騎士団長は森の雨の魔女に拾われて九死に一生を得る。
「……」
雨が降る。
やまない雨。
森一帯を包むように激しく木々を、葉を、大地を叩く。
決してやむことのない、スコールのように激しく、五月雨のように長い雨。しかしてそれは、決してやむことのない雨。
それは咎。
森の雨の魔女が受けた呪い。
魔女が魔女であるが故の呪い。
魔女は呪いを背負い、今日も雨に打たれる。
「くそっ!」
森の中を馬が駆ける。
逞しく育てられた肉体が濡れ葉を踏む。
「なんて強い雨だ!」
馬には人が乗っていた。
軽鎧に身を包んだ騎士。
萌える草原のような色合いの短い髪に、雲ひとつない青空を映したかのような瞳。
腰には青銀に輝く鞘に一本の剣が納められていた。
「くっ! 駄目だ!
これ以上は馬も危険で走れんっ!」
あまりに強い雨とぬかるんだ地面に、騎士はやむなく馬を停止させて地面に降りた。
「ぐっ!」
馬から降りた際、騎士は腹を押さえた。
どうやら横っ腹を怪我しているようだ。
「日が沈む前に森を抜けねば。
ここはもう森の雨の魔女のテリトリーだ。
こんな状況で遭遇すれば戦いどころではない」
目元に手をやってかろうじて視界を保ちながら、騎士は馬を引いて慎重に進む。
馬も蹄が沈むほどの泥濘に堪えながら、主とともに辛抱強く森を歩いた。
騎士の名はラファエル。
聖王国の、聖騎士団の団長を務める男である。
少人数での僻地への視察を終えて王都に帰還する途中に強力な魔物に襲われて、彼は仲間を逃がすために単身で魔物に立ち向かった。
苦戦の末に魔物は討伐できたが見知らぬ森に迷い込んでしまい、おまけに強烈な雨に見舞われてしまって今に至る。
やまない雨の森。
それが魔女の棲み家であると気付いたのはつい先ほどのことだ。
「……というか、この傷でこの雨では、日が沈むまで、俺が、もちそうに……ない、な……」
ラファエルはそこまで言うと、ふらりと体を揺らし、そのまま地面に倒れてしまった。
「……う……ん?」
薄れ行く意識の中、ラファエルは遠くに小さな小屋のようなものが見えた気がした。
「……あら?」
そして、どこかから人の声も聞こえたような気もして、いよいよ自分はもう駄目なのかと感じた。
しかし、ラファエルは藁にもすがる思いで、最後の力を込めて声を絞り出す。
「……幻聴でも、構わな、い……。せめて、馬だけは、助けて、やって……くれ……」
ラファエルはそれだけ言うと、力尽きるように意識を失ったのだった。
「……ふーん」
「……う」
ラファエルが目を覚ますと、見知らぬ天井を見上げていた。
どうやらベッドに寝ていたことが分かると、ゆっくりと体を起こす。
「……ここは」
「あら。目が覚めたのね」
「!」
突然に聞こえてきた声にラファエルが顔を向ける。
「加減はいかが?」
「っ!?」
そこにいたのは黒い髪に黒い瞳の、酷く美しい女性だった。
腰まである長い黒髪は艶やかで滑らかで、瞳は吸い込まれそうなほどに大きく、何よりも澄んでいた。
真っ黒なローブに身を包んだ女性は背が低く、整った顔とローブ越しでも分かるプロポーションがなければ子供にも見えるほどの愛らしさも兼ね備えていた。
「……あ、と……」
ラファエルは一目で彼女に惹かれていた。
「まだ調子が戻っていないようね」
「っ!?」
女性はベッドに腰掛けると、ラファエルのおでこに手を当ててきた。
「うーん。まだ熱がありそうねー」
女性は反対側の手の人差し指を自分の顎に当てて首をかしげる。
「……そ、そうか?」
ラファエルは近くにある彼女の顔をポーッと見つめる。熱があるのは彼女のせいだと分かっていたが、そんなことは口が裂けても言えなかった。
