そういう共通点はいらなかったのですが
「大丈夫ですか、イリス」
「あぁ、うん……何とかね」
小声で問いかけてくるモニカに同じように小声で返し、イリスは上半身を起こす。
濡れタオルをひゅんひゅん振り回している魚は、双剣を構えているレイヴンと対峙している。
……それはある意味、異様な光景だった。いっそ何かの冗談なのではないかとすら思う。
こちらに背を向けているレイヴンの表情は見えないが、見えなくとも何となく想像できてしまう。
まさかレイヴンがあれに負けたりするとは思えないが……
「レイヴン、念の為気を付けてね」
「わかっている」
今まで逃げ回っていたのが一体どういう風の吹き回しなのか。何かあると勘繰って警戒したとして、考えすぎという事にはならないだろう。
振り回していたタオルの動きが止まる。びしっと両手でタオルを掴み構えている魚だったが、その足が僅かに動く。
重心をかすかにずらし、一瞬、完全に動きが止まったかと思ったのだが――
ひゅおんっ!
風を切るような音がしたのは直後の事だった。
濡れタオルがレイヴンめがけて振り下ろされる。それをかわしたレイヴンは左の剣でタオルを絡め取るようにしつつ、右の剣をタオルを持っている手に突き出した。咄嗟にタオルから手が離される。あっさりと武器(と言っていいものか)を失った魚は「はっ!?」とでも言いたげに慌てふためき――更なる追撃が来る前に速やかに逃げた。
「……ただの濡れタオルだな」
てっきりタオルに何か仕掛けてあるのかと思っていたらしいレイヴンが、拍子抜けしたような声を出す。
逃げ出した魚を再び追いかけるのかと思いきや、レイヴンは何事もなかったかのように剣を鞘に収めた。
「追わないの?」
「今から追っても恐らく見失うだろうからな。わざわざ追わなくても、出てきた時に追い払えば充分だろう」
あの魚の素早さは今更言うまでもなく。確かに今から追いかけた所であっさりと見失うだろう事は簡単に予想できた。しかしまた部屋の入口から物を投げつけられては堪らないので、一応ドアを閉める。
倒れ込んだ際に閉じてしまったノートを再び開いてテーブルの上に置いて。
「……何かさっき話が唐突な展開になってた気がするんだよね」
まだ続きがあるようなので、その唐突な展開が「なーんちゃってー」で済むようなものである事を願いたいのだが。残念ながらこれを書いた人物がそういう冗談を言うようなタイプであるようには思えない、というのはイリスだけではないだろう。
『新しい主任が来た。しかしあれは本当に新しい主任なのだろうか。皆、私と同じ事を考えているに違いない。ついさっき来た新しい主任は、あれは主任が若返った姿なのではないかと』
倒れ込む直前まで開いていたページを再び開いて。
……見間違いとか気のせいではなかったようだ。何度見ても何を言っているんだ、と真顔で問い返したくなるような事が書かれている。
『やって来たばかりの新しい主任は、こちらがこの建物についての説明をする必要もなく既に全てを把握しているようだった。前の主任に既に聞いてありますから、と言うものの、それにしたって詳しすぎる。
私達の事も既に聞いてはいるのだろう。けれど……聞いただけで、ここと私達の事を全部把握できるものなのだろうか? 主任がここに来なくなってから置く場所を変えた物だってあるというのに。何故こんな場所に? と聞かれてもおかしくない物だってあるはずなのに。それすら把握しているというのはおかしすぎる。
……けれど、これが主任であるなら聞く必要などないのだろう』
「若返ったかもしれない、とするには微妙な説だな。前任と後任の引継ぎが他者が口を出すまでもないほどに綿密にできていただけだと思うが」
「まぁ、そうなのかもしれませんわね。漆黒騎士団は特にそういうのアレですものね……」
若返り説を推すにしては根拠が少々足りていないというのはレイヴンのみならずモニカも同意見らしい。ただちょっとだけ、漆黒騎士団についての方に意識がいっているのか曖昧ではあるが頷きつつも、その表情はどこか困り顔だった。
『前の主任に話した事をついうっかり振ってしまう程、前の主任と今の主任の区別がつかない。姿が違うというのに、まるで同一人物のようだ。今の主任も知らないはずの話題を振られたはずなのに、動じる事なく言葉を返してくる。……やはり彼は以前の主任なのではないだろうか。以前研究していた若返りの実験が成功したのかもしれない』
「若返りの実験」
「……また随分と酔狂な」
見なかった事にするのが少々難しい単語をモニカが口にして、レイヴンが呆れたように呟く。
……ここが診療所だったらしいという話はワイズから聞いていたが、実はここは診療所ではなく何かの研究所だったのだろうか。……となるとここにいたであろう六名の男女は研究員だったという事か。さらりとそんな単語を記すくらいだ。何も知らない診療所の手伝いの人間という線は無い。
『ケインがある事に気付く。前の主任と今の主任の癖がどうやら同じらしい。……言われてよく観察してみると、確かにそうだ。癖だけじゃない。食べ物の好みも前の主任とそっくりそのままだ。
いっそ率直に聞いてみるべきだろうか。主任若返ったんですか? って。いや、恐らくそう聞いてみたところではぐらかされる気がする。でももうこの人新しい主任って感じが全然しない。
彼が主任の身内だというのならまだ、そっくりだとかそんな言葉で済ませられるけど、主任に家族はいない。他の皆と話してみたけど、やっぱり彼は主任なんじゃないだろうか』
癖というのがどういうものかはわからないが、これを書いている人物のみならず他の人までもが前の主任と今の主任同一人物説を否定しないのは、それだけ行動が似ているという事か。ここに書かれている文字だけを見ているこちらからしたら、そんな馬鹿なと一笑して終わらせてしまいそうな内容なのだが実際に接していた張本人たちからするとそれは笑い事ではないのだろう。
『主任を主任と呼ぶ事は別に構わない。けれど前の主任と何か少しでも区別をするべきだろうかとふと思う。同じ呼び方でも恐らく構わないと彼は言うのかもしれないが……
意を決して私は主任に聞いてみた。例えば王都などに買い物に行く際、そこで主任と呼ぶわけにもいかないだろうし、そういう状況で、それでもどうしても話しかけなければならない事態に陥った場合、私達は貴方をなんと呼ぶべきか、と』
そこでノートに書かれた文字は一杯だったため、イリスはそのまま次のページを捲って。
ノートのページそのものが終わりに近づいていたため、最後のページにそのまま続きが記されている。
「……え」
「……嘘、でしょう?」
イリスとモニカはほぼ同時にそこに書かれていたものを目にしたらしく、同時に引きつった声が出ていた。
『彼は前の主任と同じ呼び方になるかもしれないが、と前置いてこう言った。
――W、と』




