DNA
仕事から家に戻りリビングに行くと、妻のミカと娘のアヤがソファで談笑をしていた。
「ただいま」
その言葉に「おかえり」と笑顔で応じてくれたのはミカだけだ。真顔に戻った娘は腰を上げると、するりと俺の横をすり抜けて二階の自室へと向かってしまった。すれ違いざまにかろうじて「おかえり」と聞こえたのが救いだった。
憂鬱な思いでそちらを見やってから妻に視線を向ける。
「なあ。最近アヤのやつ、俺を避けてるような気がするんだけど、なんか聞いてない?」
「さあ。聞いてないけど」
「そうか」
落胆しつつ妻の隣に腰掛けると、
「何か俺、あいつの気に入らないことでも言っちゃったのかな」
ため息をついた俺の横顔を眺めつつ、ミカがあきれたように笑った。
「あのね、あの子ももう中二じゃない。そろそろそんなお年頃でしょ」
「そんなって、どんな?」
「だからほら、女の子は年頃になると男親を避けるようになるってことよ」
「マジか。最近は仲のいい父娘もいるからさ、アヤもきっとそうなると思っていたんだけどな……」
「しょうがないわよ」
「もしかして、お父さん臭い、とか思われてるのかな?」
「でしょうね」
「はぁ……」
俺がぐったりと項垂れると、妻は慰めるように優しい声で話し始める。
「でもそういうのってさ、人としてと言うか、生き物として、正常な反応らしいわよ」
「臭いと思われるのがか?」
「そう。テレビで動物学者が言ってたもん。人ってね、幾つかの遺伝子パターンに分類できるんだって。その遺伝子パターンが近い人同士ほど相手の体臭は臭く、遠い人ほど良く感じるって」
「じゃあ俺とアヤは遺伝子パターンが近いってことか?」
「当然でしょ。親子なんだもん」
「なんでそうなっちゃうかな。家族は距離が近いんだから、良い香りに感じるようにしてくれりゃいいのに」
神様は意地悪だと愚痴をこぼしていると、含み笑いを浮かべたミカが口を開く。
「そうなると、いろいろ問題が起きるからでしょ」
「問題?って、どんな」
「遺伝子の多様性って言葉、知ってる?」
突然妻の口から出た難しい言葉に眉根を寄せてから、
「聞いたことはある、ていどかな」
「例えば、ある動物の集団があったとするでしょ。その動物たちの遺伝子がみんな同じタイプだった場合、環境の変化や伝染病なんかで一気に全滅しちゃうことがあるけど、遺伝子タイプがたくさんあれば、そのどれかが生き残って全滅を免れる可能性が高まるんだって。これが遺伝子の多様性ってこと」
「それは分かったけど、俺が臭いと思われることとどんな関係が?」
「あなた言ったでしょ。いい香りに感じるようにしてくれたらって」
「言ったけど、それが?」
「だから、生き物にとっては遺伝子の多様性が大事なのよ。それを保つためには、遺伝子が近いもの同士の交配を避けて、遠い遺伝子の持ち主と交配するほうがいいの。遺伝子が近い相手を避けるために……」
「そうか。匂いか。近い相手は臭く、遠いほど良く感じる……」
「そう。人間も子供が親のことを臭く感じるのは野生の名残ってことかしらね。ま、人の場合は、近親交配は法的や倫理的にも問題があるけどね」
父親が娘に臭いと思われることはどうしようもないということか。せめて香水でもつけてみようかと思いながら腰を上げ、
「風呂入ってくるわ」
それだけ言い残しリビングを出た。
体調を崩した妻の代わりにアヤを塾まで送ることになった。先に車に乗り込みエンジンをかけて待っていると娘が出てきた。助手席のドアを開け乗り込むなり、「え?」と眉をひそめるのが分かった。
その反応が気にかかるものの、どう話せば良いのか分からず、とりあえず車をスタートさせた。
しばらくすると娘のほうから口を開いた。
「お父さん、香水つけてる?」
横目でちらりとそちらを見てから、
「おう。まあな」
「どうして?急に」
理由を正直に話していいものか迷ったが、二人きりでちゃんと話せることなんてめったにない機会なのだから思い切って打ち明けることにした。
「アヤ。お前最近さ、お父さんのこと避けてるだろ?それ、俺が臭いせいだろうと思って、せめてそれを紛らわせるために……ね」
アヤからは何の応答もない。不安になったので赤信号で止まったのを機に隣を盗み見ると、娘は難しい表情でうつむいていた。気を悪くさせてしまったのかと思い何か取り繕いの言葉を探していると、「ごめんね」と娘がこちらに顔を向けた。
「変に気を使わせちゃってホントごめん。正直に言うけど、お父さんのこと、臭いだなんてぜんぜん思ってないの。逆にすごくいい匂いだって思うくらい。香水つけなくてもね。そのせいかどうかわかんないけど、お父さんのそばにいると、なんだか好きになっちゃいそうで。でも、親子なんだからそういうのはだめかなって思って、意識して近づかないようにしてたの」
早口で言い終えた娘は、今度は恥ずかしそうにうつむいた。
「え?お父さんのこと、臭くないのか?」
「うん」
「いい匂い?」
「うん」
「だったら、好きになるくらいはいいんじゃないか?お父さんもお前のこと大好きだし」
「違うの。私が言う好きってのは、そういう家族間のものじゃなくて、恋愛的な、好き?」
「へ?」
『プッ』
後ろからクラクションを鳴らされ信号が青になっていたことに気づき、慌てて車を走らせた。
恋愛的な好き?確かに親子の間でそれはまずい。娘と仲良くはしたいが、恋愛感情が生まれるようなことは絶対に避けなければならない。これからどうやって付き合っていけばいいのか困惑しつつも、臭いと思われていないし嫌われてもいないと分かり安堵する俺もいた。
塾に着いたのでアヤは「アリガト」と言って車を降りた。ドアを閉めてから振り返り、窓を開けろというジェスチャーをするのでそうしてやると、
「香水、つけないほうがいいよ。気持ち悪いから」
いたずらっぽく笑いながら塾が入っているビルへと姿を消した。
次から次へとアヤと同年代の女の子たちが駆け込んでいく。あの中に、父親のことを臭いと思う子はどれだけいるのだろうか。逆にいい匂いだと思う子は……。
そこでふと妻が口にした話を思い出した。動物学者がテレビで言っていたという話だ。
「遺伝子パターンが近い人同士ほど相手の体臭は臭く、遠い人ほど良く感じる……」
この説に当てはめるなら、俺とアヤの遺伝子が遠いということにはなるはずだ。そうなるとアヤは俺の子ではない可能性が出てくるんじゃないのか?
額に嫌な汗がにじむ。しばらく呆然となったものの、我に返ったのは妻への猜疑心が芽生えたからだ。彼女への気持ちが徐々に離れていくのが自分でも分かる。
世の中では年頃になってもお父さんのことが大好きだと公言する女の子が昔よりも増えているような気もするが、裏を返せば血のつながりのない父娘が増えている、ということにはならないだろうか?それはつまり妻がよその男と……。
DNA鑑定の文字が脳裏をよぎる。娘が自分のことをずっと好きでいてくれるからと言って、父親は単純に喜んではいけないのかもしれない。