「……」
ラファエルは思わず目を閉じ、彼女の手のひらの冷たさを堪能した。
「ま。
まだ無理しないことね。アナタ、死にかけてたのよ」
「っ!?」
女性は目を閉じていたラファエルの頭をぽんぽんと優しく撫でた。
ラファエルは突然の出来事にボッと顔が熱くなるのを感じた。このままこの時間を永遠に感じていたいと願いながら。
「よっ、と」
「あっ……」
しかし、女性はスッと手を離すとベッドから立ち上がってしまう。
「……そ、そうだ。
馬は、パトリシアは無事なのか?」
離れる彼女を名残惜しく思いながら、我に返ったラファエルはそういえばと彼女に尋ねる。
「ええ。元気よ。
今はこの家の横の馬小屋で元気にエサを食べてるわ」
「……そうか。良かった……」
「……」
心底ホッとした様子のラファエルを女性は不思議そうに眺めた。
「自分より馬の心配だなんて、アナタ、変わった人間ね」
「……パトリシアは相棒だ。どこに行くにも一緒だった。俺たちは互いに守り、守られているんだ」
「ふーん」
女性は炊事場に向かうと、沸いたお湯をカップに注いだ。
二つのティーカップの中で茶葉が踊るように泳ぐ。
「馬に感謝するのね。馬だけ逃がそうと思ったのに、あの子、アナタのもとから離れようとしなくてね。
仕方ないからアナタも一緒に助けることにしたのよ」
女性はカップの一つをベッド横のローテーブルに置くと、もう一つのカップに口をつけた。
「……そうか。
いつも、俺はパトリシアに助けられるな」
ラファエルは自嘲気味に笑いながら、彼女の薄く結ばれた赤い唇に視線が吸い込まれているのに気付いて、慌てて目線を反らした。
「薬草茶よ。疲労回復に効果があるわ」
女性は炊事場の近くに置かれたテーブルセットの椅子に腰掛けて、ラファエルにお茶を勧めた。
「……すまない。いただこう」
自分に警戒させないために彼女は先にお茶に口をつけたのだと悟り、ラファエルはその気遣いに感謝しながらカップを手に持った。
「いい香りだ」
ラファエルは薬草茶が苦手だったが、このお茶は彼女が淹れてくれたという要素を抜きにしてもとても良い香りがしていた。
「……そうだ」
カップに口をつける前に、ラファエルは重大な事を思い出した。
自分は瀕死の重傷であったのだと。
しかし今は何の痛みも違和感もない。
「俺は、腹を怪我していたはず……だ、が……!」
ラファエルは不思議に思って自身のシャツを捲り上げてみると、そこには傷どころか傷跡一つ残っていなかった。
「傷なら魔法回復薬で治したわ。
残り少なかったんだけど、まだ残ってて良かったわ」
「なっ!?
魔法回復薬だとっ!?
そ、そんな高価なものを!」
女性はあっさりと告げたが、魔法回復薬は非常に高値で取引される商品で、騎士団でも滅多にお目にかかれない最上級の回復薬であった。
「別に原料自体は高くないもの。
必要な素材が多いから量産はできないけど、モノさえあれば作るのはそう難しくないわ」
「……まさか、君が作った、のか?」
「……そうよ」
「……」
女性はラファエルが纏う空気が一瞬で冷たく、鋭いものに変わったのを感じた。
そうなることが分かっていたから、彼女はラファエルから距離を取っていたのだ。
「魔法回復薬は、特にアナタの所属する聖王国では手に入らないものね。
一番の大敵である魔女が作った薬なんて、表立って手に入れられるはずないもの。
ねえ、聖騎士団の団長さん?」
「……気付いて、いたのか」
片眉を上げる女性にラファエルは目付きを厳しくする。
聖王国は魔女を異端として認定していた。
憎むべき、何よりも優先して討伐すべき大敵であると。
魔女は悪であり、憎悪を向けるべき対象。
