると、彼女を見つめるロエルの目に会った。ふくらんだ頬を見つめられるのは気まずい。顔を背けて急いで咀嚼した。


 ゆっくりとした歩調で、池のほとりまで来た。


「どうしてもお聞きしたいことがあります。口にすると、あなたはお気を悪くされるかもしれない」


「お聞きしないと何ともお答えできませんわ」


 ロエルは戸惑うようにしばらく言葉を溜めた。アリスは様子をうかがいながら言葉を待った。意味なく彼女を傷つけることは言わないはず。そんな信頼はあった。だからどこか楽な気持ちで、ひっそり端正な横顔を見つめていた。


 しつこさに困惑させられたこともあるが、彼ほど彼女に親身になってくれた男性はいない。


(とてもいい方)


 心を許せる近くまでロエルの存在は迫っていた。


「先ほど、あなたはお子さんのことをお答えになりませんでした」


 意外な言葉にアリスは瞬時意味がつかめなかった。しばらく後に、馬車で彼が子供について言及したことを思い出した。「ロフィ君だけがお子さんとは限らないのでは?」。赤ん坊の声を懐かしんだ彼女に対して彼が口にした問いだった。


「そうかしら……。お答えしたつもりでいました。確かに、養子が増えることはあり得ますもの」


 ディアーと愛人のブルーベルの諍いの噂も聞くが、まだ笑い話の範疇だ。今後、ロフィのきょうだいが増える可能性は大いにある。舅の意向でその子がアリスの養子となることも十分予想できる。


「そうではなくて、あなたのご実子のことです。あなたとご主人との間の……」


 ロエルはそこで言葉を切った。少しだけはにかんだように瞳を伏せている。アリスは言葉を返しかねて手の小箱を両手でぎゅっと握った。立ち入った興味だったが、不快に思わなかった。


(この方でない別の男性であったら、嫌だったかも)


 ただ、なぜ彼がそれを知りたいのか不思議だった。


「ありませんわ」


 ドリトルン家での彼女はお飾りのようなものだった。それが、ロフィの養母として最近になってようやく認められ始めた。しかし、母屋で女主人然と住まうのは愛人のブルーベルだ。アリスは未だ離れを出ることを許されないでいる。


「それは絶対に?」


 念押しの問いだった。伏せた視線も彼女へ戻っている。


「レイナ夫人からあなたのお身の上は幾らかお聞きしました。ご主人に側室がいることも知っています。しかし、彼があなたとの嫡子を望むこともあるのではないですか?」


 ロエルの言葉をもしミントが聞いたら、吹き出して面白がっただろう。「側室? そんな上等なものじゃありませんわ。あの図々しい癇癪妾が」などと吐き捨てそうだ。


「いいえ」


 彼女は短く答えた。ディアーが彼女との子供を望む想像も不快だった。そんな意思を向けられるとすれば、怖気が走る。湧き上がった夫への強い嫌悪感に驚いた。愛人の存在があっても彼女の中で夫への思慕は消えなかった。風向きが変われば、振り向いてもらえるかもしれない。かつてはそんな希望をつないでいられたのに。


「もし……、ご主人があなたと向き合うために、側室と別れたらどうです?」


「主人はもう当主ではありません。なので、従う必要もありませんわ」


 嫌な問いが続いた。彼女は彼から顔を逸らした。もう止めてほしかった。これらの問いかけに何の意味があるのか。


「あなたに相応しいお立場に戻るのであっても、ですか?」


「主人の側に戻ることが、自分に相応しいとは思いません」


(ディアー様はロフィを捨てた人)


 アリスはロエルに辞儀をして身を翻した。繰り返される不快な問いにうんざりしていた。やはり彼は彼女をいつだって困らせる。


 軽く裾をつまみ、急足で歩く。幾らも行かないほどで、後ろから手を取られた。追いかけてきたロエルが彼女の手を引いた。歩が止まった。振り返るのが癪で彼女は顔を背けたままでいた。


