神出鬼没にも程があります
背後からのけたたましい音に、術を発動しそこねたモニカが驚いたようにそちらへと視線を向けて。
「アレク!?」
「え、アレク様?」
驚いたかのようなモニカの声につられてイリスもそちらへとつい顔を向けていた。
「うわ……」
そして思わず小さくではあるがそんな声が自然と漏れていた。
ドアを蹴り破らんとする勢いで入ってきたアレクは、既に剣を抜き、挙句その剣からは青白い光がばちばちと音を立て纏わりついた状態だった。普段穏やかな微笑みを浮かべている表情は険しく、一瞬ここって戦場だっけ? とイリスは自分がいる場所を思わず確認する。トイレである。誰がどう見ても間違う事なくトイレである。
ちょっと己の限界が近付いて駆け込んできた、という状況ならば切羽詰まった表情を浮かべる事もあるだろうが、アレクの浮かべている表情はそういうのとは明らかに違っていた。
手をわきわきとさせながらこちらへ近づいていた魚は途端慌てたように後ろへと跳んで――
ごしゃぁっ。ごっ。
濡れた床に足を滑らせ、便器に頭を強かに打ち付けた。人間ならば後頭部、下手をすればその場で気絶してもおかしくない勢いだが魚は意識を失ってはいないようだ。
そんな状態の魚に、しかしアレクは一気に距離を詰めるとそのまま剣を振るいトドメを刺そうとする。
「何っ!?」
確実に決まった――イリスの目にもモニカの目にも確かにそう思える一撃だったのだが、魚は少々無茶な態勢ながらも立ち上がるとそのまま便器の中へと逃げ込むように頭を突っ込んだ。勢い余って床に突き刺さらんばかりに剣が当たるも、床に突き刺さる事もなく。ただ剣に纏わりついていた雷系の術のせいで濡れた床を伝い、魚から生えていた足に感電したらしく一瞬だけびくりと魚の身体が跳ねた。
その一瞬のうちに更なる追撃をかけようとしたものの、それよりも僅かに早くにゅるんという音がしそうな勢いで魚の姿は消えた。
「…………」
剣を鞘に収めるアレクの表情はこちらからはわからないが、彼は懐から何やら取り出すとおもむろに便器の蓋を閉め――
「……何で縄なんて持ってるんですか、アレク様」
「悪人を捕まえた時の捕縛用ですが何か?」
固く封をしてこちらへ振り返ったアレクの表情は、いっそ清々しいくらいの笑みだった。
次いで、他の個室の便器もしっかりがっちり封をする。
「……まぁ、気休め程度にしかならないでしょうね。ここの浄水槽がどこにあるかはわかりませんが、そちら側から出てくる可能性は充分にあるでしょうし」
「あるとするならば、魔導器の近くかしら。どのみち今の段階じゃどこにあるかもわかりませんし、こちらからどうにかしようもありませんわね」
「えぇ、残念ながら」
「ところでアレク様、結局どこに行ってたんですか?」
「どこって、隣ですよ。あのメモに書いてあったでしょう。隣の個室と書かれてなかったからもしかしたら隣の部屋の可能性もあると思って」
「あぁ、だから戻って来るのが早かったのですね。……ところでどうして完全に戦闘態勢に入っていたのかしら?」
「何となく嫌な予感がしたからですよ。当たってましたね」
「外れてたらどうするつもりだったんですか……」
あの魚が出現したからいいようなものの、そうじゃなければ鬼の形相でトイレに駆け込んだだけという何とも微妙な結果になっていたという部分はアレク的に問題はないのだろうか。
「モニカが術を放った時、手応えはあまりなかったと言ってたでしょう。水を撒き散らしていたようだし、もしかしたら攻撃されて咄嗟に引っ込んだもののまたすぐに戻って来るんじゃないかと予想したまでですよ」
そう言いながらアレクは鍵をイリスに差し出す。
「隣の部屋のドアにどうやら仕掛けが施されていたみたいです。鍵が出てきました」
「隣って応接室ですよね。しっかり探したつもりだったのに仕掛けとか意外と気付かないものなんですね」
「まぁ鍵を発見する事はできたんだから、結果的には何も問題はありませんよ」
「余興にまんまと踊らされてる感がするのは癪な気もしますけれどね」
「そんなの最初からじゃない、モニカ」
下手をすれば最初にこの館に足を踏み入れた時点からそうだと思うのだが。
一つ誤算があるならば、この館の前の持ち主にとってこの余興に振り回されているのが館を譲ったアイリス本人ではないという事くらいだろうか。
何はともあれ、これ以上ここにいても何かがあるわけでもなさそうだし次の部屋に行く事にする。再び魚がここに戻ってきたとして、縄で封までされた便器をガタガタ揺さぶられる光景を見せられるだけだろう。恐らく。仮に戻ってきてそんな事をされても、恐らく丁寧に縄を解いて便器の蓋を開けるつもりはイリスにはなかった。
「さて、次はどうしましょうか」
トイレから出るなりアレクがそう切り出す。
今手元にある鍵でどこの部屋なのかわからない鍵は三つ。
一階にある部屋でまだ見ていない部屋も三つ。
一つはエントランスから入って真正面にあるドア。一つは更に隣の部屋。残りは最初から開いていた書類が散乱していた部屋の隣。いずれもここからは反対側の位置にある。