魔女はすべからく征伐すべき。
それこそが聖王国の教えであった。
「……俺の剣はどこだ?」
そこでラファエルは自分が何の装備も身に付けていないことを思い出す。
「なぜ、アナタが聖王国の騎士団だと気付いたか」
女性はラファエルの質問に答えず、構わず話を続けた。
椅子に座ったまま、時おり優雅にお茶を嗜みながら。
「当然ね。
聖騎士のみが身に付けられる加護が与えられた軽鎧。防御面積が少なくとも加護がその身を守る。
そして、中でも団長のみが持つことを許される、魔を一刀の元に切り伏せる聖剣ソクラウス。
自分の天敵に気が付かないほど世俗から離れていないのよ、私も」
「……っ」
女性はカップを持ちながらラファエルにウインクをしてみせた。
彼女に惹かれたことを後悔しつつも、ラファエルはその仕草に心を揺らされていることに動揺した。
「……俺の剣はどこだ?」
しかし、ラファエルは冷静に質問を重ねた。
魔女は強い。
聖騎士団が準備万端で包囲してようやく戦えるレベル。
彼女がその気になれば自分は一瞬で灰になる。
ラファエルの頬を汗が伝う。
「別にアナタを殺したりしないから心配しなくていいわよ。
剣は魔物の血で汚れてたら外の雨で浄化してるわ。そこだけ『そういう雨』にしといたから。
それに、アナタを殺したらパトリシアが悲しむもの。
私、動物には優しいのよ」
「!」
そう言ってお茶を飲む彼女は、ラファエルにはどこか優しく穏やかに微笑んでいるように見えた。
魔女は忌むべき存在。
魔女は大敵。
憎むべき、人類の敵。
世界を滅ぼす災厄。
「……」
聖王国では、魔女についてずっとそう教えられてきた。
魔女に優しさなど、あるはずもない、と。
「……なんかお腹すいたわね。
キッシュでも焼こうかしら。
アナタも食べるでしょ?」
「……」
しかし、目の前でせっせと料理をし始めた美しい彼女は、とても憎悪を向けるべき対象には見えなかった。
「あっつ! 火傷した! もー!!」
「……」
「えー。キッシュって何だっけ?
これは塩? 砂糖? 分かんないんだけど。
まーいっか。食べたら一緒か」
「……おい」
というか、
「もうキッシュはいいや。なんかカッコいいから言ってみたけど分かんないし。
いつも通りトーストと目玉焼きにするか。今日は家を燃やさないようにしなきゃ」
「……ふっ」
目の前であたふたする彼女は幼い子供のようで、ラファエルは思わず吹き出してしまっていた。
「あー! 笑ったなー! 笑うなー!
女が皆料理できると思うなよー!」
「ぷっ。くっくっくっくっ」
「むー!!」
ラファエルの笑った声が聞こえたようで、彼女はくるりとラファエルの方を振り返ってぷんぷんと怒っていた。
整った顔と膨れた頬のアンバランスさが何とも愛おしいとラファエルは思った。
「あー、キッシュだったか?
良かったら俺が作ろうか?」
ラファエルは笑いすぎて目元に浮かんだ涙を拭いながらベッドから立ち上がった。
この時にはもう、ラファエルは彼女に対して魔女に向けるべき感情を失っていた。
「え!? アナタ、男なのに作れるの!?」
「男が皆料理できないと思うなよ」
「マジかー! 尊敬ー!」
「ふっ」
大きな目を見開いて瞳をキラキラさせる彼女。
そのコロコロと変わる表情にラファエルは口元が緩むのを懸命に抑えた。
「どれ。ちょっと炊事場を貸せ。
料理好きの本領を見せてやる」
「好きに使うがよい!」
「なんで偉そうなんだよ」
誇らしげにラファエルに炊事場を譲る彼女に、ラファエルは今度こそ堪えきれずに破顔した。
「おい。あまり近付くな。
危ないぞ」
「断る! 私はアナタの料理を見る!
