繰り返す日々に 2
共有した時間はわずかだった。それほど言葉を交わした訳でもない。しかし、よみがえった記憶は鮮やかで彼女の胸をしめつけるようだった。フーの彼へのあり得ない無礼。それを叱責すらできずにいた自分の未熟さ、申し訳なさ……。
浮かぶのは言葉ではなく涙だった。瞳をあふれ、じんわりと熱く頬を伝った。
「どうなさいました?」
彼女の涙を訝ってハンカチを差し出す彼が小首を傾げた。受け取ったそれを目に当てる。アリス自身にも涙の意味がわからなかった。
(五年も前のことなのに)
「……ごめんなさい。ご迷惑を……」
「いや、そんなことはいい」
彼は彼女を気遣い店の裏手に促した。そこは公園につながっている。空いたベンチの一つに自分の上着を脱いで広げた。
「座りませんか?」
アリスは彼が指した場所に腰を下ろした。ようやく涙は止まってくれた。
「こちらにはよくいらっしゃるのですか?」
「月に一度ほど……。実家を訪れた帰りです」
「さっきの店で僕も後ろに並んでいたのです。令嬢らしい人が一人で、おかみにやり込められているので気になった。あなたのような身分のご婦人が、珍しい」
「……恥ずかしいわ。メイドに教わって買いに来たのです。実家からの帰りは寄り道にちょうどよくて」
ロエルも公園前で馬車を停め、この辺りを往復することはよくあるのだといった。知人宅が近いらしい。
「あなたをギアー氏のところでお見かけすることはないな……。レイナ夫人とは今もおつき合いを?」
「はい。手紙のやり取りばかりですけれど」
「ご親族でずいぶん仲がよろしかったようなのに、どうして?」
ロエルの視線を感じ、アリスは口ごもった。
「申し訳ない。余計な詮索ですね。お気に触ったのなら、許して下さい」
「いいえ、そんな……。ドリトルンの家でわたしはあまり外出を許されていないのです。それで、レイナにも滅多に会えなくて……。彼女にはいろいろよくしてもらっているのに、申し訳ないのですけれど」
彼は言葉を返さなかった。目を伏せ膝に置いた手を握っている。
(あの夜のフーのことも思い出されたのかも。無礼で嫌な態度を……)
会話も途切れ少し気まずい空気が二人の間に流れた。
アリスはふと思い立ち、膝に置いた紙包を開けた。『レンガ焼き』を一つ取り出し手で割った。片方をロエルに差し出した。親切のほんのお返しのつもりだ。
「お上がりになりません?」
「え」
今度は彼が言葉に詰まったようだ。瞬きをし、菓子を受け取りかねている。
「出来立てが美味しいとか。メイドが言っておりました。評判だから売り切れることもよくあるのですって」
彼女は彼に菓子を勧め、自分もそれを頬張った。焦がした飴の香ばしさとクリームが混じり非常に美味だ。思わず微笑んだ。ロエルがじっと見るのを感じたが、この瞬間は別だ。気にならない。
つられてか、彼も口にする。
食べてしまえば彼女の寄り道の目的は終わる。そろそろ馬車に戻らないと御者も心配するだろう。腰を上げた。ベンチの上着を彼へ差し出す。
「ご親切をありがとうございました。あなたも『レンガ焼き』をお買いになるのでしょう? 早く並ばれないと、売り切れてしまうかも……」
彼も立ち上がり上着に袖を通した。
「噂に聞いて、母への土産にしようと立ち寄っただけで……。どうしてもという訳では」
そう首を振る。アリスと行き合ったせいで、気が削がれてしまったのかもしれない。彼女と違い、菓子への執着も強くなさそうだ。何より、ロエルは好きな時にどこへでも出向く自由があるはずだ。母への土産を買う機会はいくらだってある。
通りへ戻る。ロエルは帽子のつばに手をやる。それに応じて彼女も会釈を返した。短い二人の時間はもう終わる。次に会うことはおそらくない。
「困り事がおありではありませんか?」
急に問われ、彼女はぼんやりと彼を見た。困ったことなら『レンガ焼き』の代金が足りず慌てたことだ。それも彼に助けてもらっている。
なおも気遣ってくれる彼を優しい紳士だと思った。緩く首を振った。
「では、最後に……。お幸せですか?」
彼女は首を傾げる。
(なぜこんなことを聞くの?)
