渦中にいるとは案外気付かないものです
王国歴1005年 夏 某月某日 晴れ
朝方に雨が降ったのか、普段ならまだ過ごしやすい気温のはずなのだが少々蒸し暑い。
そんな初っ端から色んな意味で気力を削がれるような日の事。
今日も今日とてあの館へと足を運ぶべく、イリスは待ち合わせ場所である南門へと向かう。
待ち合わせの時間には少々早いがどうやら既に誰かしら来ているらしく、小走りで向かったその先には、モニカとレイヴン、そしてクリスと見覚えのない女性が立っていた。
女性の着ているものから判断して、どうやら彼女も騎士のようだ。色からして、真紅騎士団だろうか。
見知らぬ女性の存在に、走り出していたイリスの足が思わず減速する。
まさかあの女性も館に行くというわけではないだろうし、そうなると急用ができて今日は中止にでもなったのだろうか……などと考えつつも、とりあえずはそちらへと歩いていく。
「イリスか」
最初にこちらに気付いたのは、案の定というべきかレイヴンだった。
「えぇと……何かあったの?」
和やかに世間話をしていました、という雰囲気には思えなかったため聞いてみたが、てっきり深刻に頷いてくるかと思いきやイリスの言葉にレイヴンは何を言われているのかわからないというような表情をしていた。隣にいるモニカも同様らしく、ぱちくりと目を瞬いている。
「あぁ、特に何もないかな。私がちょっと用があってここに来ただけで、イリスの方の用事には何の問題もないからさ」
「そうなの?」
「あぁ、それも今済ませた所だし……おいおい全力で凝視とかやめとくように」
「すみません……お会いするのは初めてなもので」
イリスの事をじっと、それこそ穴でも開けるつもりなんじゃないかという勢いで凝視していた女性騎士にクリスが窘めるように声をかける。無言のままそれこそ力一杯凝視されていたのだが、ただ見ているというだけで特に敵意や悪意といったものは感じられなかったためそこまで気にしていないとはいえ、それでもやはりじっと見られているというのは落ち着かない。そこまでじっと見つめられるような理由も思い浮かばない、というものあるだろう。
何となく気になってイリスの方もその女性騎士に視線を向けようとしたが、何となくどこに視線を向けていいのか困り、しばらく視線を彷徨わせた結果、隣にいるクリスと女性との中間地点を見る事に落ち着いた。
何というか彼女が着ている制服は、モニカの着ている制服と同じようなデザインなのだが、モニカよりも露出が多く、何となく目のやり場に困るものだった。
ならばと目線を上にあげて顔のあたりを見ようとも思ったのだが、いかんせん彼女の目がじっとりというか、どんよりというか、鬱々とした何かがこもっているのだ。それさえなければ相当な美人なのだが。
別に何が悪いわけでもない。イリスの父が以前仕事が立て込んで睡眠時間を削りに削った後、そんな目をしていた事もあるし。恐らく彼女も恐ろしく忙しい中時間を割いてここにいるのだろう。目の下には隈もできている。
「一応イリスにも紹介しておこうか。彼女はジュディ。見ての通り私の部下にあたる。たまに巡回警備にも出ているから何か困った事があったら気軽に声をかけてくれ」
クリスの言葉にジュディは深く頷いてみせた。困った事、と言われてもなぁ……と思いつつもイリスも同じように頷き返して。
「さて、それじゃ用も済んだし失礼するよ」
「……一体何の用事だったの?」
クリスに付き従って立ち去るジュディが、途中何度も立ち止まりこちらを振り返り、その回数が異様すぎてとうとうクリスに引きずられていったのを見送って。
そのジュディの様子からやっぱり何事かあったのではなかろうかと思っての疑問だったのだが。
「あぁ、本当に大した事ではないのですけれど。これをクリスから預かっただけですわ」
そう言ってモニカがひょいっと掲げてみせたのは、一冊のノートだった。あの館から持ち出した物ではない。
「ノート?」
「目録ですって。アレクの協力も得て一応今まで見てきた部屋にあったもののいくつかを記しておいたらしいです」
「目録?」
「……売り払えそうな物は後で売り払うって言ってただろう。それで売れそうな物のリストを作ったらしい」
何事がわからず首を傾げるイリスに、レイヴンが告げる。
「あぁ……!」
言われてみれば当初の目的はそんなんだった気がする。まずは部屋の鍵を見つけて全部の部屋を見て回ろうとか思っていたり、館の中に出てくる魚に振り回されたりですっかり忘れていたが。当初の目的を忘れているとかどうかしている。
「後からいちいちもう一度値打ちのありそうな物を見繕うより、こうして目録作っておいた方が後々手間をかけなくて済むだろうっていうのがクリスの言い分だ」
「まぁ確かに最後にそれ見ながら売れそうなの運び出せば手っ取り早いけど……」
「ちなみに現在こんな感じですわ」
モニカが目録を開いてみせる。
そこに記されていた物を見る限り、そこまで高額な物はない。だがしかし売り払うとしてある程度引き取って貰えそうな物は結構あるようだ。
「今回はクリスもアレクもいませんから、わたくしが記入するようにと」
任せて下さい! とやる気満々なモニカにイリスは素直に頷いた。普段のやる気満々状態だと誰かが犠牲になりかねないが、これなら任せても誰かがとばっちりで酷い目に遭う事もないだろう。
「――そういえば、先程の真紅騎士の女だが。気を付けておいた方がいい」
そんな事をレイヴンが言い出したのは、王都を出て泉のあたりまで来た時だった。
「そう、ですわね。全面的に信用するのは微妙かもしれませんわね」
何やら難しい顔をして、モニカまでもが便乗する。
「……え、何あの人そんな信用ないの?」
クリスの様子を見る限りそんな風には見えなかったが。
「場合によっては人質にとられる可能性がある」
「……は?」
人質にとられる……?