私とアナタ、その違いを探求せねば!」
ラファエルが料理を始めると、彼女はラファエルの真横で彼の料理姿を食い入るように眺め始めた。
「……せ、せめて腕に絡むな。
包丁が危ない」
「私なら包丁ぐらい何の問題もないわよー」
「そ、そういうことではなくてだなっ」
よっぽど近くで見たいのか、ラファエルの腕に自らの腕を絡めてくる彼女。
かすかに触れる彼女の豊かな胸元に、動揺するなと言う方が無理があるだろう。
「……じゃ、邪魔だけは、す、するなよっ」
「らじゃー」
ラファエルは甘くてくらくらするような香りに耐えながら、目の前の料理に全力で集中することにしたのだった。
「え、美味しすぎるんだけど、天才かっ!」
「そ、そうか。なら良かった」
動揺に動揺を重ねながらようやく完成したキッシュとスープ。
邪念に体力を持っていかれたラファエルは息も絶え絶えだった。
「褒めて遣わそう!」
「だからなんで偉そうなんだよ」
だが、彼女の嬉しそうな顔を見ると自然と疲れなど吹き飛んでいった。
そこには先ほどの張り詰めた冷たい空気も、弾けそうなほどの殺気も、互いになくなっていた。
「……しかし、なかなかやまないな、この雨は」
食事を終え、薬草茶を飲みながら一息ついたラファエルは窓を激しく叩く雨に目をやった。
「……あー。その雨はやまないわよ」
「なに?」
彼女は洗い物をしながら、少しだけ申し訳なさそうにラファエルに応えた。
「この森に降る強い雨は私への、魔女への呪いだもの」
「呪い?」
「そう。
魔女が魔女であるための呪い。
私の呪いは、このやむことのない強い雨。
常に体を冷やし、その身を濡らす。私の住むこの森だけに降る雨。
人と関わることを許さない永遠の卯の花腐し」
「……魔女に、そんな条件があったのか」
「ええ。
本質的には逆だけど、システム的にはそういう認識で合ってるわ。
強すぎる魔力が自然環境に影響を与えてしまって、魔女ごとの魔力の色に応じた異常気象が発生してしまうのよ」
「お、俺には理解が及ばない話だな」
ラファエルは頭が悪い方ではなかったが、彼女の話は聖王国の文明レベルでは理解するのが難しいようだった。
「ま、猛烈な雨女ってことよ。
私は魔女になる前はもともと晴れ女だったんだけどね。
もう久しく、青空なんて見てないわ」
「!?」
洗い物をする手を止めて天井を見上げる彼女はどこか寂しげだった。
だが、ラファエルはそれよりも驚愕の事実に気が付く。
「ま、待ってくれ!
君は、魔女はもともと人間だったのか!?」
「ん?」
魔女は生まれながらに魔女であり、人類の天敵。
魔女を討ち滅ぼすことでしか救いはない。
それが聖王国の教えであり、常識であった。
いま彼女が語った事実は、聖王国の教えを根底から覆しかねない情報であった。
「いやいや、どう見ても人間でしょ。
聖王国ではどんな教え方してるのよ」
驚くラファエルに対し、彼女は呆れた様子だった。
「私も詳しい仕組みは知らないんだけどね。
私の場合、誘いを受けたら魔女になってたわ」
「誘い、だと?」
「ええ。『力が欲しいか』って。『何者にも脅かされることのない圧倒的な力が』って声が聞こえたのよ。
それに「欲しいわ」って答えたら、私はもう次の瞬間には魔女になってたわ」
「ま、待て!
何者かが魔女を作っているのか!?
それは誰なんだ!」
「分からないわ。声しかなかったもの。
頭に直接、声が降ってきたの」
「……」
ラファエルは混乱する頭で懸命に考えていた。
忌むべき魔女はもとは人間で。
人間を魔女にしている存在がいて。
つまり、真の憎むべき、討ち滅ぼすべき大敵はその魔女を生み出す存在なのではないか。
しかしそれは、聖王国の教えをも揺るがしかねない重大な問題であった。
「……その話を陛下にすれば、聖王国は魔女を滅ぼすべきとはならないのではないか……」
真に滅ぼすべき大敵は他にいる、と。
しかし、その話を聞いた彼女はじつに冷めた目をしていた。
「無駄よ。
魔女の話なんて聞くわけがないわ。
会話が成立する前に攻撃してくる。
アナタたちは、そういう連中でしょ?
魔女の話を真に受けたアナタが罰せられるだけだわ」
「……」
心底呆れた様子の彼女にラファエルは何も言い返せなかった。
それは紛れもない事実だったから。
人を惑わす魔女と言葉を交わしてはならない。
魔女は問答無用で排除せよ。
魔女こそ世界の大敵である。
そんな正義のもとで聖王国は魔女を討伐しているから。
「……そもそも、なぜ君は魔女になった?
