ウチの義弟が一番かわいい 〜破滅の未来しかない悪役令嬢に転生したけど、義弟がかわいすぎてそれどころではありません〜
――どうやら、私は転生? したらしい。
うっかり馬車から足を踏み外し、肥溜めに頭から突っ込んで生死の境を彷徨い、病室で目が覚めたら前世の記憶を思い出していた。
自分で思い返してみても訳がわからないが、事実なのだから仕方ない。
前世の私は、あまりパッとしない女だったと思う。
ちょっとふっくら気味ではあったが、身長も顔も普通だった。
父親は普通のサラリーマンで、母はパートをしていた。
公立の中学、高校を出て大学に進学。
就職してしばらくOLをしていた記憶もあるが、そこから先は思い出せない。
老後を迎えて死んだというよりは、事故か何かで突然死んでしまった、という方がしっくりくる。
あまりいい死に方ではない気がするので、このまま思い出さない方がいいかもしれない。
話を戻そう。
私――ジョレット・アンニ・スタグレーゼは、この国でも屈指の名家、スタグレーゼ家の長女としてこの世に生を受けた。
ただ、その生育環境には少し問題があった。
母を若くして亡くし、父も仕事でほとんど家に帰らないという家庭環境は、幼い少女が育つには決して良いものとは言えなかった。
結果として、アンニは愛情に飢えたワガママな子供に育った。
アンニがどんなワガママを言っても、誰も何も言わなかった。
いや、言えなかった、と言った方が正しいだろう。
アンニはスタグレーゼ家のご令嬢で、彼女の機嫌を損ねるようなことをすれば、それだけで首が飛びかねないほどだったのだから。
限界を迎えた人間たちは、何も言わないまま去っていった。
残っている使用人たちからの心象も、決していいものではないだろう。
つまり私はこれから、使用人たちからの好感度がマイナスに振り切れた状態でスタートしなければならないということだ。
「いや、そんなことよりも……」
大きな問題は、もう一つある。
それは、ジョレット・アンニ・スタグレーゼという名前に聞き覚えがあることだ。
前世の記憶を思い出した今なら、はっきりわかる。
この世界は、前世で流行していた乙女ゲームの世界に酷似していることに。
アンニはそのゲームの登場人物、しかも主人公に様々な嫌がらせをする、いわゆる悪役令嬢だった。
ゲームの大まかなストーリーはこうだ。
主人公の少女レティシアは、生まれも育ちも生粋の庶民だった。
しかし四属性の魔法を発現させたことで陽の目を浴び、王都の魔法学院に入学することになる。
そこで王子や、有力貴族の跡取りたちと仲を深めていく。
だが、邪魔者がいる。
それこそが私、アンニである。
アンニはレティシアのことを、「平民上がりの分際で、王子や貴族の跡取り達と懇意にする、いけ好かない女」と嫌っており、権力にモノを言わせ数々の嫌がらせをする。
そして、ルートによって違いはあるものの、最後には追い詰められ、破滅する。
家は解体され、よくて国外追放、悪いパターンだと処刑されることもあった。
その後レティシアと攻略対象は晴れて結ばれる、といった具合だ。
……いやいやいやいや。
まずい。非常にまずい。
このまま何もしなければ、私に待っているのは破滅の運命だけだ。
そんな未来はまっぴらごめんだった。
それに、看過できないことが、もう一つある。
それは。
「ユウリの――『推し』の姉になったってことだよね」
アンニの弟――ラアル・ユウリ・スタグレーゼ。
それは前世の私が、このゲームでダントツに推していたキャラだった。
アンニとユウリは、実の姉弟ではない。
ゲーム内の設定では、幼い頃に分家から養子として迎えられた設定だったはずだ。
ワガママ放題で我が強い姉の近くにいたせいで、愛を知らず、やさぐれた性格に育ってしまう。
それでも性根は優しい部分が垣間見え、普段とのギャップ、加えてビジュアルの良さもあり、人気は高かった。
ルートによっては主人公との関わりができたりもするのだが――なぜか、本当になぜか、その全てで命を落としている。
「なぜ、ユウリのルートを作らなかった……?」
とても少女のものとは思えない、ドスの効いた声が漏れる。
今から考えても不満しかない。
最推しのユウリのルートは、残念ながら存在しない。
それどころか、どんなルートでも非業の最期を遂げる。
人気のあるキャラなのに、ここまで公式から冷遇されているのはなぜなのか。
ファン達の間でも、たびたび議論の対象になっていた。
……いや、今はそんなことはいい。
問題は、どうすればその運命を変えられるかだ。
そういえば。
私は必死に、自分の記憶を辿る。
6年間生きてきたその中に、義弟の記憶が一切存在しないことに、疑問を抱いた。
ただ、どうやら近いうちに顔を合わせることになっているようだ。
6歳の頭では、その詳細な日付までは理解していないようだったが。
「セバス、ユウリのことなんだけど。顔合わせはいつだったかしら? とても楽しみにしていたはずなのに、いつだったか忘れてしまったの」
病室の中、隣で腰掛けている執事のセバスに、私は尋ねてみることにした。
私の言葉に、セバスはひどく驚いた顔をする。
「……どうかした?」
「いえ、お嬢様はユウリ様が養子になられることに、強く反対されておりましたから……。少し驚いてしまいまして」
「そうなの!?」
今度は私が驚く番だった。
でも、冷静に考えてみれば理解はできる。
自分を放ったらかしにしている父親が、跡取りとして知らない子どもを連れてきたら、幼いアンニはいい顔をしなかっただろう。
私の中にもなんとなく、朧げにそんな記憶がないこともなかった。
「あ、あの時は、突然養子という話が出て、少し驚いてしまっていたから……。今はとても楽しみにしてるのよ!」
目を泳がせながらも、それっぽい言い訳を考える。
我ながら雑な理由ではあったが、セバスは納得してくれたようだった。
「それで、いつなの?」
「ユウリ様との顔合わせの予定日は、明日でございます」
なんですと!?
