海の近くならまだ納得できた気がします
結局あれが何であったのか、という疑問は一先ず置いておく事にした。
考えたところで結論が出るようなものでもないし、何かの見間違えだという線もある。……モニカも目撃している以上、見間違いと言う線は限りなく薄いのだが。
気を取り直して今見つけた鍵で開く部屋を探そうか、という事になり部屋を出たのだが。
じゃりっという音が聞こえたのは、休憩室と思しき部屋を出た直後の事だった。
何かを踏みしめたような音。
思い当たるのは階段の踊り場にあった割れた鏡。
手分けして館の中を探索していたならば、他の誰かが鏡を踏んだ音だろうと気にも留めなかっただろう。
しかし実際は全員で行動しているため、他の誰かは即ちイリスたち以外の第三者という事になる。
真っ先に動いたのはレイヴンだった。身を低くしつつ足音を消して階段の方へと走る。
そうしてレイヴンの姿が見えなくなって数秒――
何かが、凄い勢いでやって来た。
「……魚?」
あっという間にイリスたちの目の前を通り過ぎていったのは、確かに魚だったように思う。
少し遅れてレイヴンがそれを追いかけてやってくる。
水の中でもないのにすいすいと進んでいくその魚は、やけに大きかった。
一体何が起こっているのか理解する前に、その魚は水の中を泳ぐように進み――廊下の一部を塞いでいる箱の方へと突き進んでいく。このまま進めばあの箱に間違いなく激突する、そう思っていたがイリスの予想を裏切って魚は天井付近に開いているスペースからするりと向こう側へと行ってしまった。
それを追いかけていたレイヴンは、しかし足を止める事なく、それどころか更に速度を上げた。
「ちょっと……レイヴン!?」
思わず声を上げる。
その後の事はほぼ一瞬だったように思う。
廊下を走っていたレイヴンが壁を駆け、その勢いで天井の方へと移動。先程の魚のようにぽっかりと開いているスペースから重力に従い落下するように通り抜け――
大きな魚もレイヴンも、見えなくなった。
次に動いたのはアレクだった。
廊下の向こう側にレイヴンが消えたのと同時に、先程上がってきた階段の方へと向かう。恐らくは一階で挟み撃ちにしようという考えなのだろう。
ぽかんとしたままそれらを眺めていたイリスが我に返ってどうしようかとおろおろしだしたあたりで、
「とりあえずここで待機でいいんじゃないか?」
「そうですわね。あの二人でどうにかなるんじゃないかしら」
案外冷静にクリスとモニカが言ってのける。
確かに下手に後を追って物音を立てて向こうを警戒させるよりは、ここでおとなしくしているべきなのだろう。
そうして数分。この館が磯臭いのはもしかしてあの魚が原因なのでしょうか、などと言うモニカにだろうねーと軽く相づちを打つクリス。そんなやり取りを聞き流しつつ、イリスはじっと階段のある方を見ていた。
「あっ、戻ってきた!」
時間にしてそうかかってはいないはずだが、何だか随分長い事待ったような気がする。
「……どうやら逃げられたみたいだね」
「一体下で何があったんですの?」
戻ってきた二人の表情は、どことなく険しいものだった。その様子から先程の魚を捕まえたわけでも仕留めたわけでもないと悟る。
「逃げられた」
「すみません、予想していた以上に素早くて見失ってしまいました」
「二人で追ってなお逃げられたんですの?」
その言葉に驚いたのはモニカだった。クリスも言葉にこそ出しはしないものの、その表情にはかすかだが驚きの色がある。
「階段の途中あたりで見失った。一応下まで行ってみたが、その時には既に影も形も」
「こちらも一階まで下りてみましたが、廊下の端にレイヴンの姿を確認しただけです」
「唯一開いていた部屋も確認してみたが、そこにもいなかった」
沈痛な面持ちで語る二人に、どう言葉をかけるべきかわからなかった。いっそ素直に幻覚でした、とかいうオチの方がまだマシだったのかもしれない。
「そういえば、向こう側の階段の踊り場にも鏡があったな。向こうも同じように割れていた。偶然というよりは意図的に割られた可能性が高い」
「私はむしろレイヴンが壁駆け上がって向こう側に行った事に驚いたよ」
「あぁ、意外とどうにかなるものだったな」
その言い方からして本人も割とその場の勢いだったのだろう。そのうち天井なんかに張り付いたりもできるかもしれない……それが何の役に立つかはさておいて。
などとある意味で無駄な事を漠然と考えて。
その考えのせいだろうか。何とはなしに天井へと視線を向けて、そこで固まる。
天井に、魚が張り付いていた。
先程見た魚とは微妙に違うタイプの魚が、天井にぴったりと張り付いてこちらを見ている。小魚ならばもしかしたら気付く事がなかったのかもしれないが、その魚は人と同じくらいの大きさをしていた。天井に張り付いてじっとしているだけで敵意も殺気も感じられないため、こちらが天井に視線を向ける事がなければ恐らくいつまでたっても気付く事はなかっただろう。
天井を凝視したままのイリスに、一体何事かと四人がイリスの視線の先へと目を向けて。
「……一体いつからそこにっ!?」
「っていうか、何で魚なんだろうね?」
驚くアレクと冷静に疑問を口にするクリス。咄嗟にイリスを庇うように前に出るモニカとレイヴン。
「先程のとはどうやら別の個体のようですわね……」
じっとこちらを見下ろしていた魚だったが、アレクとレイヴンが同時に抜刀したのを見るや否や、ふわりと床へと降り立った。