誘いを受けなければ、魔女になることもなかったのに」
「……」
「……っ」
彼女の表情を見て、ラファエルはすぐに今の質問を後悔した。
何の理由もなしに彼女がそうなるワケがない。
これまでのやり取りで、ラファエルは彼女がそういう女性であることを理解していた。
「生まれた村が襲われたの」
「!」
「山賊の類いね。
両親は殺され、妹は売るために連れ去られ、私は山賊どもに持ち帰られる寸前だったわ」
「……」
彼女の容姿だ。
山賊どもに気に入られたのだろうとラファエルには容易に想像がついた。
「その時に頭の中に声が響いたのよ。
で、私はその誘いに乗った。
両親の仇と、妹を助け出すために。
そうして私は魔女になった。
ま、結局その場にいた連中は皆殺しにしたけど、妹を連れ去った連中は見つけられなかったんだけどね。
王都に売りに出された可能性は高かったけど、魔女になった私は王都には近付けないし。討伐されちゃうからね。
雨も降りやまないし。仕方ないから人に迷惑をかけない森の中に引きこもることにしたってわけ。
あ、森の生態系を壊さないように、侵入者以外は魔法で雨に濡れすぎないようになってるから安心して」
「……」
「って、何の心配だって話か」
明るく、軽く話をする彼女だったが、ラファエルは衝撃を受けずにはいられなかった。
「……なんてことだ」
「んー?」
「君は、何も悪くないじゃないか」
「へ?」
嘆くようなラファエルに彼女は首をこてんと倒した。
「君は何もしていないのに、ただ魔女だというだけで殺されようとしているのか。
そんなのは、おかしいじゃないか」
ラファエルは怒りを感じていた。
理不尽な聖王国の教えに。それを信じきっていた自分に。
目の前の可憐な女性に、僅かにも殺意を向けたことに。
「んー。まあでも、山賊たちは皆殺しにしたしねー」
彼女はどこか諦めているようだった。
その渇いた笑みには、期待や希望などどこにも存在していなかった。
「そんな奴らはヒトじゃない!
騎士だって山賊たちは殺す!
家族のために魔女にまでなった、君の方がよっぽど立派な人間だ!」
「そ、そうかもだけどさー」
向ける所のない怒りにラファエルは自身でもどうすればいいのか分からなくなっていた。
目の前の彼女が戸惑っていると分かっていても。
「……分かった」
「ほえ?」
やがて、ラファエルは決意に満ちた瞳を彼女に向けた。
「俺が聖王国を変える。
まずは陛下にこの事実を伝え、魔女イコール人類の大敵であるという教えを変えてもらう」
「……」
その言葉には絶対にやり遂げるという決意が満ちていた。
「やめた方がいいわ。
アナタ、殺されるわよ」
「……なに?」
だからこそ、彼女はラファエルを止めた。
「聖王国の教えは絶対。
絶対君主たる王への忠誠も絶対。
それを間違っていると批判することは聖王国を、王家を批判すること。
それは許されない。
きっとアナタ、適当な理由をつけて処刑されるわよ」
それは忠告だった。
外側から聖王国を見ている彼女からの、聖王国というものの紛れもない実態。
神の教えの名のもとに王が完全統治する支配国家。
それは、彼女なりのラファエルへの優しさだった。
自分はこのままでもいいから余計なことはするなと。
自分なんかのために無駄に殺されるなと。
彼女は暗にラファエルに伝えようとしたのだ。
「馬鹿な。陛下は慈悲深き御方。
そのような非情なことを……」
「慈悲深き、ね。
やっぱり国民はそうなるわよね」
「……」
悲しそうに笑う彼女に、ラファエルは自身の信心を疑う。
「……違う、のか?
