厄介なのはもう理解しましたんでこれ以上押し出してこなくて結構です
「何があったのか、ってのは訊くまでもない……ようだね」
イリスが声にならない声で叫んだ直後、アレクがそちらへ意識を向けた途端、どちらの魚も見事なまでの素早さでもってその場から逃げ出した。
どちらを追うべきか悩んだわけでもないが、イリスへ向けた意識を再び魚へ向けた時には既に視界から消えていたため、逃がした事実を苦々しく思いながらもアレクは剣を収める。
「大丈夫ですか? イリス」
「精神的にどっと疲れましたけど、まぁ平気です。正直なんでこんな目に、とは思いますけれども」
「すみません、次見かけた時には奴の手を切り落とし目も抉り出しておきますので」
さらりと恐ろしい事をのたまうアレクに突っ込む気力もなく、イリスは壁にもたれかかる。
それから少し遅れて、恐らくイリスの叫び声、というよりはその直前の戦闘の音を聞いてだろうか――どちらにしても遅い登場だが――クリスが姿を現して、今に至る。
「で、そっちは何か見つけたかい?」
逃げた以上再び姿を見せる事はないかもしれないが、廊下で立ち話も何なので……という事で一階、先程までクリスがいた部屋に戻る事になり。
あちこちに散乱していた書類がほとんど纏められ随分すっきりとした室内、当たり前のように椅子に腰を下ろして問いかけてきたクリスに、アレクは若干戸惑いながらも答えた。
「隣の部屋で鍵を一つ見つけただけです」
「それにしても……随分と片付きましたね、この部屋」
乱雑に散らばっていた書類やらメモやらは今ではある程度纏められ壁際の方に積まれている。
床がほとんど見えなかったのが、今ではしっかり床を確認する事ができるまでになっていた。短時間でここまで片付くとは思っていなかったイリスが、壁際に積まれた書類と、クリスの目の前に置かれている書類とを見比べた。
「それだけ手元にあるのは、まだ見てないかそれとも重要な事でも?」
「いや、こっちも確認したよ。その上でこれは持ち帰ろうと思って」
一枚二枚程度ではなく、本一冊分くらいの厚さになっているがクリスはそれを気にした風もなく言ってのける。
「鍵をみつけて、残りの鍵は二階の鍵だったって事かな?」
「いえ、先に二階から確認してみようと思ったので。まぁ、その途中で……」
言葉を濁すアレクに、クリスはそれ以上追究しようとはしなかった。
「ここ、ドア開けっ放しにしてただろう? そしたらこっちにも魚が現れてね。とりあえず追いかけてみたら途中でイリスの声が聞こえて――後は言うまでもないね」
つまりイリスの悲鳴やら叫びやらを聞きつけてすぐに駆け付けてきたというわけではないらしい。
「……って、あれ? それじゃ、この部屋にあった書類全部確認したって事!?」
クリスの問いにこちらで起こった事を話し、あまりにもあっさりと受け流してしまうところだったが、手元にある書類をクリスは「こっちも確認した」と言っていた。
それはつまり壁際に纏めて置かれた方にも目を通したという事で――
「え、ちょっと……ホントに?」
イリスがこれらすべてに目を通せと言われれば恐らく一日あっても足りないだろう。
「慣れてコツを掴んでしまえば簡単な事さ。それに大半は重要な内容でもなかったしね」
「……つまり、手元にあるそれは重要な内容、って事ですか?」
「恐らくはって言葉が今の段階ではつくけど……私の記憶に間違いがなければ。見てみるかい?」
そう言って数枚、アレクへと渡す。差し出されるままに受け取ったアレクが目を通し、眉根を寄せる。
「カルテ……ですか?」
「そう。カルテそのものは他にもあったけど、患者の名前と思しき部分のインクが滲んで読めなかったりしたものも多い。名前がわかるのは今渡したものが全部」
声にありありと戸惑いが混じるアレクの横から、イリスも何となくカルテを覗き込んでみた。
カルテと言ってもそれほど難しい用語は書かれていないようで、名前とその時の患者の容態などが書かれた程度のもののようだ。当然ながらそれを見てもイリスには何が重要な内容になるのかさっぱりわからない。患者とはいえ特に重病だとかそういうものでもない、という事くらいだろうか。イリスにも理解できたのは。
二人の様子にクリスは僅かに苦笑を浮かべる。
「……まぁ、白銀騎士団も多忙だからね。気付かなくても、というより覚えてなくても仕方ない。
そこにある患者の名前、数年前に『人喰いの館』で行方をくらましたんじゃないかって事で捜索願が出されてた人物の名前と一致してる」
「なっ……! 言われてみれば……いくつかの名前に見覚えがあるような」
言われ、そこで再びカルテに目を通す。
「……イリス、君のお姉さんもしかしなくても相当厄介な物件押し付けられたんじゃないか?」
