起きたら見知らぬ場所だなんて、お酒も呑んでないというのに冗談でしょう?
懐かしい、夢を見た。
祖母が亡くなる少し前、千年祭の時の事。
姉が王都を出ていった日の事。本当は門のあたりまで見送りに行きたかったのだが、姉にそれはいいと断られ、ならばせめてと木に登り、少しでも長く姉の姿をその目に焼き付けておこうと思っていた――その時の夢を見た。
姉の姿が見えなくなるまで、どころか見えなくなってもしばらく木の上に――どれくらいそうしていたのだろうか。
結構長い時間いたような気もするが、実際はそうじゃなかったのかもしれない。ただ、少し上の方に登りすぎていざ下りようとした時に足を滑らせ……落下した。木の下にあったベンチに向かって真っすぐに、勢いよく。
イリスの姿は木の上の方だったし、そうなるとそこに誰もいないと思っていたのだろう。そのベンチには人が座っていた。その人に向かって落下して――彼の膝の上に座るような形で落ち、挙句片足は彼の頭に乗っていた。
あっ落ちる! と思ったイリスは直後に目を瞑ってしまったためすぐにその状況には気付けなかったし、同じく唐突に現れた少女に足蹴にされつつ座られるという状態になっている彼も最初は何が起きたのか理解していないようだった。
思った程落下の衝撃がこなかった事に恐る恐る目を開けるイリスと、まだ何が起きたのか把握していない彼のきょとんとした表情と。お互い、ややしばらく呆然と見ていたような気がする。先に我に返ったのはどちらだったか。事態を把握してごめんなさいごめんなさいと必死に謝るイリスに、彼の方もようやく何が起きたのか理解したのだろう。謝罪はいいので早くおりて下さい、パンツ見えてますとこれまた向こうも必死だった。
その後は何故か成り行きで、イリスは彼の隣に座り何故か彼の話を聞いていたように思う。
金髪碧眼の、イリスの姉よりは年下、しかしイリスよりは確実に年が上であろう少年は、白い騎士の制服を着ていた。着崩すわけでもなくぴしっと制服に身を包んだ少年の所作はとても綺麗だった。親の教育、というか言われるまでもなく上流階級の出なんだろうなとイリスが思う程である。整った顔立ちとやや憂いを含んだその表情のせいか、ただベンチに腰をかけているだけだというのにやたらと絵になる。通りすがりの画家がいれば間違いなく彼の姿をカンバスに収めたに違いない。
そんな彼は今にも世界が終わるのだと言わんばかりに深刻な表情で言うのだ。
周囲の期待が重過ぎる、と。
何やら色々話してはいたが、イリスの頭で要約するとつまりはそういう事だった。
家の事とか騎士団の事とか悩み事はそこそこあったようだが、家を継ぐべくして負わされた重圧と、騎士団の周囲の人間からの自分に向けられる期待と。
それら全てが重いのだと。自分はそこまで優秀な人間ではないのだと。今はまだしもいずれそれらの期待に応えられなくなるだろう、その時の事を考えると――とても恐ろしいのだ、と。
この時のイリス、11歳。考えるよりも先に行動に移る事の方が多かった彼女は、彼の話を聞いてはいたが正直あまり理解はしていなかった。言わんとしている事はわからないでもないが、彼が何故ここまで思い悩んでいるのかが理解できない、というべきか。
父が酒を飲みたまに何やら愚痴めいた言葉を吐き出す事はあった。彼の言葉もそういう類のものなのだろう、とは思うのだが、何故だかイリスには愚痴というよりは懺悔に聞こえた。素直に教会行った方がいいんじゃないかな、とは流石に言えなかったが。
「しゃこうじれーを真に受けすぎじゃないかな」
「っえ!?」
「お兄さんが頑張ってるのは多分周囲の人もわかってるよ」
「それなら、何故……」
「頑張ってる人に程々にしとけって言ったら水差すみたいだし、それなら普通にがんばれーって応援すると思うの」
虚を突かれたような表情を浮かべる少年に、考えつつも言葉を紡ぐ。
「だからね、その言葉自体に大した意味はないと思うの。でも他にかける言葉がみつからないからそれを言ってるだけだよ、きっと。
おはようとかおやすみの挨拶と同じようなものだよ」