陛下は、聖王国は、間違って、いる?」
「ん?」
その時、ラファエルの様子がおかしいことに彼女が気付く。
「そんなことは、ない。聖王国の教えは絶対……間違うなど……そうだ。陛下は絶対……我々は、忠誠を……いや、しかし……俺は、彼女を……いや、いや、いや……」
「……これは」
ぶつぶつと独り言を繰り返すラファエルの様子に、彼女はラファエルに近付いた。
【星の結びを読み解け】
そうして右手に大きな黄色い魔方陣を展開すると、それをラファエルにかざした。
「……なるほど。盲信の呪い、ね。
よくやるものだわ」
「……な、にを……」
「動かないで」
ラファエルは頭を押さえて痛みと苦しみに耐えているようだった。
彼女はそのままさらに解析を続ける。
「……聖王国の教えは絶対。
王家に忠誠を。
魔女を憎み、滅ぼせ。
そんな所かしら。
これを全国民にやってるとしたら相当ね。
……いや、待てよ。
これは、そういうことなのね」
「……の、ろい?」
「もういいわ。
ちょっと待ってね」
彼女は今度は左手に青白い魔方陣を展開し、それをラファエルにかざした。
【神の定めし導をあるべき路に】
「うっ!!」
魔方陣が大きく輝くと、ラファエルは強烈な頭痛を感じた。
「……ん?」
しかしその直後、すぐに痛みも苦しみも消え去り、頭にかかっていた靄のようなものも綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
「……加減はいかが?」
「……」
消えた魔方陣の向こうには、さらりと艶やかな黒髪が流れる美しい魔女がいた。
しかしその美しさは、先ほどとは比べ物にならないほどに美しいとラファエルは感じていた。
「おーい。だいじょーぶー?」
「はっ!」
彼女に目の前で手をふりふりと仰がれ、ラファエルはようやく我に返る。
「……何が、起きた?」
冴え渡るようにスッキリとした頭。
体は羽根のように軽い。
自分の言動が自分のもとに戻ってきたかのような感覚。
ラファエルは自分というものを初めて認識したような気分だった。
「呪いを解いたのよ。
魔女を討伐させようとしているくせに反乱を恐れて身体能力まで縛るなんてね。
それがアナタの本来の肉体強度よ」
「……呪い、だと?」
自分の肉体を確認しながら、そんなものがかかっていたのかとラファエルは信じられない気持ちだった。
「ええ。ちなみに犯人は国王ね」
「へ、陛下がっ!?」
驚きはあったが、ラファエルはなぜか素直に彼女の言葉を信じていた。
先ほどまでは信じたくとも頭が信じようとしていなかったというのに。
「盲信の呪いね。
王家への忠誠と、魔女への憎悪。そしてそれらの教えを信じて疑わないように全国民に呪いをかけたの」
「……呪いとは、そもそもなんだ?」
信じがたい事ではあるが、ラファエルは懸命にそれを理解しようとしていた。
「神の定めた運命に背こうとした人間が手に入れた、人の理をねじ曲げる力。
無慈悲な神の裁定を憎み、恨んだ人間が獲得した咎よ。
そして、その力を受け継いでいる直系が聖王国の王家みたいね。
人の言動を、心を、考えを縛る。神の与えた自由を制限する愚かな力。
それが呪いよ」
「……俺たちは、そんなものを……」
否定したい気持ちはあった。
今まで自分が生きてきた世界を丸ごと否定されたのだから。
だが、今となってはラファエルには思い当たる節が多すぎた。
明らかに理不尽な王家の都合でも文句一つ言わずに従う臣下たち。
王家の贅沢のための増税に喜んで従う民。
やむを得ず魔女になった彼女を、問答無用で討伐させようとする王家。
「魔女に呪いは効かないから邪魔だったんでしょうね。
だから王家は魔女の討伐を正義の名のもとに執行させた。
……自分で作っておきながら自分たちで殺すなんてね」
「ま、待て! それはどういうことだっ!」
