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窓 2


 ロエルの声を聞きながらアリスは細くため息をついた。楽しかった時間が白けた色を帯びてきた。現実から離れたこの場にいつもの暮らしの隠せない侘しさが入り込んでくる。


(お父様に訴えたところで……)


 売られた同然で嫁いできた身だった。世間知の疎い高家にそう仕掛けたドリトルン家が、父の申し入れなどで彼女への処遇を変えるなどありえない。幾つもの縛りやフーの突きつける言葉から、彼女はそれを骨身に染みていた。


(何も変わらないのなら、何もしない方がまし。誰も傷つかないもの……)


「ぜひお父上に事実をおっしゃって下さい」


 何か物をひょいと移すほどの簡単さでロエルは言う。それもアリスにはおかしい。この人は人の手で自分の行く先を遮られたことがないのだろう、そう思った。


 やや癖のある金髪が額に流れている。まぶしいその姿に目をやりながら彼は幸せなのだとも思った。だから人に幸せなのかと聞ける。


「……知れば父は具合を悪くするかも……。このままの方がいいと思います」


「大学に戻られてお元気なのでしょう? なら、もうあなたのお務めは済んだはずです。これ以上の我慢は不要だ。お父上にあなたの権利を取り返していただくべきです」


「父は諍いを好みません」


「ご自身の姫のためであっても?」


「わたしの知る高家の当主の皆様はそうかと……。名を汚さぬように問題から距離を置くものです」


「あなたを守ることがなぜ名を汚すことになるのですか? ただ、歪な状況を正してもらうだけではないですか。ごく正当な申し出に過ぎません」


 首を振った。


(できない)


 まず父に知ってほしくはない。そして、そんな申し入れがあればドリトルン家は実家への援助を今ほど潤沢にしてくれなくなるかもしれない。


(フーなら。まるでその懲罰かのように父への年金を減らしてみせるはず)


 それが彼女には読めるからこそ、ロエルの言葉は空虚な理想論にしか聞こえない。


「お邸は十分美しく保たれています。使用人も健康そうです。それらはあなたの犠牲で成り立っているのでは?」


「犠牲だなんて大袈裟です。それに、令嬢が少なからずそうした結婚を選んでいるとも聞きます。レイナもそうではないですか」


「確かに。経済的な結婚は大いにあります。しかし、レイナ夫人との違いはあなたが一番よくおわかりのはずでしょう」


 レイナも同じ選択をしたと逃げたつもりだった。しかしその結果の大きな違いを返されて、彼女は言葉をまた失う。追い詰められたような気持ちになった。


「僕の母も身分違いの結婚をしています。あなたとは逆の意味で」


 アリスは顔を上げた。ロエルの言葉は、母の身分が父公爵と釣り合わなかったと打ち明けている。


「父は母を絶対に守りました。誰にも何も言わせなかった。そうでなかったら、母にとって公爵家は針のむしろでしかなかったはずです」


 そういえば、彼は母への土産にとアリスと同じ菓子を買っていた。この人は母親に優しい人なのだと感じた。夫と息子、二人に大切にされるその女性を本当に幸せな人だと思った。


(わたしとは違う)


 寂しさがなかったといえば嘘になる。悲しさとも違う切なさが胸をさっとよぎって消えた。


「あなたにも絶対的なお味方が必要なのですよ」


 彼の母親を守った父親のような完璧な擁護者は彼女にはいない。だから遠い話だった。彼が何を示そうとも、彼女の立つ位置からはそれが見えない。


 アリスは首を振った。


「父には何も頼めません。何も知らないのですから」


「どうして? 家名を汚すお話ならば筋違いです。……ご自分の姫の真の境遇を把握されないのは、父親としてあまりにも怠慢ではないですか」


「あなたには、事情がおわかりにならないの……」


「わかっていないのはお父上ですよ。あなたの我慢の上で安穏とされている。見事な馬車で大学に通われているとも聞きます。なるほど、それはご気分もよろしいでしょう。そこに何の疑問も抱かれない。ご身分柄というが、悪辣なドリトルン家のやりようのように奇怪で歪ですよ」


