亜麻色の髪の乙女
出逢った二人がどんな会話をしたのか。どうぞ。
「――臥龍、先生?」
鈴を転がしたような優しい声に、我に返る。
黄髪醜女――顔は隠れて良く見えないが、髪の色から察すると、恐らく噂の黄大人の娘だろう。
「・・・失礼しました。如何やら、帰りの場所を間違えたようです」
「済みません。入組んでいますから・・・。ご案内いします」
「恐れ入ります・・・。処で先程の音は、何だったのですか?」
「絡繰りに弟が悪戯をして、棚の物を全部落としてしまったのです」
「それはいけません。もし宜しければ拾うのを、手伝わせて頂けませんか。他の物を是非拝見させて頂きたいと、思っておりました」
爽やかな笑みを浮かべると、亜麻色の髪と同じ色の美しい眉尻が、僅かに下がる。
「――散らかっておりますけれど、宜しければどうぞ」
案の定、沢山の絡繰りが転がっており、そのどれもが見た事もない物ばかりだ。
娘は腰を下ろしそれらを拾い始め、隣で孔明も手伝う。
「凄いですね・・・。全部貴女がお作りになったのですか?」
「ええ。夢見がちなものですから、色々と考えてしまって・・・」
絡繰りを手にしては、あらゆる角度で見比べ、その都度娘に尋ねた。
孔明のとても畑仕事をしているとは思えない、細く長い指が絡繰りを持ち、一つ一つ確認している眼が、子供のように輝いている。
拾った絡繰りの高い所のものを、孔明が棚に戻し終えると、部屋の隅にある一際目立つ、虎の置物が目に入った。
荒々しさは残るが、如何にも作られた風の木牛と違い、置物としても十分通用する。
「此れも何か仕掛けがあるのですか」
ひんやりとした木の感触が手に伝わる。
「あ、それは・・・っ」
娘の制止も届かず、鋭い咆哮と共に木彫りの虎が飛びかかった。
いや、飛び掛る直前ぴたりと動かなくなってしまった。
「お怪我はありませんか?」
思わず尻もちをついた孔明の傍へ駆け寄る。
「いえ、驚いただけです・・・。しかし、凄い仕掛けですね」
だが当人は大して驚きもせず、立ち上がり裾を払っていたが、眼だけは輝いている。
「済みません。番犬代わりにと思って作ったのですが、余りに評判が悪くて、ここの住人になって貰っているのです」
「番犬ですか、面白い。触ると吼え掛るのですね。いや先程は」
注意深く窺いつつ、虎の木彫りを観察する。
置物の台としては不釣り合いな台の先を踏むと、再び咆哮し噛み付きかかった。
「成程、此処を踏むと虎が動くのですね」
腕を組み又片腕を顎に持っていきながら、熱心に観ている。
その視線が美しく、袖の奥から娘はじっと見とれていた。
「こんなに精巧に出来ているのに、此処に置いておかれるのは勿体無い。いっその事、毛皮を被せて御庭に置いては如何です?」
琥珀色の瞳が瞬いて、大きく見開かれた。
「あの、臥龍先生。それでしたらお客様がもっと怖がって、来られなくなると思うのですが・・・?」
その場面を想像してみる。確かにうっかり台を踏んでしまったら、怖い事になるだろう。
「そう、ですね・・・。この策は失敗したようです」
「――臥龍先生でも、失敗される事があるのですか?」
遠慮がちに訊ねてはいるが、その瞳は好奇心に満ちている。
「私とて人間です。しかも雛っ子ですから、失敗もしますよ。何せ、寝ぼすけ龍ですから・・・」
片目を瞑ってみせると、娘はふわりと笑みを零した。
「臥龍先生って、怖い方と思っておりましたが、面白い処もおありになりますのね」
「私を怖いと云ったのは、貴女が初めてですよ?大方は私が何を考えているのか解らないと、申しておりますから」
「それは私も云われております・・・」
「それにしても・・・。独りでに開く門といい、お茶を運ぶ人形に、動く虎。素晴らしい物を作られるのですね」
俯き加減を励ますかのように、話題を微妙にすり変える。が、
「好きにさせてくれておりますが、女には必要ないと父は嘆いておりますけれど・・・」
寂しげな微笑みが浮かぶ。娘に甘い父親とは云え、世間体からずれている娘を持つと、気が気ではないのだろう・・・。