「そのままの意味よ。
アナタにかけられた呪いを解析して分かったわ。
私を魔女にしたあの声。あれは聖王国の国王によるものね。
魔女は本来的には神の寵愛を一身に受ける世界の守護者なのよ。
それは突発的に人間の中から生まれるわ。
でも呪いで縛られているとその人間は魔女にはなれない。
だから王はその素養がある者の呪いを外して魔女にしているのよ。
ま、呪いに縛られていたせいで寵愛がねじ曲がって、神から受ける魔力の制御を完璧に行えないから魔女はこんな呪いを持つみたいね。私ならやまない強い雨、みたいにね」
「そんな……それでは魔女は、聖女と同義ではないか。
……な、なぜ、王はそんなことを……」
ラファエルはまだ信じきれていなかったが、もはや王への忠誠も敬意も失いつつあった。
「人を呪わば穴二つ。
呪いの代償を魔女に流すことで王はリスクなく全国民に対して呪いをかけるなんて大それたことをやってのけたのね。
呪いの効かない魔女。民の抑圧によるストレスたるヘイトを向ける対象。魔女たる呪い。接触の禁止による解呪の回避。意図的な魔女の生成で王が把握しない自然発生的な魔女の誕生の抑止。民から魔女への憎悪の捏造。
だいぶ周到な計画ね。
たぶん山賊に村を襲わせたのも王ね……」
「そ、そんな……」
家族の、村の皆の仇。
彼女の瞳には強い怒りの感情が滲み出ていた。
「よし。ちょっと王を殺してくるわ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
まるで近くまで買い物に出掛けるような気安い雰囲気で玄関に向かおうとする彼女をラファエルは慌てて止めた。
「……なに?」
「っ!」
しかし、彼女から発せられる冷たく恐ろしい空気に圧倒されて、ラファエルはごくりと唾を飲んだ。
「……俺に、任せてくれないか」
「……はい?」
だが、ラファエルは一歩前に進んだ。
彼女がその気になれば自分は今すぐにでも消し炭になると分かっていても。
彼女はそんなことはしないと信じているから。
「俺が聖王国を変えてみせる。
まずは陛下に謁見し、事の是非を問う。
その上で呪いを解いてもらえるよう説得してみせる」
「……それがうまくいかなかったら?」
彼女の瞳はまだ鋭かった。
家族を殺し、自分を魔女に変えて永劫の時の回廊に閉じ込めた張本人。
それがようやく分かったのだ。当然だろう。
「……俺が、王を討つ」
だが、ラファエルはそんな彼女を見たくなかった。
彼女には、そんな顔をしてほしくなかった。
料理に一喜一憂していた時のような、無邪気で可愛らしい顔をしていてほしかった。
「……なんで、アナタがそこまで」
彼女には理解できなかった。
ただ気まぐれに命を助け、呪いを解いただけ。
なぜ、ラファエルが命を賭してまで自分を止めるのか。
「……始めは、一目惚れだった」
「……はいっ!?」
ラファエルの告白に目を見開いて驚いている。
「君の流れるような艶やかな黒い髪。吸い込まれそうなほどに大きくて澄んだ黒い瞳。
ころころとよく変わる表情。幼いとも大人びたともつかない愛おしいほどの笑った顔」
「お、おおう」
彼女は顔を真っ赤にして照れていた。
「君への同情も、命を救ってくれた恩義も、たぶんあるのだろう。
だが、今はそれ以上に君が愛おしくて仕方ないんだ。大事にしたいんだ。
……君に、人を殺してほしくないんだ……」
「……」
最後の言葉は、ラファエルの心からの叫びのようだった。
「……だから、ここで待っていてくれないか。
必ずまたここに来る。
君を迎えに来る。
俺を信じて、ここで待っていてくれないだろうか」
「……」
そして、
「……よくそんな恥ずかしいことを堂々と言えたものね」
「……」
「……分かったわよ。待てばいいのね」
「!
ああ!」
心からの真剣な想いは彼女に届いた。
「でも本当にいいの?