 次々に向けられるロエルの言葉の数々は、痛烈に彼女の父を攻撃していた。彼女は目をつむりそれらに耐え、終いまで聞いたところで唇を噛んだ。


 嫌な衝撃に胸が悪くなるような気がした。最後まで聞いてしまったのは、単に人の話を遮る習慣がなかったためだ。


 彼を見上げた。彼女の何かにロエルはやや驚くような表情を見せた。


「父を辱めて何がなさりたいの?」


「あなたに自分のご事情を気づいていただきたいだけです。姫のこれからが萎れていく代償には、安過ぎませんか?」


「そうであっても、あなたには関係ないでしょう」


 アリスはそこで身を翻した。呼びかける声を聞いたが、振り返らなかった。小走りに駆け、御者の待つ馬車溜まりに戻った。ここへ降り立った時とは比べようもない胸の苦しさを抱えて、再び車内に入る。


 馬車が走り出し、彼女は顔を手で覆った。棘のある父への侮辱は実に腹立たしい。何も好き好んで今の状況を招いたのではない。二つの選択肢を常に問われ、そのより被害の少ない方を選び続けてきただけだった。


 結果、彼女の自身の甘やかな夢や希望などは小さく萎んでいった過ぎない。決して自分から捨てたのではなかった。


(何も知らないくせに。勝手なことばかり)


 耳にしたロエルの言葉を全て忘れてしまいたかった。悔しさの他恥ずかしさと惨めさがある。それらが溢れ涙になった。幸い一人だ。抑えずに嗚咽だけ殺しながら泣いた。

 

 帰宅したアリスをロフィが出迎えた。スカートの足に抱きついてくる。この頃にはすっかり涙は始末してある。


「母上、これは何ですか? いい匂いがします」


 ロフィの声だ。彼女の手の袋に気づいて興味ありげに見ている。屋台の菓子の入った小袋だ。嫌な午後の置き土産で、捨ててしまうつもりでいた。しかし、ちょっと迷ってからロフィに手渡した。


 早速袋を開け、嬉しそうに口に運んでいる。アリスと同じでこの子だって外を知らない。賑わいやそこでの楽しみも味わったことがない。


「まあようございましたね、ロフィ坊っちゃま。でも少しずつお上がりなさいませね。お夕食が入らないと困りものですから」


 ミントの声に頷きつつ、ロフィはいい音を立て菓子を頬張っている。その愛らしい様子にアリスは心が和んだ。五年の日々に、彼女の産まず育った子は既に愛おしい存在だ。


 そのロフィがそばにいて、心易い忠実な侍女も彼女を支えてくれる。居心地のいいささやかな住まいにも不足はない。小さなこの世界が彼女の全てで未来だった。


「母上、僕ね、いい虫を捕まえました。後で見て下さい。箱に入れてあるんです」


「わたし、虫は苦手なの」

 

「大丈夫です、可愛いから。しましま模様で毛も生えていて……」


「あら嫌だ、聞いていて背中がむず痒くなりますよ」


 ロフィは菓子を食べ終え虫の箱を取りに自室へ駆けて行った。ミントがテーブルの菓子を片付けながら言う。


「姫様のお留守にフーが伝えに来ましたわ。年明けから、坊っちゃまに家庭教師がつくそうです。お勉強の時は母屋にお連れしてほしいとか」


「そう」


「この間まで赤ちゃんのようでしいらしたのに、もう手習い始めですもの。早いですわね。すぐ大きくおなりですわ」


 ロフィは成長すればここを出て自分の世界を持つようになる。当たり前のことがミントの言葉に引き出され、アリスの心を揺さぶった。


(それでもわたしは変わりなくここに……)


 そこにロエルの言葉が被さって響く。


「あなたのこれからが萎れていく代償には安過ぎませんか?」。


 ロフィの足音に思いが途切れた。アリスはなぜだかとてもほっとした。


 ロフィは困り顔を見せた。


「母上、ミント、僕のいい虫が箱から出ちゃったみたい、逃げちゃったみたい」


「しましまの毛虫が逃げ出した?!」


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