少ない使用人に囲まれて養子のロフィと暮らす日々だ。生活に窮してはいない。離れはドリトルン家の中の更に小さな箱庭で、その中で彼女の生活は完結していた。他の可能性や足りないものを数えることは絶えてない。それが彼女の五年の日々だった。
幸せか、どうか。自分の心に聞いたこもない。
「さあ……」
胸がざわめいてちょっと揺れる。彼女はそのままロエルに背を向けた。小走りに馬車の方へ向かう。御者の開けた扉から中に入る。扉が閉まる。ほどなく彼女を乗せた可憐な箱が動き出した。
背を預けるとゆっくり身が沈むように感じられる。豪奢な作りのこの馬車は、ブルーベルの好みで作らせたものだった。邸では女性用になっており、ブルーベルに用がない時のみアリスが利用するのを許されていた。もっとも、彼女はほとんど使うことがない。
ミントへの土産の紙袋と一緒に白いハンカチが残っていた。ロエルが渡してくれたものだ。別れる際に返すべきだった。
(次に会うこともないのに……)
彼が今日くれた親切と一緒にもらっておくべきなのだろう。洗ってアイロンを当て寝室の小箱にしまっておく。自分はきっとそうするだろう。
邸の母屋で車から降りた。アリスはこの玄関から離れに歩いて帰るのが常だった。そこに甲高い声が降ってくる。
「遅いじゃないの!」
いらだったブルーベルだった。めかしこんだ様子から外出するところのようだ。アリスが馬車を使っているため、待たされたらしい。
「勝手なことをされるとこっちが困るのよ」
アリスをにらんで言う。しかし、馬車が空いているかは外出前にちゃんと本人に確認してあった。「お好きにどうぞ」との返事があったから、出かけてきたのに。
そんなやり取りは侍女のミントが行う。何か行き違いがあったのかのかもしれない。そう思い彼女は謝った。ブルーベルは責める時、相手が詫びるまでしつこくなじる癖がある。
今も腰に手を置きアリスを見上げている。ブルーベルは小柄だった。叱られ続けたアリスは逆に肩を落として小さくなっている。
「ごめんなさい」
「わがままな人は周囲が迷惑するわ。メイドのミスでもあなたのミスよ。気をつけて頂戴」
「もういいよ。急な予定が入ったのは僕たちの方だ。別の馬車なら待たずに済んだ」
背後からゆったりとディアーが現れた。ブルーベルの結った髪をちょんと引いた。愛人を促して馬車に乗り込んだ。
行きがかりでアリスも使用人たちと彼らの出立を見送る形になった。二人揃っての外出なら夜会だろうと思われた。
「わがままなのは子リスの方なのに。若奥様がお出かけになった後でお誘いが入ったんですから。頭を下げられる必要なんてございませんのに」
「でもこっちが折れて謝らないと、いつまでもうるさいのよ。若奥様がお早く折れて、すぐに謝られたのは賢明ですわ」
母屋のメイドたちが気遣ってくれた。それらの口ぶりから邸でのブルーベルの評判が知れた。ミントからも母屋の内情はよく耳にしていた。「あの人、実は旦那様より年上なのですって。三つも歳を誤魔化していたそうですわ。若造りが上手いものですね」などなど……。
庭を横切り、離れに戻った。館の前でロフィが同じ年頃の少年と遊んでいる。塀の向こうの町の子供で、塀の壊れ目からいつの間にか出入りし遊び友達になっていた。
アリスを見るとロフィは彼女の駆け寄った。抱きついてくる。濃茶の髪の可愛らしい少年だ。利発そうな顔立ちをしている。
「お帰りなさい、母上。高家のお祖父様はお元気でしたか?」
幼児の年齢だが、ロフィはもうきちんとした言葉を話す。間違えることもよくあるが。
「ええ、体調はよろしいようよ」
話し声にミントが出迎えに現れた。侍女に土産の小袋を渡した。ぱっと嬉しそうに表情がほころんだ。
「ありがとうございます。あら、これは……?」
袋と一緒に手のハンカチも渡してしまった。大判で男性用に見える。広げて検めているミントへどう説明しようか、戸惑った。ロエルとはもう会うこともない。詳細は告げず、親切な紳士から借りたのだとのみ伝えた。
「お返しのしようがありませんわね。ともかく洗っておきましょうね」
帰宅後は外遊びを終えたロフィの相手をした。夕食までそうやって過ごし、子供が寝た後はミントと話しながら刺繍をしたり読書をして、早めにアリスも床につく。
彼女は夫のディアーたちが出かけるような社交に縁がなかった。高家は社交から離れた地位にある一族で、行き来は親族間がほぼ全てだった。しかし時代も下り、系統の違う高家では社交を楽しむ人々もあるようだ。裕福である場合だが。
静かな生活は空気や水のように彼女を自然に取り巻いている。ロフィが来てからはただ穏やかなそこに色彩が加わったようだった。この暮らしがずっと続くのだと思った。夫ディアーに顧みられたいと願う恋心は既に失せてしまっている。
「お幸せですか?」。
彼女の頭にその声がふと浮かんできた。今日の午後、出先で再会したロエルの声だった。今も答えが出ない。
その声を瞳を閉じたまま、味わうように繰り返し心で聞いた。