「あぁ……確かにおやすみなさい、良い夢を、なんて言われてもそもそも夢なんて見ようと思って自由自在に見れるものでは……」
どこか納得したように呟く少年のその言葉に、物凄く突っ込みを入れたかった。一体どういう育ち方をすれば一々人様の言葉を全力で受け止めるような存在になるのか。冗談一つも気軽に言えやしない。生真面目の一言で済ませてはいけないタイプなのか、この人は。
「あとさ、騎士だからそりゃそれなりにそこそこ責任とか取らなきゃいけない事とかあるんだろうけどさ、だから余計にそんな風に悩んでるのかもしれないけどさ。
…………別に、世界が滅ぶ直前で魔王退治に出された勇者じゃないんだから、そんな何もかも背負う勢いでいる必要なんてどこにもないと思う……よ? お兄さんがいなかったら騎士団が成り立たないってわけでもないだろうし、むしろ一人いなくなった時点で成り立たない組織ならそれ最初から成り立ってないと思う」
「しかし……私がいなければ騎士団はともかく家の方は」
「その程度で落ちぶれるならそれも所詮その程度って事だよ。何でもそんな風に捉えてるのって、疲れると思うんだけどお兄さんよく今までその状態でやってこれたよね。そこは素直に凄いと思う。
でも、お兄さんみたいな人って人をからかうのが趣味、みたいな人からするといいカモっていうか餌食だから気を付けた方がいいと思うよ」
うちのばあちゃんみたいな人とかには特にな。――とまでは流石に言えなかった。
言えば何だかとても怖がらせてしまいそうなので。
ばあちゃん、そうだ。姉が王都を出て行った事を知らせるべきなのだろう。きっと。直接伝えるのは難しいかもしれないが、それならば祖父から伝えてもらう事だってできるはずだ。
最近すっかり寝たきり状態になってしまっている祖母の事を思い出し、イリスはベンチから勢いよく立ち上がる。
「私もう行かなきゃ! じゃーね、お兄さん」
「えっ!? あ、あの、その人をからかうのが趣味っていうのに思いっきり心当たりがあるんですが一体どうすれば……」
呼び止めようとしたのか伸ばされた腕は、しかしイリスに触れる事はなく。既に走り出していたイリスは足を止める事なく振り返り、
「時と場合によるけど人の話全部全力で受け止めるのやめればいいんじゃないかなー」
とだけこたえる。
しかし既に餌食になっていたのか。ある意味想像通りすぎてやっぱりか、なんて小さく呟いて笑いそうになる。きっとあの人の祖母もうちの祖母と同じようなお茶目で済ませる事ができない人なのかもしれない。そんな風に考えて。
その後は確か、祖母の家に向かう途中で甘い香りが漂ってきて、ワッフルが焼けたばかりのいい匂いがして。
……いや、甘い匂いはしているが、これはワッフルの匂いなんかじゃなくて。そんな香ばしい匂いじゃない。どちらかというと果実の匂いのようなこの香りは――
「ぶえっくしょーい!!」
漂ってきた匂いが一体何の匂いなのか、よくわからずもう少し匂いがする方へ行ってみようと身体を動かした直後、鼻のあたりがむずむずしてイリスは盛大なくしゃみをしていた。その音にびっくりして跳ね起きる。
「……夢?」
先程まで見ていた光景は、どうやら紛れもなく夢だったようだ。上半身を起こした状態のまま、何となく周囲を見回してみる。
「……どこだここ」
室内である事は確かだが、全く見覚えのない部屋。まだ鼻のあたりがむずむずするせいか、鼻をすすり、指で鼻をこする。どうしてこんなにむずむずしているのだろうか。鼻の中に何か入ったというわけでもなさそうだが……
「……花?」
そこで気付く。イリスがいる周囲に白い花がびっしりと敷き詰められている事を。
先程嗅いだ匂いはどうやらこの花の香りらしかった。
「…………縁起でもない」
花が、ではない。敷き詰めるようにして、ではなく実際敷き詰められているこの場所が、だ。
立ち上がり、花が敷き詰められているそこから出る。
つい今しがたイリスが寝ていたそれは、誰がどう見ても棺桶としか言いようのない物だった……