呼び出しを受けた私は、父上の書斎に腰掛けていた。
普段あまり来ることがない場所なので、色々と物珍しいものに目を吸い寄せられる。
「……そんなに面白いかい? 父さんの書斎は」
少し困り顔の父――ヘイルが、私にそう尋ねてきた。
「はい! 不思議なものがたくさんあって、とても面白いです!」
現代日本と違い、この世界には魔法の概念が存在する。
この書斎にインテリアとして置いてあるのは、おそらく何かしらの特異な力が付与されている物品たちだ。
ゲームでも、そういったアイテムが活躍する場面があった。
中には見覚えのあるものもあったので、テンションが上がってしまうのも仕方ないと思う。
「そうかそうか。興味があるなら、後で父さんが色々と教えてあげよう。でも先に、ユウリの紹介をしなくてはね」
「あっ! そうでした!」
はしゃぎすぎて、本来の目的をすっかり忘れていた。
なぜか少し嬉しそうなヘイルが咳払いをして、
「――入りなさい、ユウリ」
「……しつれいします」
書斎の扉が、遠慮がちに開かれる。
おずおずといった様子で入室した少年に、私の目は釘付けになっていた。
身長は、私よりも少し小さいくらいだろうか。
少しくすんだ亜麻色の髪が、くるくると目元にまで伸びている。
あどけない表情は不安げで、儚さを感じさせた。
「紹介しよう。今日からアンの家族になる、ユウリだ。仲良くしてあげてくれ。ユウリ、この子はアンニ。君のお姉さんになる人だよ」
「ユウリです。よ、よろしくおねがいします」
顔を伏せながらも、ユウリが控えめな挨拶をする。
伏せた目は大きく、その顔立ちは恐ろしいほどに整っていた。
要するに、とんでもない美少年がそこにいた。
「……かっ」
「かっ?」
「――可愛いいいぃぃいいい!!」
「へっ!?」
私は思わずユウリに飛びついていた。
「なんて可愛いのかしら! どこからきたの? あ、でもうちの子になるんだからもう関係ないのよね! 私のことはアン、って呼んでね! 家族や親しい人たちは皆そう呼んでいるから――あ、でも私ってお姉さんになるのよね? ちょっとお姉様って呼んでみて!!」
「あ、えっと、お、おねえさま……?」
「あーっ! 死ぬ! 可愛すぎて死ぬ!! お父様、本当にこの子、私がもらっていいの!?」
「あ、アン。少し落ち着きなさい。アンのものになるわけじゃない。その子はアンの弟になるんだ。可愛がるのはいいことだけど、ほどほどにしないと。ユウリが怖がってるだろう?」
少し引き気味の父の顔を見て、私はようやく正気を取り戻した。
確かに、私の腕の中のユウリの顔は、少し引き攣っているように見えた。
「ご、ごめんなさい! 私ったら、つい……」
「い、いえ。だいじょうぶです。すこし、びっくりしただけで」
私が謝罪すると、困った顔をしながらもユウリは微笑んだ。
その表情に脳を揺さぶられながらも、私は彼の腕を掴んで、
「まずは、屋敷の中を案内しないと! さ、行きましょ!」
「は、はい!!」
この可愛い少年と親睦を深めることに決めた私は、そのまま強引に、彼を連行した。
「……アンって、いつの間にあんな子になったのかな?」
後ろで何やら呟いた父の声は、私の耳には届かなかった。
「ここが食堂よ!」
「すごく、おおきいですね」
ユウリを連れた私は、屋敷の中を案内していた。
後ろをちょこちょこ付いてくるユウリは、とても可愛らしい。
その表情は、あいかわらず少し硬いものではあったが。
「私たちだけじゃなくて、執事さんたちもメイドさんたちも、みんなここで一緒にご飯を食べるのよ!」
スタグレーゼ家では、父の方針で使用人たちと共に食事をとることを推奨されていた。
ちなみに記憶を取り戻す前のアンニはクソガキだったため、普通に一人で食事を食べることが多かった。
お父様の言いつけなんて、全然守ってなかったからね!
「みんな、いっしょに……?」
不思議そうな顔で、ユウリが首を傾げる。
「そうよ。今日からユウリもウチの子になるんだから、家の決まりはちゃんと守らないとね」
「どの口で言ってるんですか?」と言いたげなセバスの顔は、できるだけ視界から外すよう心がける。
「わかりました。おねえさま」
「……それと」
私はユウリに向き直り、
「敬語じゃなくていいのよ。私たちは姉弟になるんだから!」
「え、でも……」
「私がいいって言ってるんだから、いいのよ! わかった?」
「……わかったよ。おねえさま」
「うん、なんかおかしいね!? 二人のときは『アン姉さん』って呼んでもらってもいい?」
「わかったよ。アン姉さん」
「うんうん。じゃあ、次に行きましょうか」
これで公的な場では『お姉様』、二人の時は『アン姉さん』と呼ばせることができる。
二段構えで二度美味しい。我ながら天才としか言いようがない。
満足した私は、屋敷の案内を再開するのだった。
「――対策を立てるべきだわ」
夜。
皆で一緒に食事を取り、可愛い弟と楽しくお風呂に入って、自分の部屋に戻ってきた私は、めちゃくちゃ腑抜けていた。
「明日から楽しくなるぞぉー」などと浮かれていた。
だが、思い出したのだ。
このままでは、スタグレーゼ家は、私と弟は破滅する。
その運命を回避できるかもしれないのは、私しかいない。
状況を整理しよう。
スタグレーゼ家の破滅は、私とユウリの活躍(笑)によってもたらされることは明らかだ。
主な要因は二つ。
まず一つ目は、学園でゲームの主人公――レティシアと敵対し、いびり倒していたこと。
これによって攻略対象たちからのヘイトを買い、破滅への階段を全速力で駆け上がることになる。
原作のアンニはプライドが高く、平民上がりで成績優秀、魔法の適性を四つも持つレティシアをそれはもう大層嫌っていた。
取り巻きたちと一緒になってレティシアをいびり倒すアンニは、主人公の敵役としては正しいのだろうが、それが自分自身となれば話は別だ。
ストーリーが成り立たない? そんなもん知るか!
私は私の安全を優先させてもらう!
ということで一つ目の要因の対策だが……これは比較的簡単だ。
「私がレティシアちゃんをいじめなければいい! 以上!」
単純明快だが、本当にそれだけである。
何もしなければ、彼女や彼女を慕う攻略対象たちからのヘイトを買うこともないのだから、当然と言えば当然だ。
というか、キャラクターとしてのレティシアは確かに天才ではあるが、ちょっと抜けているところもあったり、陰でたくさん努力していたりする、魅力的な女の子だ。
普通にお友達になりたい。
本来ならば全く関わらないのが一番なのかもしれない。
ただ、私の原作ファンな部分が、レティシアちゃんと友達になりたいとめちゃくちゃ叫んでいた。
なのでそこは一旦割り切ることにする。
主人公の攻略対象たちと深くかかわらなければ、そこまでリスクが高いわけでもないと思うし。
「問題は、二つ目か……」
二つ目の問題。それはユウリのことだ。
ユウリは誰のルートを選んだとしても、命を落とすことになる。
彼が全てのルートで死ぬ根本的な原因は、残念ながら判然としないというのが正直なところだった。
ただ、わかっている部分もある。
それは原作のユウリが、スタグレーゼ家そのものを強く恨んでいたということ。
自分の生まれた家であるスタグレーゼ分家だけでなく、養子になったスタグレーゼ本家も、その例外ではない。
原作のアンニはとても性格が悪く、養子として家に来たユウリもいびり倒していたらしいので、まあ無理もないか。
原作の私は本当にどうしようもない……。
ただ、彼にとって原作のアンニは、『この上なく鬱陶しい義姉』くらいの認識だったはずだ。
彼の憎悪が向けられるのは、主にスタグレーゼ分家の人間に対してだった。
それも、その命を奪おうと画策するほどの強い憎悪だ。
「でも、その動機の部分がわからないのよね」
ひとつ考えられる要因としては、ユウリが分家にいた頃、かなり冷遇されていたのではないか、ということ。
ゲームでの公開情報が少ない中、なぜそういう結論に至ったのかというと、
「そういえば、カイの母親は、かなり厄介な性格だったような……」
ケイス・カイ・スタグレーゼ――ユウリの腹違いのお兄さんが、攻略対象の一人になっており、その母親が実の息子であるカイを溺愛していたからだ。
カイのルートは、ヤバめな母親との対立が主な焦点になっていた気がする。
実を言うと、カイにはあまり攻略対象として魅力を感じなかったため、適当に読み流していた部分も多かったのだが。
母親がだいぶキモかったのも、細部が記憶に残っていない大きな理由だと思われる。
ともかく、一時期とはいえそんな人間が義母になっていたユウリの家庭内での立ち位置は、決して良いものではなかっただろう。
それに、義理の母親だけではなく、カイとユウリの関係も破綻していたと言っていい。
カイの攻略中にユウリの名前が出てくることはほとんどなかったし、ユウリが自身の犯した罪で処刑されそうになっていた時も、カイが特に何か行動を起こすことはなかった。
そもそもゲーム内でのカイは、人物や物事に対して、あまり関心を持たないキャラクターだった。
それは半分血の繋がった弟であるユウリに対しても例外ではなかったのだろう。
ゲーム内でも、彼らの絡みはほとんどなかった。
「でも、さすがに殺人の動機としては弱いよね……」
ゲームでのユウリの家庭環境は、決して良いものとは言えない。
ただ、それだけで義母やカイを殺そうとするだろうか。
そう問われれば、その答えはNOだ。
だからきっと、あるはずなのだ。
ユウリに彼らを殺すことを決めた、決定的な動機が。
ゲーム内でも語られていない、何らかの事情が。
それを突き止めることができれば、ユウリの死の運命を覆すことができるかもしれない。
だから、私がするべきことはひとつだ。
「私が、ユウリに頼られるような、何でも相談できるようなお姉ちゃんになればいいんだわ」
結局、作中のユウリが破滅する一番の原因は、周りに誰も相談できる人間がいなかったから、だと私は考えている。
人間は、一人だと脆いものだ。
追い詰められている時ほど、視野が狭くなる。
ゲームの原作におけるアンニの性格は最悪だった。
何らかの事情を抱えて悩んでいたのだとしても、ユウリが原作のアンニに自分の悩みを相談するはずがない。
彼がいざそうなった時、一番身近にいて頼れるお姉ちゃんになること。
それこそ、私が今からできる、最も効果的な対策だと思う。
……要するに。
あの可愛い義弟を、これからもひたすら可愛がり続ければいいということだ。
何の問題もないね!