「そうなのですか?楽しそうですが・・・。あちらの箪笥にも入っているのですか」
「あれは殆ど図面です。念の為に保存しているのです。後、細かい物が少し・・・」
「見せて頂いても?」
「どうぞ」
一番上の引き出しを開けると、そこには図面ではなく、白い羽扇が入っていた。
手に取り、観察する。
「それは見ての通りの物ですわ。管仲の話をした時、小さかった弟から作ってくれと、頼まれましたの」
「管仲、ですか・・・」
春秋時代、斉の国の名宰相である。
管仲が好んで使ったとされる事実は不確かだが、手には何時も羽扇を持っていたとか、いなかったとか・・・。
「臥龍先生の目指す方の、お一人でしたわね。楽毅・晏嬰も、同郷の―先達ですね」
「ご存じでしたか・・・誰にも信じて貰えませんけれどね」
はにかむように微笑む様が少し幼く見え、表情は分かり難い人らしいが、どうなのだろうか。
「ホウ小父さまも水鏡先生も、そんな事は仰っていませんでしたわ」
「師匠が?何と」
「微笑まれて、良、良と」
小さく微笑んだ孔明に釣られ、娘も微笑む。
何処からともなく、ドラを叩く音が聞こえてきた。
「まあ、もうそんな時間?」
「え?」
「今は、乙夜(十時)を知らせる音ですわ」
「それは失礼しました。夜遅くに若いお嬢さんと二人で話すとは・・・。戻る事に致しましょう。お休みなさい」
「お休みなさいませ。臥龍先生」
一礼をし数歩進んだ処で、足が止まる。
「一つだけ、お聞きしても宜しいでしょうか?貴女のお名前を・・・」
琥珀色の瞳が、少し大きくなった。
「――月英と、申します」
「月英、殿。またお逢いしたいですね」
零れるような笑みを浮かべ、何処となく後ろ髪を引かれる思いを残して、孔明は部屋を去った。
二・三日経ったある日。
朝食を済ませた後、何時ものように黄承彦の娘―月英は、弟の勉強を看ていた。
父は他家に行き、客人の孔明は書庫で読書を始めている。
「姉上、諸葛様は不思議な方ですね・・・」
「どうしたの?」
「隆中で畑を耕していると窺ったのですが、それにしては洗練されているなと」
「知らないの?徐州瑯ヤの諸葛家と云えば、司隷校尉(都の警察庁長官のようなもの)までされた方がいらっしゃる程の名門よ」
「諸葛様―臥龍先生はホウ小父さまのお邸や水鏡先生の学問所にも、お出でになっていらっしゃるわ」
「諸葛家で司隷校尉と云えば、あの諸葛豊様ですよね。そうですか・・・あの方が臥龍先生ですか」
「お逢いしてみて、取りつくしまもない方だと思っていたら、年下の僕にも丁寧に相手をして下さっていますし・・・」
「そうね・・・。きっとお付き合いが、苦手な方なのでしょう」
書庫にいるはずの孔明が、所用で自室に戻って来る途中で、二人の会話を聞くとはなしに聞いていることに、姉弟は気づいていない。
「諸葛様が義兄上になって下さったら、いいのになあ」
「傭・・・?」
「姉上を嫁にすれば、黄家の名前が使えるではありませんか」
「――諸葛様には黄家の名前なんて、必要ありませんよ」
「そうなのですか」
「あの方は、臥龍ですもの。並みの人が束になって掛かっても太刀打ち出来ない程の、才能がおありです。今は市井に隠れていらっしゃいますが、将来必ず世に出る御方・・・」
「それには諸葛家のお名前だけでも十分です。それにあの方は、恐らくご領主様の所には、士官されないでしょう」
「如何してですか?かなりの待遇が見込まれるでしょうに・・・」
「それは宿題にしましょう。自分でお考えなさい」
「姉上・・・?」
「なあに?」
「ずいぶん諸葛様を買っていますねぇ?」
「え?そ、そんな事ないわよっ」
「姉上・・・。赤くなっていますよ」
「もう、姉を揶揄のじゃありません!」
姉弟の会話を聞いて、孔明は心臓が止まりそうな程驚いた。
誰にも告げたことのない本心を、逢ってまだ数日の女性が、見抜いてしまうとは・・・。
優しい微笑みを残し、そっと書庫へ戻った。
月英殿か・・・。
大人しい方だと思ったが、意外と朗らかな気がするな・・・。
