第三十六話 露払い
コツ、コツ、と、白いニーハイソックスに包まれた小さな足が廊下を歩く。
さらり、さらり、と、淡い金色のツインテールが風になびく。
すれ違いざまの生徒たちは、誰もが顔を振り向かせた。
絵本から飛び出してきたお姫様のような、その小さく愛らしい美少女に、何より、満月を閉じ込めた光り輝く双眸に、皆釘付けだ。
さらに、細い腰には黄金色の鍔が際立つ白い聖剣。
「勇者の娘って…………やっぱオーラが違うな」
「でもってめちゃくちゃ可愛い………」
固唾を飲んで圧倒される者もいれば、頬を赤く染める男子生徒も少なくはない。
「あれ………何………?」
周囲は目線を少し横に動かすと、テンションがガタ落ちした。
お嬢様以上に甚だしい存在感を放つのは、そのちょっと前を歩く小さなチンピラだった。
床を引きずるほどだぶだぶの黒スーツを着て、目にはどでかいサングラス、口にはタバコじみた棒突きキャンディーをくちゃくちゃ動かしながら咥えている。
極めつけは、腰からブンブンと振り回す尻尾。
動物じみた威嚇行為と、魚のコブダイみたいにしゃくれた口で、サングラス越しの目は男女問わず周囲の生徒らを舐め回すように睨んでいた。
「おーおークソども。てめーらうちのお嬢に手ぇ出したら揚げたての餃子口にぶち込んだまま東京湾に沈めんぜいゴラァ!」
どこぞで覚えた江戸弁混じりの台詞をちょっとアレンジ風に吐き散らすチンピラ。だが小さな体躯からは想像も絶するほどドスの効いた凄みのある罵声が腹の底から込み上げている。
「下民の分際で見てんじゃねーぜコラ!! さっさと道開けろぉこのすっとこどっこいが!!」
しゃくれた顎をさらに突き出しては周囲を恐嚇する。
色んな意味でドン引いているのか、生徒らはおぼつかない足取りで後に引いている。
「あ、あのぅ………アイスケくん………」
お嬢様、ひまりがきゅぅ、とスカートの裾を握りながら、遠慮がちに声をかけた。
「おう、お嬢? 何でい?」
「その、お嬢っていうの………やめてください」
「お嬢はお嬢ですぜい」
「は、恥ずかしいですぅ………どうしちゃったんですかアイスケくん!?」
「あっしはお嬢を守るためなら、ギネス目指してしゃくれも極めますぜい」
「そんなギネスあるんですか!?」
「しゃくれこそ男の本道。男のしゃくれは色気の源。お嬢、しゃくれまくったこの罪な男に惚れねーでくだせぇ」
「あ、アイスケくぅぅぅぅん!! 元に戻ってぇぇぇぇっ!!」
優しいお母さんの裏の顔を見てしまった子供のように、ひまりは切なげに泣く。
それでもチンピラ────アイスケは、身なりも口調も変えなかった。
「姐さんと約束したんですぜい………お嬢につく悪い虫はあっしが潰すと」
「あねさんって誰ですぅ!?」
慣れないツッコみをせざるを得ない状況に、ひまりはこの上ない困り顔だった。
似合わない黒スーツに、サングラスに、タバコじみたキャンディー、無駄にしゃくれた顎。そして、古い任侠映画の台詞を真似たような、江戸弁。
ひまりの知っているアイスケのキャラとは、百八十度ズレている。
こんなに豹変したのも、凛と校内で話したことがきっかけだった。煌家に仕えるボディガードの逆巻から、衣装の入った紙袋をもらったあの瞬間から、恐ろしくもアイスケに変なスイッチが入ったようだ。
「おはようマイプリンセス!」
さらにはギザな台詞が上から飛んできたかと思うと───風が吹いて、ダンスリボンみたいに高速回転しながらネコミミ少女が降ってきた。
クラスメイトの、風斬 真琴だ。
