華燭の典
婚礼編になります。「臥龍、阿醜を娶る」がどうなったのか。お読み頂ければ幸いです。
翌年の春、隆中の村人たちは、臥龍先生こと、孔明の嫁取りの噂で持ち切りだった。
「――臥龍先生は嫁を選び過ぎて、返って醜女を娶った。いくら頭が良いからと言って、見習うんじゃないよ・・・」
そんな話をよそに、諸葛家では花嫁を迎える支度で大忙しであった。
龐家に嫁いだ姉の崇胤も手伝いに来ており、それを媒酌人である龐徳公が嬉しげに、髭を撫でつつ眺めていた。
息子の嫁の弟である自慢の若者と、友人の愛娘の婚礼である。
隠棲を囲って邸から出ようとしない龐徳公だが、この日だけは特別であった。
「花嫁がお着きになりました」
介添い人が一同に告げる。
村人が花嫁を一目見ようと待っていると、水鏡先生こと司馬徽が福顔をよりにっこりさせて、花嫁を連れて来た。
朱色の花嫁衣装に、赤いベールで覆われていて、噂の顔を見ることが出来ない。
それでも人々は、初めてみる名家の煌びやかな花嫁衣装に、うっとりしていた。
天地と先祖を拝した後、細やかな宴が行われ、一同は戦乱の苦しさを忘れ、祝い酒に酔いしれていた。
岳父黄承彦は泣き崩れ、傍らで息子の傭が涙を堪え、懸命に父親を宥めている。
対する孔明の姉崇胤は、良人に肩を抱かれ嬉し涙を零していた。
その傍らで孔明の友人が数人、杯を重ねて陽気に語り合っている。
時折花嫁の紅いベールが動く。
すると図ったように、新郎が花嫁を見つめて微笑む。
ベールが下がったのは、花嫁が俯いたのだろうか。
顔が覗えないはずなのに、新郎は必須のはずの扇を出す事なく、零れんばかりの笑みを花嫁に向けていた。
客が一人また一人と帰って行き、月英は介添い人に連れられ、臥房へ向かった。
ベールを冠り、紅い婚礼衣装が薄明かりに浮かぶ。
良人となった孔明を待つ時間が、果てしなく長く感じられた。
黄家では穏やかに接してくれた孔明だが、結婚したとなると違うかもしれない。
孔明様の元へ嫁ぐ事が決まったと、父から訊かされたあの夜に交わした口付け以来、孔明は月英の唇に触れなかった。
自分から強請るのは憚れるので瞳で訴えると、恥ずかしそうなそれでいて困ったような貌をされて、それでも家人の隙を突いて口付けくれたのは、額だけだったのだ。
『矢張り、私の事は・・・。想われていなかったのかも、しれない・・・』
考えを巡らす月英の前の扉が開いて、彼の人が、姿を現した。
「随分待たせてしまいましたね・・・お客様をお泊めする場所がないので、遠い方は義父上が皆、引き受けて下さいました。明日、お礼の文を書かなくてはね・・・」
少し大きくなった牀榻の上で、二人は向い会って座った。
「――よく来てくれました」
「不束者ですが、宜しくお願いします」
「こちらこそ」
「孔明様。本当に私で宜しいのですか?」
幾分震えた声音に、優しい微笑みが浮かぶ。
「勿論、貴女だから妻に迎えたのですよ。――顔を見せて頂けますか?」
ベールを除けると、驚きの声をあげた。
「――月英、殿?」
黄家で逢っていた彼女ではない。
月明かりに浮かび上がったのは、涙の滲む大きく潤んだ瞳。
品の良い優しい唇。柔らかさを保った美しい鼻筋。
牡丹のような艶やかさはないが、それは月夜に浮かぶ白梅と重なる清楚さだ。
その亜麻色の髪が月明かりに照らしだされ、金色に輝いている。
この乱世、名家で美人ともなれば、降って沸く程の求婚者だけでなく、どんな危ない目に会うか分からない。
財産ある者は奪われ、美しい女子供は次々と攫われていった。
詳しくは聞かされていないが、月英の母と姉もその美しさが元で、亡くなったようなものらしい。
見識高い黄承彦は噂だけでなく、日頃から変装するように、娘に命じていたのである。
「用心の為と、父から変装するように云われて、しておりましたけれど。顔だけ、家柄だけ目当ての求婚者には、嫁ぎたくなかったものですから」
「私、貴方を騙した事になるのですね」
美しい顔に暗い影が過る。
振り解こうとする新妻を、強く抱きしめた。
穏やかな漆黒に見つめられ、仄かに頬を上気させ、俯き加減になる。
孔明の白い細い指が、すっと亜麻色の髪に触れた。
「良かった・・・」
新郎の呟きに、新妻の顔が上がる。
「他の人に見染められていたら、こうして貴女を迎える事が、出来なかったのですから」
「孔明様・・・?」
「初めてお逢いした時、この瞳に吸い込まれ、髪に触れたいと、心を奪われました」
何時もより低めの、艶やかな声・・・。
反射的に月英の頬に朱が走る。
瞳を見開く月英の唇に、孔明の唇が触れた。
「この唇にまた触れたいと、何度惑わされた事か・・・。此処にまた触れると箍が外れそうで、怖くて出来なかったのです・・・」
月英の心を見透かしたように微笑む。
「孔明様が・・・私の・・・?」
「矢張り、貴女は素晴らしい方だ・・・。どんな姿でも、貴女は貴女ですよ」
細くしなやかな孔明の指が、月英の朱い唇を這う。
新妻を見つめる視線が艶やかさを帯び、月英はその瞳から逃げるように眼を閉じた。
この後、18Rにて「初夜編」いく予定です。