一つの元凶は片付きました
長い事使われていないはずなのにまるでつい最近まで使われていたかのような厨房。
調理台の上に片付けられていない塩の入った袋があるだけで、それ以外はこれといって目につく物はない。――鍋を除いては、だが。
しまわれていた調理器具も食器も、埃をかぶった様子もなければすぐにでも使えそうなくらいだったが……ただ鍋だけが異彩を放っていた。
館の中に漂っていた磯臭さ。しっかりと施錠されていた厨房から漏れていたそれを考えると、この鍋を開けたが最後下手をすればあまりの臭いに気絶するかもしれない可能性さえある。
いっそ見なかった事にして他の部屋へ行こうか、と思いはしたがもし、万が一、この鍋の中に何か重要な物が隠されていたら……と考えると無視するわけにもいかないだろう。
普通に考えて何もない、とは思うのだが、この館の中を探索する原因を作った人物の事を考えると絶対無いとも言い切れない。捨てきれない可能性がイリスたちをその場に足止めしていた。
「……仕方ない……一応少し離れていてくれるかな?」
小さな溜息を一つ吐き、そう切り出したのはクリスだった。その表情はあからさまに嫌そうではあるものの、どこか諦めたようにも見える。
「……あぁ、多分そっちが風下になるかもしれないから、できるだけ……そうそう、そのあたりにいてくれれば」
言いながら鍋の元へと進むクリスは、先程から発動させたままの術の威力を上げたらしい。
相変わらずの事ながら、本当に彼の魔力というか魔術はある意味便利だが何かが間違っているような気がしてならない。
などとイリスが感心なのか呆れているのか微妙な感想を抱いた直後、クリスの手が鍋の蓋にかかる。それと同時に更に風の勢いが強くなり――止んだ。
「……クリス……?」
一体どうしたというのだろう。先程までふよふよと舞っていた髪もマントも今では重力に従っている。まだかすかに臭いは残っているが、呼吸がつらいという程のものでもない。彼はかすかに蓋を持ち上げその中を確認したのだろう。ここから中身までは見えなかったが、それくらいは判別できた。
次いでクリスは鍋の中に突っ込まれたままだったお玉をぐるりとかき混ぜた。蓋はほぼ閉めたままで。二、三度かき混ぜただろうか、それから何事もなかったかのようにこちらへと向き直る。
「とりあえず鍵は流石にこの中には入れてないようだね。じゃ、次行こうか」
「まて、鍋の中には一体何が入っていた」
あからさまな態度に逆に不安に駆られたのだろう。レイヴンが呼び止める。
「スープと思しき液体が入っていただけだよ。海草と一緒にね。ただ、いくらこの館が見た目綺麗とはいえ、あの鍋がいつからあるのか……というのを考えれば薄々勘付いてくれるとは思うけど、高確率で傷んでるだろうね。臭いの原因はあの鍋で間違いないってのは断言できる」
「……臭いの元だというのなら、その中身を廃棄しておくべきだろう。そこにある限り漏れた臭いが館に広がるし、臭いの原因がわかったからといって毎回嗅ぎたい臭いでもないのだから」
「……やっぱり、そうなるか」
諦めたように項垂れて、クリスは再び鍋の前へと移動する。もう一度術を発動させてなるべく臭いが充満しないようにしてから蓋を開け鍋を持ち上げ、流しへと傾ける。
ざばーという音とともに流れていくそれは、見た目だけなら確かに海草スープとかそんなものだったのだろう。海草というよりはヘドロか何かですと言われた方がしっくりくるかもしれないが。
少し遅れてレイヴンが、水道の蛇口を何の気なしに捻る。トイレも一応水は流れていたので驚く事ではないのかもしれないが、厨房の水もきちんと出た。排水溝あたりに密集した海草の上から水を流していくうちに詰まるのではなかろうか、と心配もしたが、特にそういう事もなく、ほぼ溶けて原形を留めていなかった海草は少しずつ流されていったし、まだ形が残っていたものも大きなものではないのでやはり流れていく。