「あとはやっぱり、いざという時の対策ね……」
備えあれば憂いなし、とはよく言ったもの。
ゲームの舞台となる学園入学までは、まだ九年近くもの月日がある。
それだけもの時間があるのだから、ユウリや他の人間たちとの関係改善だけに注力するというのは、さすがに怠けすぎだ。
「まず思いつくのは、魔法の習得かしら」
この世界には魔法の概念が存在し、基本的に貴族は皆、魔法を扱うことができる。
残念ながら、ユウリはともかく、原作のアンニの魔法面での能力は、特に秀でたものではなかった。
今からしっかりと鍛えれば自衛に使える程度にはなりそうだが、過剰な期待はしない方がいいと思う。
それでも、やらないよりはずっといい。
「あとは……まだ覚えているうちに、ゲームの設定をノートにまとめておいた方がいいわね」
人間は忘れる生き物だ。
何年もの月日を過ごすうちに、うっかり忘れてしまうこともあるだろう。
ついでに日々の出来事を日記として記録しておこう。
普段使わないと日本語も忘れてしまいそうで怖いので、日記と極秘ノートは日本語で書いていくことにしようと思う。
とりあえず、意識するべきことは、
・主人公と仲良くする(学園入学後なので随分先の話だけど)
・主人公の攻略対象たちと深くかかわらない
・ユウリと仲良くする
・魔法の鍛錬をする
・覚えているうちにゲームの設定をまとめておく
・日記をつける
こんなところだろうか。
やるべきことが整理できて、だいぶ頭の中がスッキリした気がする。
「……今日はもう寝よ」
幼い身体に、夜ふかしは厳しいものがある。
ノートを片付けて、私はモゾモゾとベッドに入り込むのだった。
私が前世の記憶を思い出してから、一ヶ月が経過した。
今のところは、概ね平和な日々を過ごしている。
変わったところと言えば、スタグレーゼ家の家庭教師から、普通の座学だけでなく、魔法についての知識も教わるようになったくらいか。
「魔法の勉強もしたい! したいったらしたい!!」とゴネた私に、お父様の方が折れた形だ。
少し予想外だったのは、ユウリも私と一緒に勉強したいと言い出したことだった。
ユウリが自分からやりたいと言うのなら、私がそれを拒むはずもない。
そんなわけで、私とユウリは魔法の勉強を始めた。
いきなり実践は許可されなかったので、まずは座学から勉強した。
座学とはいえ本当に基礎的なところから入っているため、今のところ楽しく勉強することができている。
この世界の魔法は、完全に天性の才能だ。
そして魔法を扱える才能――魔法適性を持つのは、多くの場合貴族の血を引くものたちである。
魔法適性は遺伝するので、魔法を扱える一部の人間たちが力を持ち、代々特権階級に収まってきた、と表現する方が適切か。
平民の中にも時折魔法適性を持つものが現れるが、本当にごく僅かなのだという。
魔法には火、水、風、土、光、闇の六種類の属性があり、魔法を扱えるかどうかはその者が先天的に持つ適性の種類によって決まる。
複数の属性の適性を持つ者も存在し、そういった者の方がより強力な魔法を扱える傾向がある。
とはいえ基本的には皆が一属性、たまに二属性の者がいて、三属性でもほとんどいない。
四属性の適性を持つレティシアなどは、貴族でもほとんど例を見ない。
ちなみに私とユウリは火属性の適性を持っている。
スタグレーゼ家は代々、火の魔法適性を受け継いできた家系なのだ。
そして今日は、私とユウリの初めての魔法実践日である。
家庭教師に連れられ、私とユウリは屋敷の庭に足を運んでいた。
「良いですか? 意識を集中させるのです。自分の内側にあるものと向き合うのです」
随分と詩的なことを言っているような気がするのは、家庭教師のルート・エメリア・フィッチ先生だ。
まだ年若い女性で、長い青色の髪が特徴的だ。
アンの知識では、たしか数か月前にやってきたばかりの、スタグレーゼ家の中ではかなりの新人である。
だがそこはスタグレーゼ家に選ばれた家庭教師というべきか、その知識量は目を見張るものがあった。
記憶を取り戻す前のアンニは、あまり彼女のことを好ましく思っておらず、よく授業を抜け出して困らせていたようだ。
そして彼女の方も、自分の授業をまともに受ける気がないアンニのことを、好ましくは思っていなかったようで。
彼女からアンニへの心象も決してよいものではなかっただろうが、最近はユウリと共におとなしく授業を受けているので、多少は成長したと思われているっぽい。
ちなみに授業中のユウリは本当におとなしい。
記憶を取り戻す前の私にも見習ってほしいくらいだ。
それはともかく、だ。
フィッチ先生が言うには、魔法を使えるようになるためには、ある段階を踏む必要があるという。
自分の体内の魔力を感じ取り、それを放出する。
それができて初めて、魔法を行使できるようになる。
ただ、この最初の段階は感覚的な部分が多く、なかなか苦戦する者も多いらしい。
「…………」
私は意識を集中させる。
自分の内側、その深くにあるものを探るため、より深く意識を沈めていく。
「…………」
「………………」
「………………ぐぅー……――ったぃ!?」
突然肩に衝撃がはしり、私の意識が現実に引き戻される。
さりげなくよだれを拭いてから顔を上げると、呆れ顔のフィッチが生暖かい目でこちらを見ていた。
「集中しろとは言いましたが、寝ろとは言ってませんよ、お嬢様」
「だからって杖で叩くことないでしょ!! 暴力反対!!」
「指導の一環です。それに、そんなに強くはしてないでしょう?」
けろっとした顔でそう語るフィッチに、私は何も言い返せない。
無論、あまりにもひどい指導をしていれば、お父様だって黙っているはずがない。
この程度は、まだ問題外ということだ。
「…………」
私たちがそうやって騒いでいる間にも、ユウリは自分の中に潜むものに近付いていた。
眠っているかのような姿だが、その表情は真剣そのものだ。
普段は何かと構いに行く、もとい構われに行く私ではあるが、今この瞬間だけはそんな気が微塵も湧いてこない。
「……あ」
不意に、ユウリの気配が変わった。
何かに気付いたような、何かを掴んだような、そんな顔をしている。
さすがはユウリ。
私とフィッチ先生が遊んでいる間に、自分の中の魔力を感じ取ることができたのだろう。
「ユウリ様。ご自身の中にある魔力を感じ取ることができたのですね?」
「……はい。たぶん、これがそうなんだと思います」
少し自信がなさそうなユウリだが、その気配は間違いなく先ほどまでとは違っている。
「では、それを外側に吐き出してください。できますか?」
「や、やってみます」
ユウリは再び意識を底に沈めていく。
ただ、そこで異変が起きた。
「…………うう……っ……」
ユウリが苦しみ始めたのだ。
強く瞼を閉じ、額には脂汗が浮かんでいる。
そして、彼の周囲に何かが漂い始める。
それはすぐに視認できるほど大きくなった。
火の粉だ。
ユウリを取り巻くように、火の粉が舞っていた。
そしてそれは、さらに大きくなろうとしている。
どう見ても、まともな状態ではない。
魔法に関してはほとんど素人の私にも、思い当たる節はあった。
あれは、魔力の暴走だ。
「フィッチ先生! ユウリが……!」
「わかっています! しかし、これは……!」
その瞬間。
先生の顔には、何か奇妙な感情が宿っているように見えた。
しかし、すぐに教師の表情に戻ると、