「申し訳ありません。不愉快な問いを重ねた。僕はあなたを怒らせてばかりだ」


「困らせて……、面白がっていらっしゃるのではなくて?」


 アリスの声になじる色が混じった。


「まさか。そんなつもりはありません」


 彼は手首をつかんだままでいる。彼女が外そうとすると彼がやや強く握った。

 

「あなたのお気持ちを知りたかった。邪魔な存在が消えれば、あなたはご主人を許すのではないか、そう思えたのです。それを一番望まれていたはずです」


「……ブルーベルが消えたって同じ。尊敬できない人の側にはいられません」


 やっとロエルは彼女の手を離した。取り戻した手を彼女は胸で小箱ごと抱いた。


「もうよろしい? そろそろ帰らないと……」


 彼の返事を待たずに彼女は踵を返した。早くこの場から離れなくては、と気持ちが急かれた。また足早に歩を進めた時、靴先が小石を踏んだ。それでつまずきそうになる。よろけた彼女をロエルがすぐに支えた。腕を差し出した。


「馬車まで送らせて下さい」


 アリスはたじろいでいて、彼の親切をすぐに受け取れないでいる。その様子に彼が被せて言った。


「もう何も言いません。お約束します」


 それでも彼女はためらった。なのに、今この瞬間に抗えない力がある。それを確かに感じた。初めての、心が浮き立つようなうっとりとする感覚だった。

 

 一方で、早くこの場を立ち去らなくては、と冷静な自分が囁いている。


「お願いします。あなたに拒絶されたまま別れたら、僕は長く苦しむことになる」


「大袈裟ですわ」


「そう思われますか?」


 その声は切実に響いた。言葉にはアリスの否定を封じてしまう強さがあった。彼女は彼の腕に自分の手を置いた。そうしたのは、何だか後で悔やみそうだったから。自分の行いが彼を悩ませるのなら、それを選びたくなかった。


 約束通り彼は無言だった。彼女を気遣い緩い歩調に努めてくれた。砂利混じりの小道を踏む足音、風に揺れる梢、誰かの笑い声。それらが静かな二人をしばらく取り巻いて通り過ぎていく。


 御者の待つ馬車溜まりまでもう少しだった。二人の時間の終わりが見えた時、アリスはふともらした。


「わたしは普通の妻であったことなどないのです。そうなることなども求めていません」


 過去の彼女と未来の彼女を端的に伝えればこれで終わる。ロエルの息をのむ気配が伝わった。


 少しの間の後だ。


「ありがとうございます」


「何もおっしゃらないのではありませんでした?」


 アリスの声には笑みがにじんだ。つまらない会話の気まずさは彼女の中では消えていた。話の向きはともかく、態度と言葉は真摯な彼を裏切るものではなかったのだから。


 彼女は彼の腕から手を外し、ボンネットに手をやる。その彼女へ彼が言った。


「手紙を書きます。読んでいただけますか?」


 招待など家同士の正式なものでなく、婚約者でもない独身男性が若い女性に手紙を書き送るのは非常識とされた。アリスが既婚者であれば尚のこと、認められない振る舞いだ。これまでも彼はレイナの手紙に同封して彼女へ詫びの手紙を送ってきた。それらには謝罪という理由があった。


(何のために?)


「またレイナ夫人にお願いして、彼女の手紙に同封させていただきます。僕の名は決して出さない」


 熱っぽい声が彼女の耳朶に近く降る。知らず、その声に頬が熱くなった。


「レイナが何て思うかしら……」


「あの方は僕のことをよくわかっていらっしゃる。いけませんか?」


 外界とほぼつながりのない彼女に、既にロエルの存在は刺激であり社会への窓のような意味合いもある。眺めていたい欲求は消せない。


(いけないなんて……)


 彼女は首を振った。そのまま短い別れを口にした。ロエルは立ち去った彼女を見送った。


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