「これで次来る時に臭いが消えてればいいけど……」
「……消えてくれるとは思うんだけどさ。そういやこの上の階の休憩室みたいなとこも臭い酷かったよね。あの部屋にこれと同じスープは無かったと思うけど」
「スープそのものがなくても。絨毯に零してそのまま、とかなら臭いもつくんじゃないか? まぁ、そこ深く考えてもどうにもならないと思うよ」
零して、とはいうがどうやって。
一瞬そう疑問を口にしようかと思ったイリスだったが、結局は言わなかった。この厨房に鍵がかかっていたのは言うまでもない。しかし以前にも鍵がかかっていたはずの部屋の中に奴はいたのだ。
何らかの手段でもって鍵のかかった部屋の中に入る方法を奴は会得している……そう考えてもいいだろう。
「それじゃ、そろそろ次行くとしようか」
「そうだな」
念の為かどうかはわからないが、もう一度厨房内を調べていたレイヴンが頷く。この部屋での収穫はどうやら鍵が二つだけのようだ。
厨房を出て、次に向かい側のドアの前へと移動する。
一階で開いていないのは、あとはこの部屋だけだった。
鍵の数を見る限り、この中のどれかで開けられるだろう。順番に鍵を差し込んでいって、特にその考えが否定される事もなくカチリという音がした。
そうして開けられたこの部屋は、食堂だった。
中央にどんと長テーブルが置かれ、それにはテーブルクロスもかけられている。
椅子の数は七つ。あの会議室のような部屋にある椅子の数と同じだった。
交互に向かい合うように置かれている六つの椅子と、上座と思しき場所に置かれている一つの椅子。これを見る限り座る場所も最初から決められているのだろう。
テーブルの上には安心するべきか、特に料理の類などは置かれていなかった、置かれていたらここもとんでもない悪臭を放っていた事だろうから、無い事に喜ぶべきなのだろう。
こうして眺めている分には、特に何の変哲もないただの食堂だった。ほぅ、と安堵の息を吐いて、普通である事に安心するとか当たり前を当たり前と認識できなくなりつつある事に、一瞬だがイリスは顔を引きつらせた。
「見たとこここには特に何もなさそうだなぁ……」
言いつつ足を踏み入れ何となくテーブルクロスを捲りあげるクリスだったが、そこで動きが止まる。
テーブルとテーブルクロスの間には何もない。しかし、テーブルクロスで隠れていたテーブルの下、そこには大量のメモが捨てられていた。
置かれていた、というよりは捨てた、という方が正しいのだろう。くしゃくしゃに丸められたものがいくつか見える。
何枚か拾い上げて目を通していたクリスだったが、
「単なる雑談のようだね」
特に重要そうな情報もなかったのだろう。何事もなかったかのようにテーブルクロスを元に戻す。
真っ直ぐにテーブルの方へと進んだクリスとは別に、暖炉がある方向へ進んでいたレイヴンの方へと視線を向ける。
彼はしゃがみ込み、暖炉の中を調べているようだった。しばらくの間ごそごそと動いていたが、やがて暖炉の中へと突っ込んでいた上半身を戻し、埃なのか煤なのかよくわからないそれらを振り払うと、
「特に何もなかった」
簡潔にそう告げてくる。
「今までのパターンだと一部屋に一つくらいは鍵があったけど……探し方が悪いのかな?」
「もしくは、ここは単純にハズレの部屋で本当に何もないかだね」
イリスの言葉に即座にそう返すと、クリスは腰に手をあてぐるりと周囲を見回す。
何の変哲もないただの食堂である。
何かを隠すにしても、つい今しがたクリスとレイヴンが調べた場所以外で怪しい場所はない。
ふと、室内を巡っていたクリスの視線が途中で止まる。レイヴンがたった今調べたばかりの暖炉――よりも少し上。不自然なまでに停止したそれを訝り、イリスもそちらへと視線を向ける。
暖炉の上の壁、そこに鏡が掛けられていた。たったそれだけの事なのに、何故かクリスは難しい顔をしていた。