「お嬢様は屋敷に戻ってください! 彼が止まるまでは決して、出てこないように!」
それだけ言って、フィッチ先生はユウリのもとへ向かった。
その場に残された私は、ひどく混乱していた。
原作ゲームでは、幼少期にユウリが魔力暴走した、などというイベントはなかったような気がする。
もしかしたらあったのかもしれないが、少なくとも私の知る限りではなかったはずだ。
そもそも原作ゲームだと、アンニやユウリが魔法の勉強を始めたのは、もっと成長してからだったのではないか。
ユウリには魔法の才能がある。
私とは比べ物にならないほどの、天性の才能だ。
だが、大きな才能は時として、自分を傷つける凶器にもなり得る。
たとえば、あと数年後であれば問題なく行えた魔力の放出が、六歳という年齢では身体への負担が大きすぎた、とか。
「……わたしの、せい?」
――私のせいだ。
ユウリにすごい才能があるのは、知っていたはずなのに。
甘く見ていた。
大丈夫だと思っていた。
原作より早い時期から鍛錬すれば、原作のキャラクターたちより強くなれると、はしゃいでいた。
だが現実はどうだ。
私の甘い見通しのせいで、ユウリはいま危険な目に遭っている。
「ユウリ様! 聞こえますか!? 少しずつ魔力を放出するのです! 焦らないで!」
フィッチ先生も頑張って呼びかけているが、その声がユウリに届いているのかは微妙なところだ。
呼びかけながら、先生は魔法で大きな水の幕のようなものを創り出している。
なんのためにそんなものが必要なのかは、言うまでもないだろう。
魔力が暴走した人間がどうなるのか、私はまだ知らない。
知らないが、なんとなく想像することはできてしまう。
そうなったら、私は死ぬまで、今日のことを後悔しながら生きることになるのだということも。
「――ユウリ!!」
駆けだしていた。
自分でも驚くほど、足が軽い。
頭で考えるより先に、身体が動いているからだと、遅れて気付く。
「っ!! いけませんお嬢様!! 離れてください!! 離れて!!」
フィッチ先生の隣をすり抜け、水のカーテンを越えて、私は走った。
小さく蹲っている最愛の弟のもとへ、私は走った。
「ユウリ!!」
ようやくユウリのもとにたどり着いた私は、力いっぱいその身体を抱きしめる。
「っつ!!」
触れた瞬間、そのあまりの熱に手を放してしまいそうになる。
でも、ダメだ。
ここで手を放したら、絶対後悔する。
たとえこの手が使い物にならなくなったとしても、悔いはない。
そう思い、構わず彼の身体を抱きしめ続けた。
それでようやく、彼は私に気付いた様子で。
「……アン……姉さん……?」
「そうよ。お姉ちゃんよ!」
私の気配を認めたユウリは、とても不思議そうな顔をした。
けれど、それは一瞬で恐怖に染まる。
「……っ! ダメ、だよ……アン姉さん……! からだが、すごくあつくて……! いまにも、ばくはつしそうなんだ――!!」
ユウリが左手で、自分の胸を掻きむしる。
血が滲むその胸と手に、私は両の手を重ねた。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんが、そばにいるから」
「でも――」
「大丈夫だから。ユウリなら、大丈夫」
「……アン、姉さん」
少しだけ、落ち着いてくれたのだろう。
ユウリの表情が、僅かだが和らいだ気がする。
「ゆっくり息を吐いて。大丈夫、ユウリなら絶対に大丈夫だから」
「…………」
「お姉ちゃんが、ついてるからね――」
この子を、絶対に一人にさせない。
それだけを想って、私は今ここにいる。
「……ありがとう、アン姉さん」
ユウリの手が、私の手に重なる。
相変わらずやけどしそうなほどの熱だが、今はそんなことに構っている暇はない。
集中し始めた状態の時のまま、ユウリは目を閉じたままだ。
気を抜いたら一瞬で破裂してしまいそうな魔力を少しでもコントロールするために、開くことができないのだろう。
少し落ち着いたとはいえ、ユウリはまだ危険な状態だ。
魔力の暴走はまったく収まる気配がない。
溢れんばかりの魔力をどうにかするには、それを消費するしかない。
でも、どうやって消費すればいい?
本来なら、周囲に分散させるように放出するものだと、フィッチ先生からは聞いていた。
ユウリの場合、おそらく魔力量が多すぎて暴発に近い状態になっているのだと思う。
一度失敗している以上、分散という手は取れない。
魔力を手っ取り早く、大量に消費する方法。
そんなものが、あるのだろうか。
「――あ」
瞬間、私は思いつく。
というか、それしかない。
ユウリの状態は、とても楽観視できるものではない。
すぐにでも、この暴走状態を鎮める必要がある。
ならば、今の私にできることは一つだった。
「先生がね、正面に大きな水の壁を作ってくれてるの。そこに向けて、身体の内側の熱を打ち出すの。できる?」
「――うん。やってみる」
ユウリは小さく頷いた。
右手を前に突き出し、瞳を閉じている。
胸の前に置かれた左手は、私の両手がしっかりと包み込む。
何があっても、絶対にユウリを離さないように。
そして、変化は訪れた。
「……熱が、引いてる?」
あれだけ熱かったユウリの身体から、熱が引いている。
まだ熱さは残っているが、人間のレベルを越えない程度の熱だ。
「……くっ……!!」
その代わり、彼の右手の先に、とんでもない熱量を持った球体が出現していた。
制御が難しいのか、球体は今にもその形を崩しそうになりながらも膨張を続けている。
球状になった熱の中に、すべてを焼き尽くさんばかりの勢いで炎が荒れ狂っていた。
「フィッチ先生! 水の壁を!!」
「ッ!! わかりました!!」
私のやりたいことを察してくれたフィッチ先生が、急いで水の壁を創り出す。
瞬く間に出来上がったそれは、屋敷全体を飲み込んでしまうのではないかと思うほどの高さになっている。
それでも、ユウリの創り出した火球を飲み込めるかと言われると、微妙なところだった。
「出せるだけ出しますので!! こちらはご心配なさらず!!」
「はい! ありがとうございます!!」
彼女の言葉通り、続いて二枚目、三枚目の水の壁が創り出されていた。
ああ見えても、先生はかなりやり手の魔法使いなのだ。
「……アン、姉さん……ぼく、もう……!」
多少の不安はあるが、もうユウリが限界だ。
私は頷き、ユウリを強く抱きしめた。
「前に打ち出すように、手を放すの。できる?」
「……やって、みる」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんがついてるからね」
「……うん!」
……なぜだろう。
危機的状況のはずなのに、楽観などできない状況のはずなのに、私の心はひどく落ち着いていた。
それはきっと、ユウリから伝わってくる熱のせいなのだろう。
ユウリの手から、火球が離れる。
その瞬間、火球の質量が爆発的に膨れ上がった。
(あ。やばい)
自分の選択の甘さを思い知る。
ユウリが放った火球は、うまく前に打ち出せていなかった。
持ち主の制御を失った火球の暴力的な質量が、私とユウリの前に迫っている。
頭で考えるより前に、身体が動いてしまっていた。
「っ!!」
ユウリを庇い、私の身が火球に晒された。
灼熱が、肌をチリチリと焼いている。
恐ろしいはずのその感覚が、私にはどこか懐かしく思える。
それはきっと、このスタグレーゼの血が、その感触を覚えているからだ。
(……あれ?)
