第二十三話 風の加護
「はぁ、はぁ………」
赭色の胸部から、鮮血が噴いた。
「はぁ、はぁ………」
長い舌を出したまま、口から血を吐いた。
「はぁ、はぁ………」
窪んだ瞼が、焦点の合わぬ眼球にゆっくりと覆い被さった。
「はぁ………」
尻尾の灯火が、ふっ、と消散して、
ファイアドレイクは、初めて、死んだ。
「……………へ?」
ひまりは首を捻る。
ファイアドレイクは、死んだ。
本体の命の灯火は、消えた。
ならば、この一周して囲むトカゲたちは何なのだ?
「なん、で………!」
シャシャ! と一匹が歯を剥いて、右腕に食いかかる。息も忘れて身を捩ると、カラン! とクラウ・ソラスが掌から転げ落ちる。
「!」
ぐぁ、ぐぁ、とまるで嘲笑うような醜い鳴き声が耳に走った。
渡り廊下のど真ん中、ちょうどユメカの真後ろに、命の灯火を持ったファイアドレイクが口を開けていたのだ。
「本体は………二匹!?」
赭色の悪魔は、バルーンの如く両頬を膨らます。
分身を生み出す、黒炎発射の合図。
しかもそのゼロ距離に、ユメカが横たわっている。
「お姉さん!!」
ゴッ! と着火音が恐怖を入り混ぜて耳をつんざく。
ビュッ! と風が鳴く。
「ひゃっ?」
ひまりは、一瞬にして疾走する視界と、飛び上がる体に、思考を置いてきぼりにされた。
黒い海が、見えている。
正確に言えば、見下げている。
校舎の屋上の前を、横切っている。
ここは、地面から二十メートルも離れた、空中だったのだ。
「ふぇ? ぇ?」
ひまりは、今日で二回目にお姫様抱っこされていた。
細く柔らかい腕。黒いネコミミパーカー。
フードの中にもギュッと魅力を詰め込んだ美少女が、爽快な笑みで敵を見下げ、ひまりを抱き上げている。
(風の………魔法?)
この少女が持ち上げたというより、風がひまりを掻っ攫って少女に預けた。
現に少女は今、服がはためくほどの風圧を利用して浮遊している。
ひまりは悠々と思考が追いつくうちに、ハッと渇いた口から息を呑んだ。
「おっ、お姉さんが! おっ、女の子が! 下に!」
「あー、大丈夫。さっき適当に転がしといたから。ま、あの大食い悪魔はこの程度でくたばるほどヤワじゃないよ」
少女は下を見たまま、軽い口調で微笑を飛ばした。
(この子…………知ってるの?)
正体不明の少女を前に、ひまりは固唾を飲んだ。
どこからともなく湧き出る漠然とした不安が、胸に張り詰める。
そんな時だった。
「ひまりちゃん!!」
「あ……アイスケくん!!」
ずっと心で引っかかっていた少年が、下から叫び声を上げて現れた。
黒炎は消えた代償に、中庭と渡り廊下を隙間なく埋め尽くすほどのファイアドレイクの大群が溢れかえっていた。
アイスケは、その横合いの校舎の入り口であたふたとしながらも、ひまりを見上げている。
「真琴! お前っ………」
「キミは邪魔。最底辺は大人しくお姉ちゃんとおねんねしてなよ」
「何だとコラァ!! ってうぉっ!」
少女が指を振るうと、アイスケは向かい風に叩きつけられ、校舎の中へと飲み込まれた。
「さっ、そろそろ遊びも終わらせようか。ボクの貴重な昼休みを奪った罪は重いよ?」
そう大きな瞳を切っ先の如くギラつかせて、少女はひまりを抱いたまま、宙に踊った。
風車如く軽やかに体を回転させ、波を通すように滑らかに脚をくねらせ、片方の掌を垂直に下ろした。
「風斬の舞!!」
そう唱えた直後、掌から放たれた音速を超える烈風が敵の陣を殴りつけた。
(かざ、きり………風斬一族!?)
吹き荒れる轟音の中、ひまりは少女の腕の中で慄いた。
烈風が生んだ無数の刃が、敵の群れを微塵切りして肉片を躍らせる。
(昔に、脅威的な魔法で犯罪に身を堕とした………天性血統、危険種の一種!!)
少女のかざす凶暴な魔法と、殺意と快楽の混じった狂気的な笑みに、ひまりの肌が粟立つ。
(これは………風を繰り出しているんじゃない………風と一体化している………この子は、風の加護を受けている………)
少女は、風と共に踊っていた。
風に撫でられ、風に抱かれて、風に守られている。
それは、単に魔力から練り出したチカラではない。
生まれながら、チカラと魔力が結び合っている。
神に選ばれし希少なチカラが身に宿っている。
それが、天性血統、加護というものだ。
(ひまりの光の加護はほんのちっぽけなのに…………この子は、まるで全身に纏っている………)
ファイアドレイクは、本体の心臓も、分身の尻尾も原形を留めない塵となって、血の海に落ちた。
掌からの風圧も弱まり、地面に風を叩きつけながら、二人の少女も緩やかに落下する。
【報告。学園内の魔獣発生率をゼロまで制圧成功。瘴気周波数危険レベル四から通常へ変更。繰り返し報告──】
全校舎のスピーカーから、労いの気持ちなど欠片もない、無機質な声が響き渡った。