何だか早死にしそうで心配です
――何がなんだかわけがわからない。
何度瞬きを繰り返しても、目の前の光景が変わるわけもなく。
「……え……?」
今更のように出た声は、何だかやけにかすれていた。
目の前には天井が映っている。その少し手前にレイヴン。
この場に第三者がいて今の状況を端的に説明しろと言われたならば、『レイヴンがイリスを押し倒した』と大抵の者は答えるだろう。
倒された際、頭を打たないようにレイヴンの手が差し込まれたためイリス自身大した衝撃はなかった。けれど自分の目に映るレイヴンは一体何があったのか、頭から血を流している。
「レイヴン……?」
「無事か、イリス」
「え、何? 一体どういう事?」
「どういう仕掛けかはわからんが、棚が爆発したようだ」
「棚……?」
倒れた状態のまま、視線だけを棚があった方へと巡らせる。先程レイヴンが中を確認していた方の棚――ではなく、これから確認しようとしていた棚が、どこにも無い。
何か小さな音を聞いたような気はする。その直後レイヴンに押し倒されたため驚いてよく覚えていないが、そのすぐ後に何か大きな音がしたような気がする。てっきりイリスとレイヴン、二人分の体重をかけられた床が悲鳴を上げた音だとばかり思っていたが、どうやらその音こそが、棚が爆発した音であったらしい。
のそりと身を起こしたレイヴンが、イリスの腕を掴んで立ち上がらせる。
「どうやら怪我はないようだな」
「大有りですけど!? おま……っ、ちょっ、鏡! 鏡見ろ大惨事一歩手前だから! あぁ、この部屋鏡なかったわ」
爆発の際飛んできた何かがかすったのだろう。今もなおレイヴンのこめかみの辺りからは、だらだらと血が流れていた。見ている側からしたらとんだスプラッタだというのに、当の本人はけろりとした表情をしている。痛がれ。少しは怪我をしているという自覚をしろ。そう言った所で、騎士団にいるとこの程度は割とよくある事、と流されてしまうのだろう。
イリスは懐からハンカチを取り出すとレイヴンの腕を掴んで無理矢理屈ませ、ハンカチをこめかみに押し付ける。
「ちょっとここ押さえてて。包帯とかないから代わりにこれでガマンしてよね」
言って、自分の髪を結わえていたリボンをほどいてそれをきつく巻き付ける。
ハンカチにもリボンにも滲んだ血がついて何だかとんでもない色になっているし、いい年したにーちゃんが頭にリボン巻き付けてる光景もどうなんだと思わないでもないが、この際そんな事は言っていられない。
イリスもレイヴンも怪我を治す魔術を使う事ができないのだから。
「イリス、落ち着け。大丈夫だから」
「落ち着いてるけど!? 落ち着いた上でこうなんですけど!?」
「止血するのにわざわざ汚す必要はない。一応治癒術は使える」
「……え?」
「とはいえ、苦手だから本当に止血程度しか出来ないが」
どこか困ったような顔をしつつも、レイヴンが詠唱を始める。そして発動される術。
本人の宣言通り、確かにそこまで得意ではないのだろう。傷が何もなかったように消える、という事はなかったがそれでもじわじわとハンカチに広がる染みは、ぴたりと止まった。
それを見てようやくイリスは安堵の息を吐いた。苦手であったとしても、使えないのと使えるのとではやはり大きく違ってくる。
イリスが安心したのとは正反対に、レイヴンの表情はまだどこか困ったままだ。そっとハンカチに手を添えている。
「……すまない。洗って返す」
「いや、うん……無事ならそれでいいよ。無事で、良かった」
何だか一気に力が抜けた気がする。うっかりへたり込みそうになるが、どうにか足に力を入れてそれを防ぐ。
「……今日の所は切り上げよう」
「まだ日没まで時間はあるが……」
「レイヴンは早く戻ってちゃんとした手当てを受けるべき。そんな状態のレイヴンを連れまわしてまで館の中を見て回ろうとは思わないからね」
もし、このまま連れまわして更なる危険な事があったとして。きっとレイヴンは迷わずイリスを庇うだろう。今だって大分肝を冷やしたのだというのに、レイヴンはそんな事などお構いなしだ。
棚が爆発した時に何かが飛んできてぶつかったのか、机の上に置かれていたランタンは今では床に転がっている。一歩間違っていたならランタンの火が床に積もった埃に引火していたかもしれないが、運がいいのか火災という二次災害は起こらなかったようだ。
ランタンを拾い上げ、工具箱を持つ。それからイリスはドアを蹴破りかねない勢いで開けると、ずんずんと進んでいった。
「……この程度なら平気なのに」
だからこそ、イリスはレイヴンのそんな呟きなど聞いていなかった。もし聞こえていたならば思い切り反論していたのは間違いないが、レイヴンはそこをわかっているのかいないのか……仕方ないと言わんばかりの態度でもってイリスの後を追う。
いくら血が止まったとはいえ、頭の怪我というのは案外怖い。ちょっとした怪我でも出血は凄かったりするし、大した事ないと思っていたら時間差で、なんて事もよく聞く話だ。だからこそレイヴンを一人そのまま帰して大丈夫だろうかとイリスは心配し、家まで付き添おうかと聞いてみたのだが。
レイヴンはあっさりとその申し出を断った。曰く、家より城に行った方が早く治る、とのこと。
「ついでにモニカに伝えておく。そこからアレクに伝わるまでそう時間もかからないだろう。ロイ・クラッズだったな」
「うん。確かにそう言ってたよ、じいちゃん」
「それじゃあ。今日はもうイリスも早く帰った方がいい。酷い格好だぞ」
「……その言葉、そっくりそのまま返すよ。むしろレイヴンの方が酷いくらいだからね!?」
汚れが目立たないようにと黒めの服を着てきたのだが、埃のせいで白だか灰色だかわからない汚れが結局は全体的についてしまっている。そんなイリスを見て、レイヴンがかすかに笑った。
「ごめんね、ありがとう」
けれど自分以上に汚れてしまったレイヴンは、怪我まで負う始末だ。自分のせいで、という思いからイリスはとてもじゃないが笑う事などできなかった。
「構わない。またここに来る時は声をかけろ。一人でくるのはやめた方がいい」
イリスの返事を待つ事なく、レイヴンはそのまま城の方へと歩いていく。
その場に残ったイリスは、まだ不安そうにレイヴンの後姿を眺め――見えなくなってから館にしっかりと鍵をかけて誰も入る事が出来ない事を確認する。
「…………」
そのまま館を見上げてみたが、結局館に入った時の違和感が何だったのかは最後までわからなかった。