自分の中に、かすかな光のようなものを感じる。
それは火だった。
吹けば飛ぶような脆弱な光が、私の中に芽吹いていた。
これがきっと、自分の中の魔力を見つけるということなのだろう。
自分の中に、確かな存在を感じる。
あとはそれを、外に押し出してやればいい。
「……ふーっ」
私の中から、思いのほか強い風が吹き荒れた。
あるいは、それは時間にしてみれば、ほんの僅かな間だったのだろう。
ユウリが放ち、私が押し出した巨大な火球が、何重にも重なった水壁へと飲み込まれる。
「――――ッ!!」
火球と水壁がぶつかり合った瞬間、とんでもない衝撃が周囲に広がった。
私とユウリの身体は、何回転もしながら吹き飛ばされた。
庭の木々は折れてしまうのではないかと思うほど強くたわみ、屋敷の窓という窓がすべて割れている。
それでも、それだけで済んだのはまだマシな方だろう。
「…………なんとか、なった」
水浸しになった庭の中心で、私は呆然と呟く。
実際、かなりギリギリだった。
何か一つ違っていたら、死んでいたに違いない。
「痛っ……」
火球を正面から受けた両腕は、少し焼けただれてしまっている。
あれほどの質量を浴びながらこの程度で済んでいることに疑問を抱くが、まあそういうこともあるのだろう。
「うっ……」
「あ、ユウリ!」
近くに転がっていたユウリの元に駆け寄る。
軽いせいか、けっこうな距離を飛ばされていたが、目立った外傷はない。
ただ、無理やりに魔力を放出させたのだから、身体への負荷は相当なものだろう。
「大丈夫? 怪我とかしてない? 気分が悪いとか、そういうのは――」
「……うん。だいじょうぶだよ。ありがとう、アン姉さ――」
そこでユウリは、顔を青くして、
「……そ、そのうで……」
「腕?」
そこで私は、ようやくユウリの言葉の意味を理解した。
彼の目線は、私の焼けただれた腕に注がれていたから。
「ああ。大丈夫よ、これくらい。ちゃんと治るわ」
実際、あまり重くは捉えていなかった。
これくらいの怪我なら、たぶん普通に治る。
多少は痕が残るかもしれないが、ユウリの命には代えられない。
そう思っていたのだが。
「……――――」
「ちょっ!? ユウリ!?」
青い顔をしたユウリは、そのまま意識を手放していた。
こうして、私とユウリは、なんとか魔法を使えるようになったのだった。
……代わりに、ユウリが引きこもりになった。
ユウリが部屋から出てこない。
トラブルはありつつも、私とユウリが魔法の発現に成功してから、既に一週間が経過している。
部屋の外から誰が呼びかけても、効果がなかった。
理由には、なんとなく察しがついている。
ユウリの魔力が暴走したせいで、私が腕を負傷したからだろう。
「アンの腕が治れば、きっとユウリも出てくるよ」とお父様は言っていたが、私はそこまで楽観視していない。
こういうのは、長引けば長引くほど元に戻りにくいものだ。
なんとかユウリを引っ張りだしたいが、私の腕が治っていない現状ではそれも難しい。
大丈夫だという姿を見せて、ユウリを安心させる必要があるからだ。
ユウリが引きこもっている間、他にもいろいろと動きがあった。
あれだけ大規模な爆発だったが、幸いにもスタグレーゼ家で働く人たちに被害はなかった。
庭は一部の植物に被害があったのと、一部が水浸しになったせいで庭師が大激怒していた。
あとは、爆発の衝撃で屋敷の窓ガラスが全て粉々に砕け散ったくらいか。
優秀な使用人たちが即座に発注、修繕までやってくれたおかげで、わずか三日ほどで元に戻っていた。
あれほどの熱を帯びていたにもかかわらず、ユウリ本人も大した怪我はしていなかった。
ただ、私のやけどはそれなりに重傷だったようで、治癒魔法の専門ではないフィッチ先生では治療できないレベルだった。
起きている間はそれほど気にならないのだが、夜寝ようとすると痛みが気になってなかなか眠れないのがつらかった……。
そして今日。
お父様の指示で、この国でもかなり高位の治癒師(治癒魔法を専門で扱う職をそう呼ぶらしい)を王都から呼び寄せて治療してもらった。
おかげで、腕もすっかり元通りだ。
「ふんふんふーん♪」
治癒師を玄関から見送ったあと、私は上機嫌で廊下を歩いていた。
「あら、あんなにはしゃいじゃって……」
「すっかりよくなられたようね。一時はどうなることかと思ったけど……」
すれ違う使用人たちも、皆微笑ましいものを見る目で私を見ている。
冷たい目をされているわけではないのだが、それはそれでちょっと恥ずかしい。
「あ、フィッチ先生!!」
廊下をとぼとぼと歩く特徴的な髪を見つけた私は、彼女のもとに駆け寄った。
振り向いたフィッチ先生は、どこか元気がない顔をしている。
「……ああ、お嬢様。よかった。お怪我は治療していただけたようですね」
「ええ! もうなんともないわ!」
腕をブンブンと振り、完治をアピールする。
ここ数日はほとんど部屋から出ていなかったので、フィッチ先生と顔を合わせるのはあの日以来のことだ。
ふと視線を下げた私は、あることに気付く。
「……先生、どこかへ出かけるの?」
フィッチ先生は、足元に大きなカバンを置いている。
基本的に、スタグレーゼ家で働く人たちは住み込みだ。
たまに長期休みで故郷へ帰ることもあるので、里帰りか何かだろうか。
「ちょうどよかった。最後にお嬢様にも、ご挨拶申し上げておきますね」
「……最後?」
「ええ」とフィッチ先生は頷き、
「先日のこともありまして。このスタグレーゼ家のお仕事をクビになってしまいました。今日付けで、この屋敷からもお暇させていただきます」
「……そんな」
フィッチ先生は、困惑する私に深々と頭を下げて、
「本当に、申し訳ありませんでした。私にはまだ、人にモノを教えられるような能力が無いようです……」
「そんな……そんなことない! フィッチ先生は、被害を未然に防いだんですよ!? 先生の魔法がなかったら、私もユウリもとっくに死んでます!!」
フィッチ先生が創り出した水壁の魔法がなければ、中庭だった場所が巨大なクレーターになっていただろう。
そこまでいかなくても、爆心地にいた私とユウリは粉微塵になり、屋敷も吹き飛んでいたことは確定的だ。
「私たちだけじゃない! 屋敷の中にいた人たちだって、先生の魔法があったから助かった! フィッチ先生は、みんなの命の恩人なんです! それを、そんな人を、クビだなんて……!」
私の怒りに、しかしフィッチ先生はすべてを諦めたような顔で、
「お嬢様は、優しいですね。でも、本当に私の力不足ですから……。ユウリ様が魔力の暴走を起こすことくらい、想定しておくべきでした」
「そんなの、わかるわけないじゃない……!」