私、年齢的にはもうおばあちゃんよ?」
「そうなのか?」
彼女はやれやれと椅子に腰をおろす。
「魔女は不老だもの。
基本的に肉体の全盛期で成長が止まるの。
私が魔女になったのは十六の時。今の肉体はたぶん、二十歳ぐらいかしら。
そこから五十年ぐらいは経ってるわ。
精神は肉体の影響を受けるから気は若いつもりだけど、実質的な年齢は立派なおばあちゃんなのよ」
「良かった」
「はい?」
「その話を聞いても、俺が君を愛しく思う気持ちには何の変化もなかった」
「……アナタは本当に、どこまでも恥ずかしい人ね」
「光栄だな」
「褒めてないわよ」
「ははっ!」
「……もう」
柔らかい空気が部屋を包む。
ラファエルはこの時間をずっと感じていたいと思っていた。
そのためにも、
「……必ず戻る」
「……分かったわよ。信じて、待っててあげるわ」
ラファエルはここにもう一度戻ってくると胸に固く誓った。
「……おいで」
「?」
彼女はすっと立ち上がると手のひらを上にして玄関に手を向け、くいと自分の方に指を折った。
「!」
すると、玄関の扉がバン! と開かれ、外に置いてあった聖剣ソクラウスがラファエルのもとに飛んできた。
「その子もアナタも王の呪いに縛られて本来の力を出せていなかったけど、私の雨と解呪の魔法で浄化したから、今ならきっとその剣は王まで届くはずよ」
「……」
ラファエルは聖剣を手に取る。
剣は手にしっくりと馴染み、互いの意思が通じ合っているような気がした。
鞘から少し引き抜くと、聖剣は以前よりも青白い光を神々しく放っていた。
「ありがとう」
ラファエルは聖剣を鞘に戻し、腰に佩いた。
「あと、アナタの馬の蹄に防滑の魔法をかけておいたわ。これでこの雨の中でも泥濘に足を取られずに王都まで走れるわ」
「すまない。助かる」
「……どっちも、その子たちが望んだことよ」
「え?」
彼女は聖剣と家の外にいる馬を眺めるようにして微笑んだ。
「アナタの力になりたい。アナタを助けたい。
その子たちがそれを願ったから、私はその手助けをしたの」
「……そうなのか」
ラファエルは腰に差す聖剣がほのかに温かくなったような気がした。
「なら、俺が守りたい彼女を助けるためにも力を貸してくれ」
ラファエルの声に応えるように、外から馬の鳴き声が聞こえた。
「あと、これも持っていきなさい」
「……これは」
そして、赤くなった顔を隠すようにして振り返った彼女は、近くの棚の引き出しから透明な小さな瓶を一つ取り出した。
「魔法回復薬。今ある、最後の一つよ」
それは透明な小瓶に入れられた青白い透明な液体だった。
数種の薬草に魔女の魔法が込められた万病薬。
「……だが、そんな貴重なもの……」
「……人間はすぐに死んでしまうの。
必ず戻ると約束するのなら持っていって。
それで、危なくなったら迷わず使って。
……もう、大事な誰かが死ぬのは、イヤ……」
「……」
「!」
ラファエルは小さな肩をそっと抱き寄せた。
「……分かった。持っていく。
必ず戻る。
だから、そんな悲しい顔をするな」
「……約束、だからね」
「ああ。約束だ」
潤んだ瞳で見上げる彼女にラファエルは穏やかに微笑んで頷いた。
もらった魔法回復薬は大事に懐にしまう。
「……いってくるよ」
「ん」
ラファエルはすっと体を離すと玄関に向かった。
口づけの一つでもできればいいのだろうが、ラファエルは自分にはまだその資格はないと考えていた。
それは、再びここに戻ってきた時にこそするべきだと。
「……そうだ」
「ほえ?」
扉に手をかけながら、ラファエルは思い出したように顔だけを彼女に向けた。
「君の名前は?」
「……え、と」
少ししてから、少し気恥ずかしそうに彼女は口を開いた。
「ティファナ。
私の名前はティファナよ、ラファエル」
「……そうか」
ラファエルにはそう名乗るティファナの顔が、今までの何よりも美しく輝いて見えた。
「ティファナ。いってくる」
「ん。いってらっしゃい。ラファエル」
扉を開け、ラファエルは出ていった。
馬の一鳴きのあと、蹄が地面を蹴る音が遠ざかっていく。
「……いってらっしゃい、か」
ティファナはその言葉を噛み締める。
そう言って誰かを見送ったのも、名前を呼ばれたのも、魔女になってから初めてだった。
「……ラファエル。私はアナタを死なせない」
ティファナにはこれから何が起こるか、大方の予想がついていた。
「……さて。準備を始めましょう」
そうしてティファナは足元に大きな魔方陣を展開したのだった。