物騒な噂があるけど真実は割とありふれたもの
昼なお薄暗い森の中をイリスは進んでいた。その後ろからは一人の青年がついてきている。
白を基調とした制服を着た、金髪碧眼の背の高い青年である。
まるで童話の中の騎士をそのまま具現化させたかのような青年は、アレク・フォンブラン・ジークロードと名乗った。その名はイリスも知っていた。むしろこの国の住民であるならば恐らく誰もが知っているのではないだろうか。
この国に六ある騎士団の中の白銀騎士団団長である。
なんだかとても気まずい思いをしながらも、イリスは歩みを止めずとにかく進む。
森の中、とはいえここも王都アーレンハイドである。決して王都の外に出たわけではない。
現在イリスが向かっているのは、王都東区にある館だった。東区は基本、貴族の別荘やら商人の豪邸やらが建てられている、ある意味で上流階級の人間が住む区域だ。本当の意味での上流層は北区になるのだが、ここも一般市民からすれば充分上流層に見える。実際何度か親の仕事の手伝いで東区にある店に立ち寄った事もあるが、一般市民が気軽に利用できるような場所ではないとイリスは思っている。
「ところでイリス。こちらへは一体どのような用件で?」
詳しい事情を一切知らない、どころか知らされていないアレクが問いかけてくる。
正直アレクは断っても良かったのだ。そもそも彼程の人材であるならば、こんな一般市民のお守ではなくもっとこう、やんごとなき身分の方を護衛するとかそっちの方が適切である。
モニカの脅しに屈したわけではないはずなのだが、なんだかんだでイリスに付き従ってついてくるあたり、彼は相当なお人好しなのかもしれない。
「どのような、って言うとまぁ、その、祖父の代理ですね。お使いです」
「おじい様の、ですか……?」
ちらりとイリスがアレクに視線を向ける。てっきりそんなくだらない事に巻き込むなという雰囲気が滲んでもおかしくはなかったが、イリスの予想を裏切ってアレクの周辺の空気が和んだような気配さえする。
孫娘がおじいちゃんのお使いに。
成程、そこだけ見ればとても微笑ましい言葉ではある。
だがしかし肝心の孫娘は別に幼女ではないし、行先は微笑ましいなんてものじゃないわけだが。
「ただちょっと、結構日数がかかりそうなんですよね」
「……? お使い、ですよね?」
少しばかり歯切れの悪いイリスに、アレクも念を押すように聞いてくる。
「えぇ、祖父の話だとそうなんですけど。ただちょっと昨日下見に行ったらすんなり終わりそうにないのはハッキリしました」
「どういう事か聞いても……?」
戸惑いを隠せないアレクに、イリスは何となく足を止めて一度アレクに向き直った。
意味がわからないとばかりに眉を顰めているアレクに、少しばかり言葉を選ぶ。
「えぇと、噂といえばそれまでなんですけど。これから行く場所、世間では『人喰いの館』とか『帰らずの館』って言われてるみたいなんです。あくまで候補扱いですけど」
「それは……あの噂の?」
「多分その噂の、です」
「……ちょっと待って下さい、イリスのおじい様の所有物件なんですか!? あれは」
何だか頭痛が酷い、みたいな表情になり、アレクは眉間のあたりを何度か揉んだ。モニカといいアレクといい、そんなに重要な事実なのだろうか。この事は。イリスにはいまいちよくわからなかった。
「いえ、違います」
「……どういう事か説明してもらえますか?」
眉間を揉むのを止めて、アレクはにこりと笑う。しかし先程までの和やかな空気とは一転、何だか険しいものへ変わった事にイリスは乾いた笑いしか出なかった。
どこから話すべきだろうか。
事の発端――この場合は『人喰いの館』がそう呼ばれるようになった事とかではなく、イリスが頼まれたお使いの方だ――は一通の手紙だった。
イリスの祖父、ジョージ・エルティートの元へ数年前に亡くなった友人から手紙が届いたのだと言う。一瞬誰かの悪戯かとも考えたが、書かれた文字は確かにその友人のものだったそうだ。
そこには、その友人が所有している館に祖父に渡したかった物があるから、取りに来てほしいと記されていた。
「館の鍵も同封されてました。ただ、渡したい物が何なのかまでは書かれていなかったみたいです。でも多分、見ればわかるものなんだろうってのがじいちゃんの言い分みたいですけど」
「それは……でしたら貴女が代わりに行ってもわからない可能性もあるのでは?」
「そうかもしれませんね。でもじいちゃんももういい年だからなぁ。だからとりあえずそれっぽい物を見つけたらじいちゃんのとこに持っていけばいいかなって」
渡したい物。取りに来いというのであれば、そこまで大きな物でもないはずだ。イリスの手に余るような物であればその時はまた考えるとして。
何かを考え込んでいるアレクは、ややあって顔を上げた。
「……ふむ。建造物に不法侵入の上持ち物を勝手に持ち出す、というのであれば問題ですが館の所有者から鍵を預かり一応の許可は得ている……となれば、特に問題はないでしょう」
「問題は昨日さらっと見てきたら、結構老朽化が進んでてある程度修理しながらじゃないと行けない部屋もあるみたいって事なんですよね。だから、結構時間かかりそうで」
「そうでしたか。わかりました。そういう事なら私も手伝いましょう。お役に立てるかはわかりませんが」
「えぇっと……それは助かりますけど、本当にいいんですか?」
モニカは友人だからまぁ、そういう申し出があっても問題はない。けれどアレクはモニカに言われてやってきただけだ。そして白銀騎士団の団長という立場から、恐らくは相当忙しいはずなのだ。助けになるというのは有難いし頼もしいが……本当にいいのだろうか?