普通なら、あんな子どもが何十人もの人間を殺傷できるほどの力を扱えるはずがない。
ユウリはイレギュラー中のイレギュラーなのだ。
六歳の子どもが、あれほどの力を秘めていると考える方がおかしいだろう。
「それに、お嬢様にひどい怪我を負わせてしまいました。私が、もっとしっかりお嬢様を止めていれば、こんなことには……。
ご当主様が腕利きの治癒師を呼んできてくださったおかげで、大事にこそ至りませんでしたが……。
治癒師の治療代も決して安いものではありません。下級貴族程度の資金力なら、治療を諦めるほどだったのです、お嬢様の傷は」
「………………」
それは初耳だった。
ゲームの中ではあまり子どもに感心がない親なのだろうと思っていたが、現実ではそうでもないのだろうか。
単純に、目に見えるところに傷があると、政略結婚のときに不利になると思ったとか、そういう理由な気もするが。
いずれにしても、今は。
「そんなことはどうでもいいの」
「ど、どうでもよくはないでしょう」
「私の怪我は、私が自分で選んだ結果だから、いいの」
私はフィッチ先生の目を見る。
すべてを諦めた顔に、わずかながら困惑の色がある。
「それに、私がユウリのもとに行けていなかったら、それこそユウリは魔力の暴発で死んでいたわ。それくらいわかるもの」
「それは……」
フィッチ先生が口ごもる。
あのとき、ユウリを落ち着かせられる人間は、私のほかにはいなかったと断言できる。
私の行動は正しかった。
もちろん、魔法の訓練をもっと先延ばしにしていれば、起こらなかった事故ではある。
でも、私もフィッチ先生も、ただの人間だ。
すべての選択を完璧に、なんてできるわけがない。
あの時、あの場において、私の行動はベストだった。
その結果、私が少し怪我をしただけで、フィッチ先生が責められるのはお門違いというものだろう。
「……なんだか、すごく腹立たしいわ」
イライラする。
このまま、フィッチ先生を行かせてしまっていいのだろうか。
ひどく落ち込んだ彼女の姿は、とても痛々しい。
前はもっと、自分の力に自信を持っている感じが全身から溢れていたものだ。
それが今は、まったく無くなってしまっている。
このまま彼女を行かせるのは、あまりよくない選択肢な気がしてならない。
お父様もお父様だ。
フィッチ先生にすべての責任を押し付けて、それで次の家庭教師を呼べば解決、とでも思っているのだろうか。
人間味が感じられない。
私の嫌いなタイプの対処法だ。
「……まだ、お父様は屋敷にいるわね」
治癒師を呼ぶにあたって、お父様は今日、屋敷に来ていた。
治療に立ち合い、私の腕の具合に問題がないことを確認するためだ。
少し時間は経っているが、まだ王都に戻っていないことを願うしかない。
「お嬢様、一体何を……」
「フィッチ先生。一緒に来てください」
「え、ちょっ……!」
困惑するフィッチ先生の手を取り、私はずんずんと廊下を歩き出す。
子どもの力など振り払えるだろうが、さすがのフィッチ先生も雇用主の子どもの手を振り払うことには抵抗があるようだ。
「行くって、どこへ……」
「決まってるわ。お父様に直談判に行くのよ」
「ええっ!?」
般若のような顔で、私はお父様の書斎の前までやってきた。
その後ろには、「はわわ……」と言いながら頭を抱える新人家庭教師、フィッチ先生の姿もある。
私は怒っていた。
短絡的な対処しかしない父に、怒髪天がつく勢いだった。
「お父様!! 入りますね!!」
力任せなノックをしてから、バァン! と扉を開ける。
「……アン? どうしたんだい……?」
何かの作業中だったらしい父が、怪訝そうな顔で問いかけてくる。
その顔には強い困惑の色がある。
その傍には、執事のセバスもいた。
彼は父とは違って、少し興味深そうな顔をしていたが。
「ダメだよ、扉をそんなに強く開いては。腕もまだ、あまり強く動かしてはいけないと治癒師の先生も……」
「そんなことは、どうでもいいのです!!」
お父様の机の上に、バァンと手を叩いた。
すごくいい音が鳴る。
手もめちゃくちゃ痛かったが、今はそんなことはどうでもいいのだ。
「私が言いたいのは、なぜフィッチ先生をクビにしたのかということです!!」
「ああ、家庭教師の先生のことかい」
お父様は少し冷めた様子でフィッチ先生の方を見ると、
「彼女が立ち会っていたにもかかわらず、アンは腕に重傷を負い、ユウリは魔力の暴走であやうく死にかけた。
彼女の家庭教師としての能力に問題があると判断しても仕方ないだろう――と言っても、まだアンには難しいだろうけど」
「わかります! わかるから言ってるんです!!」
私の言葉に、お父様が目を丸くする。
構わず、私は叫んだ。
「お父様は直接、ユウリが出した火球をご覧になったのですか!? あれがそのまま爆発していたら、屋敷なんてまるごと吹き飛んでいました!!
先生がいなかったら、私もユウリも、屋敷の中にいた人たちだって、とっくに死んでます!!
先生が出した水の壁があったから、あの程度の被害で済んだんですよ!?」
「……待て。それほどだったのか? ユウリの魔力は」
「そんなことは、どうでもいいのです!!」
再び机の上に手のひらを打ち付ける。
めちゃくちゃ痛いが、今はそんなことはどうでもいい。
「魔力の暴走だって、普通は先生くらいの力があれば、簡単に止められたはずです! でも、ユウリのあれは、あまりにも規格外すぎました!
いくら先生が優秀だからって、全部先生が悪いって言うんですか!? ユウリにものすごい才能があるのも、魔力が暴走する可能性があるのも、
全部最初から見抜けって言うんですか!? そんなこと言い出したら、ユウリを養子にしたお父様にだって、責任がありますよね!?」
最初からすべて予測しろと言うのだろうか。
そんなのは無理だ。
そんなことは、お父様もわかっているはずだ。
それでも、スタグレーゼ家の当主として、誰かの責任を追及しないわけにはいかなかったのだろう。
「それなのにお父様は、全部先生が悪いって言うんですか!? 先生を悪者にする前に、まず先に先生に感謝するべきなんじゃないんですか!!
先生は必死に私とユウリを護ろうとしてくれましたよ!? 屋敷に被害がいかないように、ものすごく大きな水の壁も作ってくれました!!
それでも足りないっていうのなら、お父様が先生の代わりに同じことができるかどうか、考えてみたらどうですか!!」
「……お、お嬢様。私のことは、もういいですから」
わけのわからないことを口走ったフィッチ先生に、私はブチ切れた。
「いいわけないでしょう!? フィッチ先生は何も悪いことなんてしてないんだから!! ちゃんと私とユウリを護ってくれたんだから!!
