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幼な妻は泣くことを止めました〜いばらの館には夢見たものは何もなかった〜  作者: 帆々


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窓 8


「わたしがこちらに嫁いで来られたのは、本当に幸せ。少し何かが変わっていたら、ドリトルン家に行くのはわたしだったのかも……。何かの匙加減でしかないのに、アリスは可哀想だわ」


 レイナは伏し目がちに言った。


「彼女だって幸せになっていいはずです。そうでなくてはおかしい」


「しかし、実際はアリスは人妻だ。他家の問題をどうしようもあるまい……」


 ギアー氏の声がロエルの感情をざらりとなでた。人妻という抗いようのない事実が彼をひどく不快にした。


(あんな場所にいるべき人じゃない。相応しいもっと別な……)


 その思考を断ったのはレイナの声だった。


「アリスを気にかけて下さるのは嬉しいのだけれど、もうその辺りで十分よ。これ以上はあなたのお為にもならないかも」


「なぜです? 僕なら構わない」


 すぐに返したロエルにレイナは夫をチラリと見てから言葉を続けた。ためらいがちな様子だ。


「主人も言ったけれど、あの子はドリトルン家の夫人よ。アリスの問題にあなたが関係すれば、嫌な噂をする人が現れるかも……。あなたのお名前にも傷がつくわ」


「結局、決してアリスの為にならない」


 二人が言うのは、ロエルがこれ以上絡めばアリスとの仲を疑う人々が現れる。それによって彼だけでなくアリス自身も中傷に傷つくことになりかねない、そういうことだ。人妻であるだけ、彼女の側の被害がより大きくなるだろう。ドリトルン家での立場は更に悪くなるに違いない。


 目の前の見えない壁を感じちょっと息苦しい。思わず深く吐息した。


「しかし手をこまねいていたら、アリス姫お一人が辛いだけだ」


「君の正義感はわかるが、少し入れ込み過ぎに思うよ。アリス自身が何も求めてもいないのに……」


「あの人は自分で頭の虫も払えないようなお人じゃないか。誰かが手を貸さないと、まずい状況にも気づかない。……彼女が知った時にはおそらく、何もかも手遅れだ」


 自分を見るレイナとふと目が合った。やや小首を傾げ彼を眺めている。その様子はさすがに親族で、アリスに似ていた。


 この日会った彼女は、ただ可憐で清楚なだけでなく鮮やかな生気を感じさせた。自由の幅が大きく広がり胸が弾んでいたのだろうか。以前は平凡な容姿に思えた彼女が、レイナと遜色ないほどに美しく彼の目に映えた。その愛らしさに知らぬ間に目で追う自分がいた。


 実を言えば、彼女がいると聞いたから先約を変更しこちらに来てもいる。


「ロエル、アリスに恋をしていらっしゃるようよ」


 その口調は軽かった。微笑んでもいた。しかし彼をうろたえさせるのに十分な鋭さがあった。


「おいおい」


 ギアー氏が笑った。妻の言葉を冗談と取ったらしい。一方、ロエルにはとても笑いにしてしまうことが出来なかった。


(恋? 彼女に? まさか……)


 容姿の好みの他、更にそこにしっかりとした自我が備わっていないと心が惹かれることはなかった。数年のつき合いになるリリーアンは、その点で彼の目を引いた。


(あんな植物みたいな人を、まさか……)


 波だった心からは「まさか……」としか出てこない。そんなロエルをレイナが見つめている。もう口元に笑みはなかった。


「どうなさるの?」


 仮に、とロエルは考えを組み立てる。仮に自分がアリスに惚れているとして、相手は人妻でその思いに先はない。では、潔く諦めるか。


(それは……)


 自分でもおかしなほどに気持ちが乱れた。彼女への思いを断つことを身体のどこかが強烈に拒絶する。


(できない)


 仮定の話であるのに、既にそうではなくなっていた。アリスへの恋は既定の問題にすり替わってしまっている。


 自分の心の声に触れた今、まるで掘り進めた坑道が崩れでもしたように視界が暗い。先がない思いをわかっているからだ。


「本気なのか?」


「自分でもわからないが……。否定はしない」


「もう彼女に会わない方がいい。そのうち冷めるよ。同情と憐憫が合わさった気の迷いだ」


 そうかもしれない。言葉には納得するが、自分の大事な部分を貶されたように面白くなかった。それに、その通りであっても気の毒な彼女を何とか助けたいという気持ちは固く残っている。


 自分の感情は置いておいても、アリスの危機は救ってやりたい。それが叶えば定まらない思いに答えも出そうな気がした。


(実際に、崩れた坑道から抜け出した経験もある)


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