レイヴンの言葉を脳内で反芻する。
誰が。誰を。誰に。
ちょっとレイヴンの言っている事がわからない。どういう意味なの、と真顔で問いたい気持ちになりつつモニカへ助けを求めるように視線を向けた。
けれどモニカはイリスの視線に全く気付いた様子もない。
「えぇ……場合によっては、どころかそうなる可能性が高いですわね」
憂いたっぷりな顔でそういうモニカに、ちょっと待てと突っ込みたい。
「彼女、アレク信者ですから」
「モニカ、その言い方は少々誤解を招く」
深刻な顔をして言うモニカに、レイヴンがそっと首を横に振った。
「……えぇと、それはつまりあんたみたいな庶民が気安くアレク様に近づくんじゃないよこの薄汚い雌豚とかそういう……?」
二人の言葉からイリスが導き出した答えを口にするも、何かが間違っていたのかモニカの目がくわっと見開かれる。
「イリスの事を雌豚呼ばわりするような相手がいたらわたくしが相手諸共一族郎党根絶やしにしてますわ!!」
「ひぇっ」
即座に恐ろしい事を言ってのけるモニカに、いやでも今の言葉からそういう風にしか受け取れないんだけど……という意味と説明を求めるように今度はレイヴンへと視線を向けた。
「……元々あの女は他国の間者だったのだが。そういえばイリスは白銀騎士団副団長の事は知っているか?」
「ううん、見た事ない……と思う」
副団長、と言われてもピンとこないのでそこは否定する。そもそもここ最近でそんな人の話――そういえば最初にあの館に行く時にアレクの口からチラッと聞いたような気はするが。
「数日前から王都にいないが、そいつがかなりの戦闘狂でな。あの女も同類だ」
「同類はいいけど、何でそこで副団長が出てきたの?」
単純に彼女は戦闘狂です、でいいのではなかろうか。
「他国の間者としてこの国に潜入した際、白銀騎士団副団長と交戦していた所をアレクが二人まとめて沈めたんだ」
「それ以来あの方はすっかりアレクに心酔してしまって」
「……意味がわからないよ」
二人は当然のように言っているが、イリスには全くもって意味がわからない。困惑しつつもまだ話の先がありそうなので耳を傾けてはいるが。
「国に戻る時間が惜しいとばかりに寝返ってこの国の騎士になったといういわくつきの相手だ。そしてたまにアレクに奇襲攻撃を仕掛けているのを見かける」
「返り討ちにあってますけどね、毎回」
「もう一回言うけど意味がわからないよ」
「っ!?」
「いや、そこで何でわからないんだ、みたいな顔されても」
これでわかれという方がどうかしているというか、酷いと思う。騎士の間では通じる話なのかもしれないが、こっちは一般市民だという事を念頭に置いてもらいたい。切実に。
「えぇと、つまり、アレク様に勝つために人質として利用させられるかもしれない、って事?」
「いや。アレクが全力を出すのに利用するとかそういう方面で利用させられるだろうという事だ」
「重ねて言うけど意味がわからないよ」
「副団長もろとも倒してしまった時も、奇襲を受けた時も、アレクは一切本気出さないで勝ってしまってますから。それがあの方には悔しいらしくて。全力を出したアレクと闘いたいというのが彼女の言い分ですわ」
「うん……うん?」
それは……素直に全力で戦って下さい、では駄目なのだろうか? レイヴンとモニカの話が全くわからないでもないが、理解できたかと言われれば理解できた気がしないでもない、という程度にしかわからなかった。
「まぁよくわかんないけど、あの人に少しは気をつけとけって事でいいんだよね?」
「えぇ、そう、ですわね」
煮え切らない態度でこたえるモニカに、特に気にするでもなくイリスはそれで納得したようだ。その様子からやはり理解はしていないんだな、とモニカはそっと溜息を零した。
「あの方がアレク信者なら、アレク本人はイリス信者だという事に本人全く気付いてないんでしょうね」
「最悪あの女の首持ってあの女の故郷に殴り込みどころか滅ぼすかもしれないっていう事に気付いているのは本人を除く周囲だけ、っていうのも厄介だな」
イリスに聞こえないように小声で会話する二人は、そろって溜息を吐いた。
「わたくしたまに思うのですけれど、モンスターより先にアレクをどうにかした方がいいんじゃないかしら」
モニカの物騒すぎる発言に、レイヴンは何もこたえなかった。否定も肯定も口にはしていないが、表情には出ていたかもしれない。
何もこたえなかった事に対して、モニカはさほど気にしていないようだ。少し先を進んでいたイリスを微笑ましそうに見つめている。館は既に目の前だ。
「二人とも、早くー」
鍵を開けたイリスが振り返って声をかける。そうして扉を開け放ち――
「うっわ!?」
何だかおかしな声をあげ、イリスはその場で固まった。