昨日館に軽く足を踏み入れた段階であまりのボロさに「うわーぉ……」なんていう声が自然に出た程だ。一階部分を軽く見て回った程度だが、一階でこれなら二階は果たしてどうなっている事やら……
穴が開いていた場所もあったし、それらを塞ぐ板を運ぶのを手伝ってもらうだけであっても大助かりではあるのだが。
しかし同時に白銀騎士団の団長様を、荷物持ち扱いしていいのだろうかという思いも浮かぶ。
……大丈夫? うちの団長に何てことを! とかって他の騎士から刺されたりしない?
完全に被害妄想だと思うのだが、有り得ない展開ではないなぁ、と思ってしまう程度には現実に起こりそうな展開なのだ。
イリスのそんな警戒をどう受け取ったかはわからないが、アレクはかすかに微笑むとそっとかぶりを振った。
「いえ、こちらこそ願ったり叶ったりです。あの館に足を踏み入れる理由ができたのですから」
「……ん? という事は、騎士団はあの館に入った事ないんですか?」
「えぇ、残念ながら。実際あの館に足を踏み入れて帰った者がいないという噂もありました。そこに行ったきり帰ってこない者がいる、なんて話も耳にした事はあります。けれど、本当にその館に立ち入ったのか、そしてその結果戻ってきていないという証拠がないんです。
何度か肝試し感覚で忍び込もうとしていた人物を見かけて注意はした事がありますが……」
そこでアレクは一旦言葉を切った。ほんの少しの逡巡。
「例えば、ですが。肝試しで侵入して何らかの事件か事故があったとします。そしてそこから脱出。連れだけが戻ってきていない、なんていう訴えがあればこちらも強行突入できるのですが、そういう訴えがなければこちらが勝手に立ち入る事はできないんですよ。
中を調べるにしてもまずそこの所有者に話を通さなければなりません。余程の緊急事態が生じたなら話はまた違ってきますが。
ですがイリスがこれから向かおうとしているその館は、そういった緊急性がありすぐさま突入しなければならないわけでもなく、また誰かが館に入り込んで出られなくなったという訴えもない。
そうなると正規の手順を踏まないといけないわけですが……その館は所有者不明という事で現在調査中だったんです」
「あぁ、強行突入した後でそこの所有者から文句がこないとも限りませんもんね」
「そういう事です。しかし……その、イリスのおじい様の友人が所有者だったとは……念の為その方のお名前をお伺いしても?」
「あー……ごめんなさい。そこまでは聞いてないんです。今度聞いておきますね」
「そうですか、助かります」
話の途中で再び足を動かし始めたので、世間話なのか尋問なのか微妙に判断のつかない会話をしているうちに、目的地でもある古びた洋館が二人の視界に映し出される。
噂の真偽に関わらず、その外観は充分ホラーだった。あまり日当たりのよろしくないその場所にある洋館は、日が沈んだ後ならば魑魅魍魎が跋扈している、などと言われてしまえば誰もが信じてしまいそうな程だ。おどろおどろしい。気の弱い者が目にすれば、その時点で既に涙目になっている事だろう。
真偽はさておき『人喰いの館』『帰らずの館』などと称されている館だが、イリスが平然としているのにはわけがあった。確かに幽霊が棲みついていそうな不気味な館ではある。イリスも何も知らなければきっとそれなりに怖がって噂話に乗っかってキャーキャー言っていたかもしれない。
鍵は現在手元にある。しかし昨日下見に来た時に壁にぽっかりと穴が開いていたので、侵入しようと思えばできない事もない。その穴は昨日のうちに何とか塞ぐ事に成功したが。
昨日の時点では別に何かが潜んでいた様子もない。だからこそイリスは噂の原因は案外大したものではないのかもしれない、と思ってしまったのだ。
肝試し感覚で侵入したものの、あまりの古さに床をぶち抜き怪我をして帰ってきた誰かが照れ隠しか何かで『帰らずの館』『人喰いの館』などと言っているだけではないだろうか。
確かに行方不明者が出たという話も耳にしたことはある。けれどそれも恐らくは家出した誰かの話をこじつけたか、行先がわからない相手がきっとここに行ったに違いない! などと根拠もなく決めつけられただけなのでは? という風にしか思えなかった。
何というか、友達の友達から聞いた、という出だしで始まる怖い話のようなものでただの作り話か、うっかり不法侵入してしまった誰かが話を大袈裟に盛っているだけ――真実はどうあれイリスの中ではそれが答えになってしまっている。
それはアレクも同じようなものなのだろう。面白おかしく脚色されたただの噂話。とはいえ彼は騎士団の人間でもある。王都の平和を担う役目がある。だからこそ、噂の真偽をはっきりさせるために一度くらいは調査をしておくべきだと考えていたようだが。
思いもよらないところで利害が一致した、と考えるべきだろうか。
かくして、お使いに来ただけの一般市民と、巻き込まれる形で同行する事になった騎士は館へと足を踏み入れる事になったのである。