すごい魔法でみんなのことを、ちゃんと護ってくれたんだからぁ……!! フィッチ先生はすごいんだからぁ……!!」
「……お嬢様」
いつの間にか、視界がぐちゃぐちゃになっていた。
私の顔は、きっと大変なことになっているだろう。
「……アン。わかったから、少し落ち着きなさい」
「いやよ!! ぜったい落ち着いたりなんかしないんだから……!! フィッチ先生をクビになんてしたら、お父様のこと、嫌いになるんだからっ!!!!」
「なるほど。これは重症だな……」
私の様子を見たお父様は、なぜか苦笑していた。
「――フィッチ先生。すまないが、先日の件はなかったことにしてもらえないだろうか?」
「え……?」
驚くフィッチ先生をよそに、お父様は苦笑いを浮かべて、
「どうやら、冷静じゃないのは私の方だったようだ。自分の娘にここまで言われないと気付かないとは、我ながら呆れるな。
いい訳をさせてほしいんだが、私も娘がひどい怪我をしたとなると、とても冷静ではいられなくてね。
改めて、しっかりと事実確認をさせてもらうことにするよ。それと……」
お父様は泣きじゃくる私の頭を撫でながら、
「君さえよければ、これからもアンたちの面倒を見てやってほしい。このままだと、愛娘に嫌われてしまうのでね」
「……はい。はい! 私でよければ!」
フィッチ先生の顔には、生気が戻っていた。
「うん、ありがとう。それと、セバス――」
「……新しい家庭教師の募集は、取り下げておきます」
「ああ。ありがとう、セバス」
慇懃な態度のセバスに、お父様は苦笑する。
「早速で悪いけれど。フィッチ先生、娘を部屋まで送り届けてもらえるかな。ここにいると、ずっと怒られそうだからね」
「しょ、承知しました! ほら、アン様、行きますよ」
「ぐずっ……ぐずっ……」
一度ぐずり始めた身体は、そう簡単には元に戻ることはなく。
部屋に戻った私は、フィッチ先生に付き添われながら、ベッドで眠りにつくのだった。
「……よろしかったのですか?」
アンたちが退室した後、セバスがヘイルに問いかける。
「何がだい?」
「彼女の教師としての能力に、疑問があるのは間違いありません。ユウリ様に素晴らしい才能があるのであれば、猶更。
彼女よりも、もっと力のある教師がいるのではと思いまして」
「まあ、ね」
フィッチの能力は高い。
魔法学校を卒業したての若輩ではあるが、その優秀さには目を見張るものがあった。
だからこそ、そろそろ勉学に励む年頃になる娘や息子のために、このスタグレーゼ家の家庭教師として招いたわけだが。
しっかり探せば、他にも優秀な者はいるだろう。
彼女よりもはるかに優秀な人材も見つかるかもしれない。
けれど。
「……少し、ね。思い出したんだよ」
「…………?」
「メロも、他人のために、本気で怒れる人だった」
今は亡き、妻の姿を思い出す。
学園でいじめられていた平民の子を庇って、よく喧嘩まがいのことをしていた。
曲がったことが大嫌いな人だった。
彼女が生きていれば、今回もきっと自分を止めてくれていただろう。
自分の間違いを咎めてくれていたはずだ。
でも、彼女はもういない。
彼女のいない世界を今、ヘイルは生きている。
アンはあまり妻に似ていないと思っていた。
自分の育て方が悪かったせいか、我慢が効かず、わがままな子に育ってしまったと後悔していた。
最近は少し変わったと思っていたが、それでも妻とは似ても似つかないな、というのが正直な感想だったのだが。
「あまり似てないと思ってたけど、ちょっとずつ似てきたのかな?」
「……そろそろ、お時間でございます」
「おっと、いけない。そろそろ戻らないとね」
仕事柄、屋敷にいられる時間は少ない。
それでも、可能な限りアンやユウリとの時間を大切にしたいものだ。
そんなことを考えながら、ヘイルは王都へと戻るのだった。
「――それでは、第五回、アン会議を始めます」
議長の宣言により、記念すべき第五回となるアン会議が開幕した。
「……なんですか、それは?」
困惑する様子の少女――フィッチ先生が、訝し気な目で私を眺めている。
アン会議はアン会議だ。
何を説明することがあるのだろうか。
「今日の議題は、ユウリのことです」
「ああ、なるほど……」
私が本日の議題を口に出すと、フィッチ先生も理解を示してくれた。
ユウリはいまだに部屋から出てこない。
厳密には、ここ数日はまったく出てきていないわけではないらしい。
食事は使用人に運ばせ、トイレは周りに誰もいないときを見計らって行っているのだとか。
風呂も一応、夜の遅い時間に入りに来ていると使用人は言っていたが……。
それでも、私はユウリとかれこれ十日ほど顔を合わせられていなかった。
私が、ユウリから避けられているからだ。
「私が部屋の前にいると、部屋から出てこないのよね……」
昨日のことを思い出す。
「今日こそはユウリとちゃんと話をするぞ!」と思った私は、ユウリの部屋の前に陣取ったのだ。
朝から晩まで部屋の外にいたが、結局ユウリは現れなかった。
後から聞いた話では、窓から食事を受け取ったり、トイレに行ったりしていたらしい。
我が弟ながら、そこまでするかと呆れてしまう。
このままではいけない。
だが、具体的にどうすればいいのかわからない。
だから今回はスペシャルゲストをお呼びしたのだ。
「ということで先生。何かいい案をください」
「そう言われましても……」
フィッチ先生は、最初こそ渋っていたが、ハッと気づいたように顔を上げて、
「……でも、ユウリ様が落ち込んでいるのは私のせいですし。なんとかしたい気持ちは私も同じです。わかりました。一緒に考えましょう」
「うん! ありがとう、フィッチ先生!」
とりあえず、考えてくれる人間が一人増えた。
まずは、現状の確認をしようと思う。
「そもそも、ユウリはどうして部屋に籠っているんでしょう……? 私の傷はもう治ったんだから、ユウリが気にすることなんて、何もないはずじゃない?」
私の腕が、まだ治っていないのであれば、それは理解できる。
自分が負わせてしまった傷が治らない、という負い目に押しつぶされているのだと、想像がつく。
だが、私の傷が完治した今も引きこもっている理由がわからない。
私の傷が治ったことは、ユウリも知っているはずだ。
治ったからもう大丈夫だと、扉越しにではあるが何度も伝えた。
それでもユウリは、部屋から出てこない。
それとも、何か他に理由でもあるのだろうか。
フィッチ先生は、何事かずっと考え込んでいる様子だったが、やがておもむろに、
「……多分、怖いんだと思います」
「怖い? 私、ユウリのこと怒ってなんていないわよ?」
ユウリに対して、怒りなどあるはずがない。
原作のアンニに対してならともかく、今の私は弟に甘々だ。
彼が怖がるような要素があるとは思えない。
しかし、フィッチ先生はかぶりを振る。
「そうではありません。ユウリ様はきっと、自分の力でアン様が再び傷つくことが、怖いのです」
「――――」
「ユウリ様は今、自分の力を制御できていません。今回はたまたま、アン様も無事でしたが……これから先も魔法を使う以上、
魔力の暴走というリスクは常につきまといます。強い力を持っていればいるほど、自分の力に対する恐怖は大きなものになるのではないでしょうか」
フィッチ先生の言葉に、私の思考が停止する。
その言葉の意味を咀嚼して、
「…………なるほど。その発想はなかったわ!」
本当に、その発想はなかった。
たしかにそれなら、これまでのユウリの態度にも納得がいく。
同時に、とても嬉しくも思う。
ユウリはそれほどまでに、私のことを大切に思ってくれているのだという感動があった。
そして、今までの呼びかけがうまくいかなかった理由も、思い知った。