「それ、前にも言われてるんで……」
そして内心自分でもそう思っている。
名前に見覚えがあるものの、もしかしたら他の件で見た名前である可能性も高いから、という事で一部のカルテは持ち帰って当時の記録と照らし合わせる事にするらしい。
カルテってそもそもそんな簡単に外に持ち出していい物なのだろうか……? と思いはするものの、どのみち床の乱雑に放り投げておいたような代物だ。持ち出したところで文句を言う輩は出ないだろう。それに現在の館の所有者である姉からは持ち出せそうな物は持ち出して構わないと言われているのだ。価値があるかどうかはさておき。
「あぁそうそう。書類まとめてる時に見つけたんだけど」
そう言ってクリスが差し出してきたのは、一つの鍵だった。
「……この部屋にもあったんだ……」
「重要な部屋の鍵ならいいんだけどね。苦労して見つけた鍵が実は全くどうでもいい部屋の鍵だった、なんてオチの方が有りがちだけど」
「流石にそれは……って言えたらいいんですけどこの館の前の所有者の余興に振り回されてる現状、否定しきれないのが悲しいところですね」
「姉さんなら途中で飽きてドアぶち壊したりするかもしれないけど……姉さんならやりそうってだけでこっちが率先してドアぶち壊すわけにもいかないですよね」
「あぁ、それ無理じゃないかな」
あまりにもあっさりと言ってのけるクリスに、イリスは思わず首を傾げた。
例えばドアが頑丈な造りであるならばそう言われるのもまだわかるのだが、どの部屋のドアも木製だ。壊すだけなら道具があればイリスにだってできそうなのだが。
「何があってそんな事を?」
アレクの問いにクリスはすっと椅子をずらして立ち上がると、ドアの正面へと移動する。
「見てるといいよ」
言うなり詠唱を開始する。クリスを中心にふわりと小さな風が起こり、それから一瞬遅れて彼を取り巻くように炎が出現した。踊るように跳ねる炎がやがてクリスの突き出した右手に収束し――
「イグニートジャベリン」
術の発動とともに、ごがあん! と凄い音がした。
「御覧の通りさ」
「……冗談でしょう……?」
アレクの顔が引きつる。あれだけ凄い音をたてた割に、木製のドアは焦げる事も爆発する事もなく、無傷の状態でそこにあった。クリスが意図的に術の威力を極限まで下げた、というわけでもないらしい。術の事に関してはさっぱりなイリスだけなら騙されたかもしれないが、アレクもいる以上見た目が派手だけど威力の低い術、もしくは術の威力を極限まで下げて誤魔化してみる、といった手は使えないだろう。使ってどうするという話ではあるが。
そこはだってクリスだし、という一言で全て片付いてしまうのだがあまり気にしない方がいいのだろう。お互いに。
「今相当魔力消費してましたよね……だというのに無傷って」
魔力どうこうの部分はイリスにはわからないが、アレクが言うには今の術には相当の魔力が消費されていたらしい。
そしてアレクはその術の威力を以前どこかで目にしたか何かで知っていたからこそ顔を引きつらせたのだろう。
「さっき魚が出てきた時につい反射的に術使ったけど避けられてね。その時に知った事実さ。考えようによっては威力気にせず室内で術使い放題だけど……逆に考えるとこの館そういう風にしないといけない何かがあったって事だからなぁ……そりゃあこんな所に建ててるくらいだから、外から魔物の襲撃を受けたりするかもしれないからそれの備えとして、っていうのがあるのかもしれないけれど」
「えぇと、ちょっと聞きたいんだけど。魔術で被害が出ないような建物って造る事できるものなの?」
「できるよ?」
「できますよ?」
あまりにも当たり前のように答えられたのでイリスは自分が何か変な事を聞いただろうかと思い、それが顔に出ていたのだろう。二人がそれに気付き微苦笑を浮かべる。
「城は基本的にそんな感じだね。あとは王都を取り囲んでる壁とか。……まぁ、壁に関しては老朽化もあって少々微妙な点もあるけれど」
「とはいえ、最初からそういった素材で建造物を建設するとなると相当な費用がかかりますからね。あとは……あぁ、だからか」
何かに思い当たったらしいアレクがクリスの方へと視線を向ける。
「……魔導器、だね。王都の外だしわざわざ館のどこかに魔導器設置してまで、と思ってたけど設置しないといけなかったって事か」
「何かよくわかんないけど、とりあえずこの館の厄介度合いが上昇したって事は合ってる?」
イリスの問いかけに、二人は同時に深くしっかりと頷いていた。
アレクだけならともかくクリスまでもが真顔で頷いてしまったために、正直理解できてたと喜ぶよりもマジか……とげんなりした気分にしかなれなかった。