「あ! さっきの!!」
それを見たイリスが声を上げる。
全体的に白っぽい何か、としか形容できなかった謎の物体。細長く白い物体に人の手足が生えた謎の生物。
イリスとモニカが見たものの、あっという間に姿を消した生命体。
何の事はない、それはこの魚の腹部分というだけのことだった。
床に足をつけた魚は、くるりと向きを変えイリスたちに背を向ける。
真っ先に目に付くのは背びれだった。最初にこの状態で目にしていれば、一発で魚だとわかった事だろう。
先程見た魚は大抵の者が魚の絵を描けと言われたら横向きで描くであろう状態だったため一発でわかったが、こちらはそうではなく、縦に伸びていた。頭からしっぽまでを横ではなく、縦に。そのため正面を向くとどうしても腹部分しか見えなくなってしまうのだろう。そうして、何故か人のものと思しき手足が生えているため余計に正面から見ると何がなんだかわからない。
背を向けていた魚が、かすかに身体の向きを変える。
目と目が合った。
警戒を強める一同に対し、魚が手を軽く上げる。そちらに一瞬注意が向いたのと同時に――
「えっ!?」
とんでもない速さでもって、消えた。
「……逃げた」
「向かってこられても今の速さだと正直対処が難しいけど、一体何だったんだ……?」
周囲を見回すも、既に影も形もない。今から追いかけたとして、先程の魚同様見つける事は難しいだろう。
「…………どうする?」
しばしその場に立ち尽くしていたものの、このままこうしていても仕方がない。
「どうって言われてもねぇ……逆に聞くけどイリス、君はどうするつもりなんだい?」
「えー……と……」
クリスに問われ、考える。
ここに来た目的はあくまでも姉の手紙にあった館が存在するかどうかを確かめるためで、ついでに館があるのならば適当に換金できそうな物を持ち出して母に生活費の足しにしてもらうようにするのと、ついでに自分の小遣い分をゲットするためだ。
一つ目の目的である館が実在するか、という部分はこうして館が存在したので果たしたと言える。
換金できそうな物、については、他の部屋の鍵がかかっているためまだ何とも言えない。
次にこの館の前の持ち主が姉に向けて行おうとした余興。
宝探しのようなもの、という認識で間違ってはいないだろう。
これに特にイリスが参加する義理も義務もないが、館の部屋の鍵も分散して隠してある、となると金目の物を探すならば鍵を見つける必要があるため、参加するしかない。
その余興とやらに先程の生物も関わっているかどうか、という部分はわからない。
大抵のモンスターは人間に襲い掛かってくるもの、という認識くらいイリスにもあるが、先程の魚はどちらかというとその存在を知らしめるためだけに出てきたような気がする。少なくとも、今の時点では。
ここが彼ら(彼女である可能性もあるが)の縄張りであるならば、そのうち襲い掛かって来る事もあるかもしれないが……やたらと素早いというだけで今の所特に危険な気もしない。少なくともイリスにはそう思えた。どう見てもモンスターなので油断はできないが。
「どうしたい、って言われても。騎士団的には多分ここ危険かもしれないからさっさと戻れってなるとは思うんだろうけど……姉さんが譲り受けたっていう館がどんな所なのかも気になるし、正直探索を続けたいなぁ、とは思ってるよ」
今の所はまだ命の危険に陥ったりもしていないからこそ、そう思えるのかもしれない。
「まぁ、イリスならそう言うんだろうな、とは思ってましたわ。となれば話は早いです。わたくしもお付き合い致しますわ」
即座にこたえたのはモニカだった。
「じゃあそこに私も追加で」
「あら……クリスが気になるような物なんてここには無いと思いますけれど……?」
訝しげなモニカに、クリスはそうとも限らないよ、とさらりと返す。
「勿論僕も参加します」
アレクがそう言った事で、少なくとも三名は付き合ってくれるようだ。何も言わないレイヴンの方へと視線を向ける。……こくり、と小さく頷かれた。どうやらレイヴンも一応この館の探索に付き合ってくれるようだ。
「ありがとう。それじゃあ早速……って言いたいところだけど」
「……先にあれをどうにかした方がいいだろうね」
言いにくそうにしつつも向けていた視線の先、そこには壁を作るかのように積み上げられた箱があった。
あの魚を追い詰めるための壁であるならまだしも、上の隙間からするりと逃げられる始末だ。向こうは自由に行き来可能なくせにこっちはそれが難しいとなると、逆にこちらが追い詰められる可能性だってでてくる。それに何より、移動に不便だろう。
――というわけでまずは箱を廊下の端によけていく事にした。
ちなみに箱の中は一体何に使うつもりでとっておいたのか謎なガラクタがほとんどだった。八割ゴミと言っていいかもしれない。重さだけは無駄にある箱を何とかよけて塞がれていた通路が開放されたのは、随分と後の事だった。
懐中時計で時間を確認したクリスがそろそろ戻った方がいいかもね、と告げたので、今日のところは帰る事にする。
恐らく外はまだ明るいのかもしれないが、森の奥深くに建てられたこの館の窓から見える外は既に日没後のように真っ暗だった。完全に日没後に外に出たら恐らく真夜中並に真っ暗になるんじゃないだろうか。そんな気がする。
一人で来なくて良かった。
イリスは今更のようにそう思った。