黒いネコミミフードの中の顔はひまりと並んで絵になるほどの美少女だが…………。
「ん〜〜〜! 今日も可愛いよボクのプリンセス〜〜〜!!」
「ひゃっ!」
紅潮した頬を緩々にさせ、真琴はまっしぐらにひまりに抱きつき、愛玩動物を愛でるように頬ずりした。
ひまりは「ふぇぇ」と手足をバタつかせているが、それを跳ね除ける力はない。
「まっ、真琴さん! 近いのです!」
「ん〜、何だかよそよそしい呼び方だなぁ。遠慮しないで、ダーリンって呼んでおくれよっ」
「呼びまひぇん!」
「何だい、ハニー?」
「呼んでまひぇん!」
とんとん拍子に進む会話と、吐息がかかる距離で近づく顔に顔が押し寄せられ、ひまりは舌が回らずとも幼児並みの抵抗をする。
「けしからん!」やら「いいぞもっとやれ!」だのと周囲からの野太い歓声。
だが、ただ一人許さぬ少年が長い尾を武器に真琴に肉薄した。
ダァン!! と悪魔の尻尾ビンタが爆音を鳴らし、コンクリートを砕く。
しかし獲物のネコミミは、お得意の風速で回避したうえに風を逆立て、廊下の天井に足をはりつけている。空間移動とはまた一味違った、癖の強い技。
真琴は逆さまになって、チンピラ姿のアイスケを見てはぷっ、と吹き出した。
「朝から面白い寸劇見せてくれるねぇアイスケ。でもちょっと品には欠けるんじゃないかな」
「うっせーっ! お前という害虫の対策だよ!!」
「あれれ? さっきの似合わない江戸弁はどこにいったんだい? キミの演技力には買っていたけど、感情に任せて芝居を忘れるとは、役者の道は程遠いね」
「うっ! ぐぐぐ………」
アイスケは歯を食いしばって、コウモリみたいに天井をぶら下がる真琴を睨む。
確かに、芝居は怒りと一緒にぶっ飛んだ。
だが、今、アイスケに任じられた役目は、ひまりの露払いだ。
役者志望のプライドを守ってやる余裕もない。
今は───この爽やかセクハラ野郎に制裁を加える時だ!
「にっしゃぁ────────っ!!」
コンクリートに尾を弾いて跳ね上がり、体を丸めて回旋させる。
ギラリと光った尻尾の先端を湾曲に突き上げて、その忌々しいネコミミに目掛けて振り落とした。
にや、とネコミミ少女はニヒルに笑う。
対峙した悪魔に怯むどころか、逆さまのまま笑顔で迎え、ピン、と人差し指を尻尾のゼロ距離で弾いた。
刹那、指から豪風の重砲が爆裂した。
割れた窓から、廊下には留めきれない風が巨獣の鼻息の如く吹き出る。
鼓膜を殴る轟音と強風に、周囲は頭を庇うように身構えた。
ひまりは片目を瞑りながら、アイスケの名を呼ぶ。その声も、深い風に掻き消された。
無彩色の重砲が廊下の突き当たりまで激突した時、その片隅にアイスケは大の字になって伸びていた。
唯一の武器の尻尾も、千切れたゴムみたいに縮こまっている。
「キミは騎士の風上にも置けないよ」
ふっ、と地に舞い降りた真琴は笑みを漏らした。
「さ、プリンセス。騎士なら僕の方が適役さ。一緒に………」
「アイスケくん! 大丈夫ですか!?」
手を差し伸べた真琴に背を向け、ひまりは廊下の片隅のアイスケの方へと駆けた。
「アイスケくん! アイスケくん!」
「ぅ………あ、揚げ餃子………食べたい…………」
「分かりました! 近くの中華屋さんのお店の権利を買い取ってまいります!」
「あ、やっぱりいい………」
サングラスも吹っ飛んで、電池の切れたロボット同然にへたり込むアイスケに、優しく肩に手を添えるひまり。
そんな二人を、真琴はつまらなそうに眺めていた。
教頭の足音と怒声が飛んでくる。
その聞き慣れた声も遠ざかるように視界もぼやけ、アイスケはかくり、と頭が垂れた。