明朗闊達で、好奇心旺盛で・・・。
絡繰りの部屋と、弟の勉強をみている月英が、交互に浮かんでくる。
緊張していたのか、二人の時はぎこちなさが覗えたが、弟といた今は明るい声だった。
扉で見えなかったが、どんな表情をしていたのだろう・・・。
一瞬だけ垣間見た、ふわりと零れたあの微笑み・・・。
一昨晩初めて逢ったばかりなのに、何故か昔から知っているような、不思議な感覚に捕らわれていた。
孔明は珍しく本を手に持ったまま窓枠にゆったりと腰掛け、外をぼんやり眺めていて、傭が来たのも気づかずにいた。
「ここの分は、もうお読みになっているのですか」
「・・・えっ?ええ」
「早いのですねぇ」
突然の声に、姿勢を正し此方を向いた。
「本を読むのが好きですから。根を詰めすぎると、良く父に叱られておりました・・・」
「諸葛様、散歩に行きませんか?」
人懐っこい傭が、孔明を誘う。
柔らかな午後の陽ざしを浴びて、孔明は一つ伸びをした。
「諸葛様には、どなたか決まった方が、いらっしゃるのですか?」
「いえ。おりませんよ」
「名門の出でその容姿ですと、沢山縁談が来ますでしょうに」
「名門と云っても、今は清貧を囲っていますから、田畑を耕すだけで精一杯。とても嫁を迎えることなど、出来ません」
「学問所も去年辞めてしまい、巷では変人扱いされているようですし・・・」
袂から愛用の扇を取り出し、口元を隠す。
弟の均を学問所へ行かせる為に自分は辞めたのだが、水鏡先生のいない学問所で繰り広げられる、学問の為の高論には、辟易していたのも事実だった。
今でも時折恩師である司馬徽の草庵には、足を向けている。
それでも村の者たちと違って事情を知らない街の連中は、偏屈な若者と云う噂を流した。
「はあ・・・(やっぱり無理なのかなあ)」
姉思いの弟は、背の高い若者を複雑な表情で見遣った。
※ ※ ※
今日は先程迄良い天気だったのに、強い風と共に空が見る間に暗くなってきた。
「嫌な空模様だわ・・・」
雨の降りだす前にと、月英は書物庫へと足早に向かった。
先程みえた客人から書簡を頼まれたのだ。
本来なら家人がする処なのだが、本の場所が分からないので、月英が行く事になったのだった。
息子の傭は遊びに出掛けて、邸にはいない。
「失礼します、臥龍先生・・・。あの、水鏡先生がお見えになっておられます」
「師匠が?」
「はい。書物を持ってお帰りになられるそうです」
一つを手に取り、上の段を見上げる。
その目線の先は、月英が踏み台に乗って、やっと取れるかどうかの高さだった。
「ああ、取りましょう。――これですか」
「済みません。お願いします」
背の高い孔明が難なく一番上の木簡を手にしたその時、一瞬書庫内が明るくなったと同時に、雷が鳴り響いた。
木簡が音を立てて落ち、娘は耳を塞ぐ。
「きゃあぁっ!」
「如何しました?」
「雷が・・・いやあ!」
一際大きく轟き、本まで揺れているようだ。
娘の行動に異常を感じ側へ寄ると、孔明の胸に顔を埋め震えた。
音も光も一層激しさを増して、雨脚まで強くなったようだ。
初めは戸惑いを隠せなかった孔明も、小刻みに揺れる背中をそっと抱きしめた。
仄かに甘い香りが孔明の鼻を擽ると、胸を掴まれた様な痛みが起きた。
何故、彼女は私の中に納まっているのだろう?
何故、女性が腕の中にいるのに、嫌悪を示さないのだろう?
いや、この気持ちは・・・。
自分の頭に過ったものを、一心に考ていた。
どれ位たっただろうか・・・。
何時の間にか雷も止み、嵐も静まりつつあった。
「――落ち着かれましたか?」
そうする心算はなかったのだが、背の高い孔明なので、耳元で囁いた格好になる。
「え?あ、あの。申し訳ありません・・・」
頬を赤く染め、消え入るような声と共に、娘は書庫を抜け出した。
孔明に微かな香油の香りを移して・・・。
孔明が木簡を持って客間を訪れた時、師匠は一人お茶を啜っていた。
それを機に孔明は恩師のお供をして、黄家を辞したのだった。
折角出逢った二人でしたが、まだまだ先は長いようです。