ユウリは私を傷つけたことで追い詰められているのではなく、これから先ずっと、自分のせいで私が傷つく可能性が付きまとうという事実に追い詰められているのだ。
「――私、ユウリのところへ行ってくるわ」
もう、ユウリが引きこもり始めて十日が経過している。
これ以上長引かせれば、それこそずっと引き籠ってしまうかもしれない。
動くなら早い方がいい。
「私も同行します。アン様だけだと、ちょっと不安なので」
「ちょっと、どういう意味よ!!」
「いえ、別に他意はありませんが」
何もないのについてくるはずがないだろう。
そう思ったが、あまり引きそうでもないのでついてきてもらうことにした。
こうして、第五回アン会議は閉会となった。
「……ユウリ、いる?」
閉会の後、私とフィッチ先生は、ユウリの部屋の前に足を運んでいた。
扉をノックしてみるが、返事はない。
「…………」
けれど、中にユウリがいる気配はある。
沈黙を保ってはいるが、なんとなく、耳をそばだてているのではないかと思った。
きっと、この声は届いている。
そう思って、私は扉越しにユウリへ語りかける。
「私ね、わからなかったんだ。ユウリがどうして、出てきてくれないのか」
「…………」
「傷は、ちゃんと治してもらったんだよ。痕も残ってない。だから、ユウリが気にすることなんて何もないのにって、ずっと思ってた」
「…………」
「……でも、フィッチ先生にも相談して……ユウリが気にしてることは、ちょっと違うのかもって、そう思ったの」
「…………」
ユウリは相変わらず沈黙を保っている。
けれど、僅かに室内の空気が揺らいだような気がした。
「ユウリはこれから先も、自分の魔法で私を傷つけるかもしれないって、そう思ったの? だから部屋から出てきてくれないの?」
「…………っ」
「――だから、私を遠ざけようとするの?」
「……っ!」
部屋の中から、かすかに声が漏れる。
それは間違いなく、ユウリの耳に私の声が届いた証左だった。
「……こわいんだ」
ポツリと。
扉越しに、ユウリの声が届いた。
「じぶんのなかから、すごくくろくておおきなものがあふれてきて……ぼくなんかじゃ、あれをなんとかするなんて、できないよ……」
「……ユウリ」
ユウリの中の魔力は、それほどまでに巨大なものなのか。
同じ感覚を共有できない私には、それがどれほど絶望的なことなのか、うまく想像ができなかった。
「まほうをつかおうとして……つかおうとしなくても、なかからあふれてきそうになるんだ……。このままじゃ、アン姉さんまで……」
「――――」
知らなかった。
ユウリが一人で、それほど思い詰めていたなんて、知らなかった。
「……でも、うれしい」
「……え?」
私の口から出た言葉に、ユウリの口から困惑の声が漏れる。
「だってそうでしょ? ユウリは私が大切だから、傷つけたくないから、わざと自分から距離をとってたんだよね。えへへ、うれしいなぁ」
「それは……」
原作のユウリを知る私だからこそ、わかる。
ゲームでのユウリなら、たとえどんなに大きな悩み事があったところで、姉であるアンニに相談しようとは思わないだろう。
まして、姉を大切に思う感情など、無いに等しかったに違いない。
「ありがとね、ユウリ。お姉ちゃんのことを、大切に想ってくれて」
だから、私の口から一番先に出た言葉は、感謝だった。
「……でも、ぼくはアン姉さんをきずつけたんだよ!? あんなひどいけが、もしかしたらなおらなかったかもしれないのに……!!」
「いいのよ。私が、ユウリを助けたかったから、結果的に怪我しちゃっただけ。ユウリのせいじゃないわ」
これは本心からの言葉だ。
結局、私だってベターな選択はできたと自負しているが、ベストな選択ができたとは考えていない。
自分が怪我をしたのだって、別にユウリのせいではない。私の頭が足りなかったせいだ。
あの時、あの瞬間にできる中にも、もっといい方法があったかもしれないのだから。
「でも――」
「私の怪我も治った! ユウリも怪我してない! 屋敷もちゃんと元に戻ったし、何も問題ないのよ!」
「…………」
ユウリはまた、口ごもる。
まだ、心の底からは納得できていないのかもしれない。
だから、私の気持ちもちゃんと、伝えなければ。
「……あのね、ユウリ。ユウリはお姉ちゃんのことを大切に思ってくれてるけど……それは、私も同じなんだよ?」
「え?」
本気で困惑している、というようなニュアンスが伝わってくる声色に、私は苦笑する。
もしかしなくても、そういう風には考えていなかったのだろう。
「私だって、ユウリのことが大切で、傷ついてほしくなくて……。だから、ユウリが困ってたら助けたいし、悩んでたら相談に乗ってあげたいって思うのよ」
「……どうして?」
本気で不思議そうなユウリの声に、私は自信満々に答えた。
「どうして、って……私が、ユウリのお姉ちゃんだからに決まってるじゃない!!」
「――――」
扉の奥から、息を呑む声が聞こえた。
「ユウリは私の大切な家族なの。弟なの。だからお姉ちゃんは、ユウリのためならだいたいなんでもできるわ! だいたいね!」
私個人の能力は、たかが知れている。
なんでもできるとは口が裂けても言えない。
できないことはできないが、それでもなんとかしようと尽力するだろう。
「お姉ちゃんはかわいい弟を助けるものなの。だから絶対、見捨てたりなんかしないんだから!」
それが結論。変わらない、私の答えだ。
優しいユウリをこのままにはしておけないし、しておくつもりもない。
だから、何としてでも部屋から出てきてもらわなければ。
「……アン姉さんのきもちは、わかったよ。すごく、うれしい」
扉越しのユウリの言葉からは、確かに喜色がにじみ出ていた。
けれどそこには、それだけでない、複雑な感情の色も混じっていて。
「でも、だめなんだ。ぼくは、まりょくがうまくコントロールできない。まりょくが……!」
「――ユウリ様。少しよろしいでしょうか?」
「……フィッチ先生?」
「ええ、そうです」
私の隣で沈黙を保っていたフィッチ先生が、突然ユウリに話しかけた。
「何をするつもりなの?」と目で問いかけるが、「まあ見ててください」と言わんばかりの態度で目を逸らされた。
「つまり、ユウリ様が魔力をコントロールできるようになれば良いのでしょう。なら、私がユウリ様を猛特訓しましょう」
「「え?」」
二人の声が同時に響く。
その提案は私にとっても、寝耳に水だった。
「魔力のコントロールの上手さは生まれ持った素質も影響しますが、その大部分は、訓練すれば鍛えられる部分です。
ユウリ様がしっかりと励めば、どれだけ膨大な魔力を秘めていようとも、魔力の暴走などということは起こらなくなりますよ」
「……ほ、本当に?」
ユウリの声に、今までになかった色が混ざる。
それは紛れもなく、一筋の光明が差した人間の声色だった。
「私はこれでも、魔法学院ではそれなりの成績でしたし、魔力の操作なら問題なく教えられます。あとは、ユウリ様次第です」
「ぼ、ぼくは……」
扉の向こう側で、ユウリの身体が震えているのがわかった。
「…………」
「ユウリ……」
そして、扉が開かれた。
出てきたユウリは真剣な顔で、私とフィッチ先生の顔を見つめて、
「……ぼく、やるよ。にどと、アン姉さんやみんなをきずつけないようにする。それで、こんどはぼくがみんなを守るんだ」
「ええ。ユウリ様なら大丈夫です。きっと、皆さんを護れるくらい強くなれますよ」
「うん!!」
フィッチ先生の言葉に、ユウリは大きく頷いた。
「……アン姉さん。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「いいのよ。大丈夫。大丈夫だからね……」
ぽろぽろと涙をこぼすユウリにつられて、私ももらい泣きしてしまった。
こうして、ユウリの引きこもり事件は収束を迎えたのだった。