「これが全部一階の鍵って確証もないし……もしかしたら残りは二階の可能性もあるよね。……階段近いし、二階見て、下りる時に反対側の階段から下りて残りの部屋確認する形でいいんじゃないかな」
「ぐるっと回る形で見てくるって事ですわね。わかりました。それじゃ早速行きましょう」
モニカもアレクも特に反対する事もなく、三人は目の前にある階段を上がり二階へと向かう。
二階に着くなり見える範囲には、特にこれといった異常はなかった。相変わらず潮の香りが漂っているくらいである。先程現れた方じゃない横向きの魚がいる可能性もあったが、少なくとも見える範囲にはいないしアレクもモニカも何の気配も感じ取れていないのか、そこまで警戒している風でもない。
とりあえず手近な部屋の鍵穴に先程見つけた鍵を含めた三つの鍵を代わる代わる差し込んでみたが、どうやらどれも違うようだ。
そのまま真っ直ぐ進んで、休憩室の前まで来る。休憩室向かいの部屋に鍵を差し込むも、ここも違うらしい。
残り三部屋。どれか一つくらいは鍵が合えばいいのだが……と思いつつ休憩室の隣の部屋に鍵を差し込む。
「ここも違うか……」
「もしかしたらやっぱり全て一階の鍵なのかもしれませんわね」
「んー、そんな気がしてきた」
「まぁ、残り二部屋ですし、試すだけ試してみましょうか」
くるりと身体の向きを変え、向かい側の部屋へ移動しようとした時だった。
ばさり。
そこまで大きな物音ではなかったが、確かに聞こえた。思わずびくりと肩を跳ねさせ動きを止めるイリスと、すぐさま庇えるようにイリスの前に出るモニカ。ぐるりと周囲を見回すも、廊下には何者の姿もない。
即座に剣を抜けるように手をかけていたアレクが、物音がした方へ視線を向ける。
「……隣?」
自然と声を潜め、モニカの方を見やる。
「……どうやらそのようですわね」
同じように小声でモニカも頷く。
音がしたのは今開けようとしていた部屋の隣のようだ。
そっと足音を忍ばせて、アレクが部屋の扉の前に立つ。ドアノブに手をかけそっと回し開けようとするも、鍵がかかっているのかドアは開かない。
ばさり。
物音がしたのは気のせいだったのではないか、という思いを抱いて気のせいだったのだと自らを納得させるよりも早く、再び音がした。
ただ単に中に積み上げていた何かがとうとう崩れて落ちただけ、というオチも考えられるが何者かが潜んでいる可能性も捨てきれない。イリスは手にしていたどの部屋のものかもわからない三つの鍵を、そっとアレクに差し出した。ドアノブから手を離したアレクはそれを受け取ると、なるべく物音を建てないよう細心の注意を払い差し込んだ。
三つの鍵のうちの一つは、どうやらこの部屋の鍵であったらしい。かちりと小さな音をたてる。
鍵をイリスへ返すと、アレクは再びそっとドアノブを掴みほんの少しだけドアを開ける。
僅かに開いた隙間から見える範囲には、特に何の異常もない。
一度だけアレクはモニカへと視線を向け、お互いに小さく頷き合うと勢いよくドアを開け放った。
室内へ突入する二人の後ろから少し遅れて部屋の中を覗き込んだイリスが見たものは、薄々予想していたが魚だった。先程トイレで遭遇した方ではない、忌々しくも前回人のパンツを覗き込んだ方である。
……鍵のかかった室内に一体こいつはどうやって入ったというのか。疑問を口にしたところで、人語を操る事のない魚からは答など出てこないだろう。
呪文詠唱する時間がなかったためか、アレクはそのまま剣を抜き斬りかかろうとしている所だった。それより先に魚に何かを投げつけられ、それを左腕で払いのける。
「ダークブリンガー!」
アレクに魚の注意が向いている隙に詠唱を終了させていたモニカが術を発動させる。
魚の足下から串刺しにするはずだった漆黒の剣は、しかし魚に命中する事はなかった。
軽やかな足取りでバックステップし、あっさりと躱される。それを追撃するように踏み込んだアレクだが、剣が触れるかどうかの距離でやはりバックステップで回避。アレクの剣とモニカの術の波状攻撃を、魚は動じる事もなく紙一重で躱していた。
ぱん! と剣に何の魔術もかけられていない事を察したのか、魚がアレクの剣をまたも真剣白刃取りし己の体重をかけるように横から下へと動かして。僅かにバランスを崩したアレクが踏みとどまろうとした瞬間、魚は手を離しそこから更に距離を取ろうとして――
「逃がしませんわ!」
背後が壁という事もありそれ以上バックステップで距離を取る事はできないと判断したのだろうモニカが、ダガーを抜いて投擲する。そのダガーをあっさりと叩き落とし、後ろへと跳んで。
壁にぶつかって跳ね返って地面にべちゃりと無様に落下――する事もなく、壁を蹴りその勢いにのって部屋の入口、イリスのいる方向へすさまじい速度で突進してきた。
「うわっ!?」
咄嗟に身を伏せてそれを躱す。命中していたら恐らくはそのまま部屋の外まで弾き飛ばされていただろう。そう思える程の勢いで魚はそのまま部屋を出て、すいすいと空中を泳ぐように移動し――姿を消した。




